序、土雲の山 (2)

「なんと、山代やましろのほうまで呪術のたぐいか」


 麁鹿火あらかびを問い詰めていたのは、大伴おおとも一族と、物部もののべ一族のそれぞれのおさ


 大伴おおともの長は名を室屋むろやといい、物部もののべの長は麻佐良まさらという。


 麻佐良まさらにとって、麁鹿火あらかびは嗣子。室屋むろやからみても、麁鹿火は、ともに都を守る任を継ぐ武人一族の大切な跡取りだ。


 室屋むろや麻佐良まさらも、麁鹿火の敗北を咎めることはなかった。


「よく無事に帰ってきてくれた。この大事な時におまえを失わなかったのは、幸運というほかない」


 麻佐良がいうと、室屋も「うむ」とうなずいて顎髭をいじる。


「娘が笛のようなものを、か。先日、樟葉くずはが攻められた時も、樟葉の兵はなすすべもなく平伏したと噂が立っていた。その噂も、その娘の仕業だったのかもしれぬな。麁鹿火、おまえが無事に帰ったおかげで謎を紐解くことができたのだ」


 麁鹿火をねぎらい、話をいち段落させると、麻佐良と室屋、一族の長同士の話がはじまる。


 どちらの顔も、憂いで暗く翳っていた。


「しかし、行方のわからなくなった斯馬しばが、雄日子おひこ様のもとにいるとは――」


「呪いに阻まれて陸の上を進めぬとなれば、次に使うべきは船だが、このぶんでは川岸にも陣を張っているだろう。船でいけば、矢の的にされてもおかしくない――青二才が」


 室屋が横顔を向け、息を吐く。


「樟葉に、湖国の船が並んでいるだけでも腹立たしいというのに。――急ぎ、川沿いの里をひとつひとつ回らせよ。大王への服従をいま一度誓わせ、湖国に関わる者が近づいてくれば捕え、夜もすがら歩き通してでもしらせよと、きつく命じておかねば」


「うむ。泉川を守らねば。泉川をさかのぼられれば、とんでもないことになる」


「樟葉か――厄介なところに目をつけられたな」


 樟葉は、倭の方角から流れる泉川と、湖国の淡海あわうみから流れる宇治川うじがわと、賀茂かもの方角から流れる葛野川かどのがわ、三つの川が集まる合流地に位置する。


 三つの川は樟葉の都のそばで淀み、巨椋池おぐらいけを潤したのち、一本の大きな川となって難波なにわの海へと注ぎ込む。


 雄日子がその川のそばに湖国の兵を居座らせるということは、海と飛鳥を繋ぐ川の道のうちのひとつが封じられたに等しい。


 湖国の勢力が、さらに泉川の上流へと伸びようものなら、それはそのまま、大王側の力が及ぶ領土くにを侵されることを意味した。


「泉川を死守せよ。川里を守れ。すぐさま兵を向かわせよ」


 麻佐良まさら室屋むろやの口から、ふう――と長いため息が漏れた。


「樟葉をおさえられた以上、淀川の水運を見張られたも同然だ。雄日子様を湖国へと押し戻さねば、川の行き来に難が生じる」


「雄日子様もおわかりなのだろう。だからこそ、居を構える場所として樟葉を選んだのだ。あそこには男山がそびえていて、自然の物見台になる。船団だろうが、陸を伝う兵団だろうが、あの山の上から見下ろされれば、丸裸だ」


「かといって、このままでは湖国側に陣を整える時を与えるだけだ。どうする」


 いらいらと爪を噛む室屋のそばで、麻佐良も額を掻いた。


「考えるのだ。必ず穴はある。――そうだ、人死にが減っているではないか」


「人死にが?」


「ああ。これまでなら、飛鳥に戻ってくる兵はほとんどいなかった。賀茂から逃げてきた兵は乱の様子を知らせ、深草からもほぼ全員が戻った」


「それが――」


「つまり、だ。たくらみが大雑把になってはいないか? 前ほど一つ一つの策に手をかけていないように思う」


「気が大きくなって、隠そうとしなくなった――とも考えられる」


「そうだが、雄日子様が一度に手を広げすぎているのは確かだ。従えるものが大きくなれば、守るのも苦労する。足場が固まっていない今のうちに叩くべきで、時を与えるのは得策ではない。一か所をうまいこと崩してすべて崩落させることも、今なら狙えよう」


「しかし、どこを狙う? 腕のいい窺見うかみが要るぞ。すばやく確実に湖国側のことを調べあげ、飛鳥に戻ってこられる、有能な窺見が――」


「いるではないか。やまとが誇る窺見うかみが。霊し宮の呪術師ならば、鳥に魂をのせて、男山よりよほど高い場所から兵の数と動きを探ることができる……」


 麻佐良は目を大きくみひらいたが、はっと我に返ると目を逸らし、息をついた。


「そうだった。――斯馬しばがいないのは痛いな」


 し宮の呪術師は魂を操る技を心得ていて、おのれの魂を鳥や獣に乗せ、はるか彼方のことを調べる力をもつ。普通の人には真似のできない窺見うかみの役をこなすことができた。


 しかし、し宮のおさ斯馬しばは、雄日子のもとにいるのだという。一番弟子として仕えた柚袁ゆえんという男も、ほかの呪術師たちも、斯馬について倭から出ていったのだった。


 室屋も息をつき、寄合に集まった面々を見渡した。


「いないものを頼っても仕方ない。腕のたつ窺見を探すことにしよう。ほかの者は、戦の支度をせよ。力が熟しきっていない今のうちに、大王の威光を顕さねばなるまい」






 軍議が終わるなり、麁鹿火あらかびは館を後にした。


 その場にいることが、つらくてたまらなかった。


 早足で庭に出た麁鹿火は、青空を見上げた。


 庭の隅で、顔を隠すように館に背を向けていると、足音が追ってくる。


 世話役をつとめる武人で、名を火輪ひのわといった。


「若――」


「悔しいし、悔しいし……悔しいんだ」


 背後まで歩み寄ってきた火輪にこたえた時、麁鹿火は泣いていた。頬に涙の筋をつくりながら、麁鹿火は空を見上げて、声を震えさせた。


「雄日子様とやり合ってやるといきがっていたくせに、あっさり敗れちまったのも悔しいし、生きていてよかったと慰められたのも、屈辱だ。それに」


 雄日子の軍と相対した時のことを思い返すたび、麁鹿火の目の奥に焼きついて離れないものがあった。


 街道に罠を張って敵軍を待ち伏せ、動きを乱した時の昂揚は、いいようもなく愉快なものだった。


 そら、読みが当たった。勝負がはじまった――。


 逃げに転じた敵軍を追う時の、狩りを愉しむ時のような優越感。


 敵はすべて騎兵であいにく逃げ足が速いが、麁鹿火の側にも騎兵はいた。


 一人でもいい、生け捕って虜囚にしろ。謎に満ちた湖国の若王の手の内を紐解く手がかりを得よ――と、殿しんがりの兵を果敢に追った。


 敵は馬の扱いに長け、ほとんどが先にいってしまったが、逃げ遅れた騎馬が一騎おり、逃してはならない獲物だと、血がたぎった。


「殺すな、生け捕れ」


 もう追いつく。もうすぐだ。飛鳥への土産にしてやる――。


 追いかけた麁鹿火の軍には百人がいて、対して、相手は一騎。


 負ける算段は、まったくなかった。


 しかし、追われた敵の武人は、たった一人で馬を下りて剣を抜き、百人を待ち受けた。


 目の奥から離れないのは、その武人の雄姿だ。


 思い出すたびに麁鹿火の目に涙を浮かべさせる。


 その男は、真っ向から勝負を挑む目をしていた。


 たった一人で敵軍と相まみえたくせに、負け戦に命を差し出す嘆きは一切なく、その男の目は、一対百の大差でも勝つ気でいた。


 目が合ったその時に、麁鹿火は気迫の勝負で敗れたのだ。


「なあ、火輪ひのわ。あの男は、どうしてたった一人で俺たちに挑んだのだ。たった一人だぞ? たった一人で俺たちを蹴散らすつもりだったのか」


「たんに逃げ遅れたのでは――」


「違う。あの男の目は野生の刃のようだった。武家の嗣子だの、豪族の子だのと、都でぬくぬくと育った生ぬるい俺みたいのとは違ったんだ。気迫や殺気に種類があることすら、俺はあの男を見てはじめて知ったんだ。俺が知るやまとは狭かったのだ」


 麁鹿火は、頬にこぼれた涙を拳で拭いた。


「俺たちは飛鳥と難波のことしか知らない――それを痛感した。この世は広く、俺たちが知らないもの、羨むものを当たり前のように抱えている者が、たしかに居るのだ。あの武人が命を懸けたのが一人の男を守るためだったというのなら、雄日子様という男にも会ってみたいと思った。荒籠あらこすら、命を差しだした相手だ。俺を裏切ってまで――くそ」


「若――」


 火輪ひのわの眉が、不安げに狭まる。


 麁鹿火あらかびは笑って、振り向いた。


「心配するな。倭は国のまほろば。代々の大王や群臣まえつきみが遺した飛鳥は、素晴らしい都だ。ただ、恐れるべきものは外にもあると、肝に銘じただけだ。必要だろう? ――帰ろう。次の戦にそなえて鍛え直さなければならない」


 さあ、やしきに戻ろうと、踵を返したところだ。


 宮の門へ向かって歩く麁鹿火を捜して駆け寄ってくる武人がいる。部下の一人だ。


 武人は麁鹿火のそばで足をとめ、頭を下げると、いった。


「若、朗報です。たった今、難波なにわから急使が着きました。百済くだらに出かけられていた金村かなむら様が、難波にご帰還とのこと」


「金村?」


 金村というのは、麁鹿火の幼馴染だ。


 物部氏と対をなす大伴氏の嫡男で、麁鹿火と同じく、武人一族として大王に仕える豪族のすえ


 いずれはともに手を携えて倭を守る長になる同士で、どちらかが死ぬまで、一生を通しての長い付き合いになるが、麁鹿火はその男が苦手だった。


「なにが朗報だ。あんな大陸かぶれ。よけいな奴が戻ってきて、よけいに都が混乱しちまうよ」

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