待っている山 (3)

「……では、失礼します」


 声をかけ、恐る恐るこもをよけて、館の中に入る。


 薦の向こう側には広間がひとつあり、その広間の壁は細い竹で飾られている。竹の色は爽やかな黄土色で、そのせいで、広間には爽やかな気配があった。


 奥の竹壁の前に、老女が座っていた。実の名を水媛といい、土雲の一族の長、「土雲媛つちぐもひめ」をつとめている。


 土雲媛は五十をすぎ、肉が削げ落ちたように細い身体に、八色の染め具で彩られた衣をまとい、白くなった髪を肩に垂らしている。


 土雲媛の正面まで歩いて、ひざをつき、頭を下げる。無言の挨拶が済むと、土雲媛が声をかけた。


山魚様やまうおさまの儀、ご苦労でした。なにか変わったことはありましたか」


 いったいなんの話をしているのか、わからなかった。


「山魚様の儀って、なんのことですか」


「なんのことですかって、今朝、いってきたでしょう。ハルフに呼ばれて、夜中のうちに山の頂きに登ったはずです。急のお役目、ごくろうでした」


「もしかして……今朝のことをいっていますか。夜中のうちにわたしを起こして、目隠しをして、縄でくくって、山頂の湖に連れていって、そのうえ……」


 そうだ。セイレンは、抗えないように布団の中で縄でくくられて、無理やり山頂の湖へ連れていかれ、そのうえ、そこで殺されかけた。


 それは土雲媛の命令だったと、ハルフは匂わせていた。


 土雲媛――つまり、いま目の前にいる老女……実の祖母のことだ。


銀笹ぎんざさと指笛で山魚様をお呼びして、お姿を見たのでしょう? すこし前の春来はるこの日に、山魚様の儀に出かけたのはシシ爺とイシルだったけれど、二人は山魚様が小さくなったと話していました。今朝、山魚様のお姿はどのようでしたか」


「――なんの話をしているんです? あれは山魚様の儀なんかじゃありません。ハルフは、わたしを――」


「お姿を見たんでしょう? 大きさはどうでしたか。前にシシ爺は、すでに十尋になったといっていましたが――」


「いい加減にしてください! あなたがハルフに命じたんでしょう? 石媛の罪をわたしにかぶせて、殺せといったんでしょう?」


 土雲媛は、今朝起きたことをなかったことにしたいのだ。


 毒の湖に投げ入れてセイレンを殺そうとしたくせに、あれはそうではなく、ときどきおこなわれている儀式だといいたいのだ。


 顔を上げて凝視するセイレンを、土雲媛は咎めた。


「セイレン、姿勢を正しなさい。土雲媛の前で、お行儀が悪いですよ。――それにしても、十尋とは、小さくなりましたね。そのぶん、この山の毒が消えたのでしょうから、大地の毒を清めるという我らの役目が果たせているということ。よきことです。でも、次の山を探さないと、私たちは土雲ではいられなくなってしまう――。すでに何人も、新しい〈待っている山〉を探す旅に出させているのですが、いまだいい便りはありません」


 土雲媛はうなずき、顔を赤くするセイレンを見つめた。


「それはそうと、実は先ほど、おまえたちが里を出てから、たいへんなことが起きました」


「こっちの話をききもしないで――。まずは謝ったらどうです。自分の過ちを認めたらどうなんですか」


「お行儀が悪いですよ。土雲姫は大地の神の裔。おまえと私は、対等ではありません。口ごたえは許しません」


 土雲媛の力は、土雲の一族では絶対だ。


 苛立ちは募るいっぽうでおさまりようがなかったが、仕方なく口をつぐむ。


 土雲媛は話を続けた。


「実は、今朝、石媛を訪ねてきた男がいたのです」


「石媛を訪ねた、男?」


「ええ。それで、おまえに頼みたいことがあるのです。山を下りて、その男の守り人になってほしいのです」


「守り人?」


「ええ。実は、今朝、この山を登ってきた男は、山の下にある国の若王だったのです。守り人というのは、自分の身を守らせる武人だそうです。その男が、ぜひとも石媛を、自分の守り人にしたいというのです」


「武人て、はあ? 石媛を?」


「その若王は、昨日、偶然この山に登ったのだそうです。その道中に、石媛に命を助けられたとかで――」


「待ってください。石媛が、助けた? その人、男でしょう? あの石媛が、男を助けた? 石媛は武術も習っていないのに――」


「石媛にきくと、〈雲神様の箱〉を使ったといっていました」


「〈箱〉……ああ――」


 セイレンは、納得した。武術を習ったり、身体を鍛えたりしていなかったとしても、薬の知恵と土雲の一族の身体があれば、それなりのことができるだろう。


「でも、石媛が武人になるなんて――」


「ええ、もちろん。いずれ、どこかの山の上で土雲姫を継ぐ娘が、山の下の王に仕えるなど、ありえません。ですから、セイレン、おまえに石媛の代わりを頼みたいのです」


「はい?」


「おまえと石媛は瓜二つなのですから、おまえがいったところで、その男はきっと気づかないでしょう。石媛の代わりにその男に仕えて、守り人になってきてください。――よかったわね、セイレン。双子の妹として、ようやく石媛の役に立てるときが来ましたね」


 土雲媛の口から「双子の妹」という言葉をきくと、唇が震えた。


「いったい、なんの話ですか」


「その男は、名を雄日子おひこといって、山の下では広く名の知れた若王です。私も、名だけはきいたことがあります。山の下ではしょっちゅう戦が起きていますが、その若王も戦をする国の男王です。――石媛を守り人にしたいと頼まれたとき、私は、一族の媛を差し出すなど無理だといったのですが、その男は、応じなければすぐに軍勢を向かわせて、この山ごと燃やすといったのです。――その男は、無礼で、我ら土雲を、剣と矢で滅ぼせると思っている浅はかな男です。いったいどうすべきかと考えあぐねて、神の土穴で大地の神にお伺いをたてたところ、大地の神は、我らの技で無礼の罰を与えるには気が早いとおっしゃいました。ですから、まずはおまえが石媛のかわりにその男のもとに出向いてください。その男が信用に足る男なのか、そうでないのかを、まず見極めなければ――」


「いったい、なんの話ですか!」


 思わず、声を大きくした。


「それで、わたしが石媛の代わりにその男の守り人になりにいけと、そういうわけですね。わたしは災いの子で、あなたからも母からも見放され、捨てられました。それなのに、いまさらうまいこと姉姫の役に立てと、そういっているんですね。なんて虫がいい……」


 叫んでいないとつらいほど憤ったが、土雲媛はのんびりしていた。


「仕方がないのですよ、セイレン。双子に生まれたのが悪かったのです。双子というのは、日が当たるのが姉で、妹は影の存在になると、そう決まっているものです。――山に棲む鷹の双子をごらんなさい。鷹などは、親からも姉からも、妹は殺されるのですよ」


 それは、幼い頃からセイレンがぐずるたびにもっともらしくきかされた話だった。



 双子というのはとても不吉なもので、獣などはとてもひどい扱いをされる。


 だから、おまえの場合は、先に血のつながりをなかったことにして、双子ではなくしてしまったのだよ――。



 祖母の土雲媛や、母の土媛は、セイレンを家から追い出したのは「おまえのためだ」といったが、セイレンからしてみれば、そのやり方はよっぽど不親切だ。


 災いの子として、一族の連中から妙な目で見られたり、悪さをされたり――ひどい目にあうために生きながらえさせられている、と。


「わたしは鷹のほうがよかった。鷹みたいに、とっととわたしも殺したらよかったんだ。あなたと、母と、それから、石媛も一緒に、手ずからわたしの首を絞めて、わたしの息の根を止めればよかったんだ」


「口が過ぎますよ、セイレン。なぜ、おまえをフナツに託したのかがわからないのですか。私と土媛は、おまえを守るために――」


「……同情してるんですか。いまさら――冗談じゃない」


 かわいそうだと思うなら、いまではなくて、もっと前に思うべきだ。


 いまではなくて、この子は孫娘ではないと追いだした幼い頃に、もしくは、石媛の罪をかぶせて殺せとハルフに命じたときに思うべきだ。


 そう思うと腹が立って、目頭が熱くなった。


 目を逸らして横を向き、立ちあがった。


「――いくよ。その、守り人ってやつになってやるよ。姉姫の身代わりになれるなど、身に余る栄誉だ。と、そういえばよろしいでしょうか」


 いうだけいって、背を向ける。


 乱暴に簾を跳ねのけて、外に出た。


 大宮を駆け出ると、山の茂みを目指した。里人が入らないけもの道をいき、いけるところまで進んでから、木の幹にしがみついて泣いた。


「あの、くそばばあ! きれいごとばっかりいいやがって――なにが、わたしを守るため、だ。今朝なんか、石媛のためにわたしを殺そうとしたくせに――。下手な芝居ばっかり打たせやがって、なにが――!」


 目の周りが腫れて重くなったのがわかるほど、泣き続けた。


 泣くのに飽きると、地面に寝転んで、木々がつくる枝葉の隙間から、青空を覗く。


 涙は止まったが、目の周りがぷっくり腫れてしまって、気持ちが悪かった。


 くたくたになるほど殴られた後のような気分で、ひどく疲れた半面、妙にすっきりしていた。


 青空から目を隠すように手で覆いをしながら、自分にいい聞かせた。


「もういい、いこう。この里を出よう。こんなところ、帰ってくるもんか――」






 雄日子という名の若王から遣わされた使者は、その二日後にやって来た。


 旅支度をしたセイレンは、渋々と土雲媛の大宮へ向かい、そこにいた土雲媛と土媛――祖母と母に形ばかりの別れの挨拶をして、早々に外に出る。


 すると、そこには、自分にそっくりな娘が立っていた。


 双子の姉の石媛だった。


 顔も背格好もセイレンと似ていたが、身なりと雰囲気はまるでちがった。


 セイレンは、腕にも腰にも武具帯が巻かれて、小袋や小刀や吹き矢がずらりとさがり、遠出をするときの姿になっている。髪も、十以上の房に細かく結われて、それぞれの房に小さな髪飾りを結わえている。


 石媛のほうは、手首まで隠れる長い袖の上衣に、足首まで垂れる長い裳を身にまとっている。髪も、背中に垂れるようにゆったり結われていた。


 石媛の顔はセイレンの顔にそっくりだったが、その日に限って、まるで違う部分があった。


 石媛の目は真っ赤になっていて、泣き腫らしたように、目の周りはぷっくり腫れていた。


 その目と目が合うと、セイレンの胸はすっと静かになった。


「ひどい顔をしてるね、石媛。たくさん泣いたの?」


 苦笑していうと、セイレンの目の前で、石媛の目にじんわりと涙が溜まっていく。


「ごめんなさい。悪いのは私なのに――まさか、あなたをこんな目にあわせることになるなんて、思わなかったの。ごめんなさい、セイレン……」


 双子の縁は切れたといわれていても、セイレンと石媛のあいだで、その縁は一度たりとも切れたことがなかった。


 石媛は、母や祖母ほどセイレンを煙たがらなかったし、会えば普通に話をした。仲の良い友人のように喧嘩をすることもあった。



あんたくらいだよ。そんなふうに泣いてくれるのは。

 ――だから、もういいよ。



 そういいたくなって、唇の内側に言葉を溜めた。



 別に――あんたの代わりに厄介なことが起きるのは、いいんだ。

 もともとわたしは、生まれたときからそういう役回りで、慣れっこだし。

 それに、わたしはあんたより強いし、頑丈だから、あんたがするより、わたしがやったほうが、苦しみは感じないだろうから。

 あんたのほうも、厄介なことが起きたんだろう?

 あんただって、つらいだろう。



 石媛の涙を見ていると、胸の底から、いろいろな思いが湧きあがってくる。


 いざ言葉にしようと、唇をひらきかけたとき。石媛はセイレンを向いて、ぽつりといった。


「あなたは、これから山を下りるの?」


「ああ、そうだよ。ふもとに、雄日子って奴の迎えがいるんだって」


「雄日子様――あの方のお迎えが――いいなあ、セイレンは……」


「え?」


「私も、里から出てみたかった――。山を下りて、山の下の暮らしをしてみたかった……」


 その瞬間、セイレンの中にあった優しい気持ちがまたたくまに凍って、冷えていった。


「なんだって? ふざけるなよ――」


 低い声でいうと、石媛はぱっと唇に指を当てた。


「ごめんなさい。でも――」


「でも、なんだよ。なにが『いいなあ』なんだよ」


 あまりに腹が立って、泣き喚くようにいった。


「わたしはこれまで、山を下りたいと思ったことなんかなかった。あんたは馬鹿だ。あんたも、かあさまも、婆様も、みんな土雲媛は馬鹿ばっかりだ」


「ちがうの、セイレン。ごめんなさい、そういう意味じゃないの。私が悪いの。私のせいで、あなたに――」


「なにがちがうんだよ。あんたは、里中の奴らがあがめる聖なるお姫様なんだろう? いい加減なことを口にするんじゃないよ。間違うのがあんたのほうでも、わたしが間違ったことにされるんだよ。――だいたい、ぬくぬくと育ってるから、あんたはそんなにいい加減になるんだ」


「えっ?」


 石媛はすこし腹を立てたようだった。心外だといわんばかりに眉山をついと寄せるが、その品のいい所作が、気に食わなかった。


「知ってるか? あんたが大事な宝珠を失くしたせいで、わたしは殺されかけたんだぞ? ああ、あんたは間違いなくぬくぬく育ってるよ。だから、下っ端のぎりぎりの暮らしを知らないんだ。土雲媛なんか――あんたらがやってるのは、着飾って品がいいふりをする稽古だけだ!」


「セイレン、土雲媛のことを悪くいってはいけないわ。土雲媛は、大地の神の声をきいて土雲の一族を導く、尊い人なんだから……」


 石媛は唇を結んで黙った。


 その唇の噛み方はやたらと品がよく、同じ顔、同じ背格好をしている双子の姉とはいえ、まるで別人だとセイレンは思った。


 似ているどころか、顔以外はどこもかしこも逆、そうも思った。


「なにが土雲媛だよ。いくら尊くたって、偉くたって、土雲媛なんか、わたしにとっちゃ災いそのものだ。あんたらは散々わたしのことを災いの子だっていっているけど、どっちが災いなんだかわからないよね。わたしにとっちゃ、土雲媛のほうが災いだよ」


「セイレン――!」


 土雲媛の味方をする石媛が、許せなかった。


 冷たく睨みつけて、背を向けた。


「さよならだ、石媛。もう二度と会わない」


「セイレン――」


 背後から石媛の声がしたが、振り返る気は起きない。


 早足で歩いて石媛から遠ざかりつつ胸の中で思った。


(ああそうだ。あんたは知らないだろうよ。わたしが、どんな思いでお役目や稽古に熱中していたか。どうして男みたいに武術に夢中になって、なぜ乱暴な話し方や態度をとるようになったか――。あんたと同じ女だと思いたくないからだ。男なら、とうさまや爺様のように、女系の家を追い出される理由もわかる。でも、女だったら――どうして追い出されたのかが、わからないじゃないか)


 勢いよく里の果てを目指しながら、目に入る景色すら疎ましく思った。


 道に沿って並ぶ雲柳の木々や、水場に、囲いに守られた農地――。


 どの景色を見ても、目が懐かしんだり、悲しんだりすることはない。


 むしろ、目の奥に飛び込んでくることすら疎ましくて、頭を振り乱すように目を逸らしながら、さらに早足になって駆けていった。




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