序、土雲の山 (1)

 空から血が降りてくる――。

 どろりとした血の塊が――。


 夜の森は、いつもどおり。獣や鳥たちで騒がしい。


 食い合いをする獣が落ち葉を踏んで駆けまわり、威嚇をして唸る声が虫を脅し、梟の声が闇を見張る。


 飛鳥の都を出て、深草ふかくさへ向かった小勢は、沼のほとりで不意打ちを食らうことになった。


 兵の数は二十。数こそ少ないが、深草の宮に住む秦氏はたしおさのもとへ出向くくらいなら、これくらいが都合がよい。


 大王おおきみに叛逆する湖国の若王、雄日子おひこというならず者がいる。恐れ多くも騎馬にて王宮に近づき、馬を並べて囲もうとしたという。


 秦君はたのきみは、その若王に手を貸した。大王に仕え、さまざまな恩を受けてきた身でありながら、だ。


 いったいどういうわけなのか大王のもとで釈明せよ、と連行するのが、一団に与えられた使命だった。


 山代やましろの川沿いには、あちこちに沼がある。草原がひろがり、木立がぽつぽつ見え、飛鳥の方角から流れくる泉川いずみがわのそばを進めば、水音が大きく聞こえたり、遠ざかったりしながら、絶えず響いている。


 草むらには沼地を好む水鳥の鳴き声が響き、羽化したばかりの羽虫が月光のもとで白い綿くずのように舞う。


 ある時、ふと闇が冴える。宙を舞っていた羽虫が、草の陰に身を潜めた。


 水鳥の鳴き声も、虫の声もやんだ。


「なんだ……」


 二十人の足が止まり、怯えた目が、闇に包まれた森の奥を向いた。



 なにかがいる――。

 待ち伏せをしているなにかが、襲いかかろうと見ている ――。



 軍長いくさのきみは、息を殺した。


「集まれ――」


 沼地は広い。泉川を道しるべに進んでいたが、人里から離れた場所まで進み、あたりには無人の闇がひろがっている。


 木々はまばらに点々と立ち、どの幹の陰に人が潜んでいてもおかしくない。



 どこにいる、こっちか、そこか――。



 ひときわ胴回りの太い大樹の向こうで、ざっと土が擦れた。


 黒い影になった樫の木の奥、果ても見えぬほどの漆黒の闇の方角から、ザッ、ザッと落ち葉を踏んで足音が近づいてくる。


「獣か?」


 人の足音にしては俊敏すぎる。駆け音からすると、四つ足の獣だ。


「鹿?」


 迷い鹿ではなさそうだ。


 操られたように、まっしぐらにこちらへ駆けてくる。


「陣を組め」


 襲撃に備えよと、軍長いくさのきみの声が張った、すぐ後のこと。


 行く手の暗闇から、影が飛び出した。


 現れるなり影は頭上高い場所まで跳ねて、月の光を隠しながら兵の群れに襲いかかる。


 熊のように大きいのに、動きが速い。


 影は、獲物を蹴散らすことだけを愉快がるようだった。兵の頭の上へと降ってきて、人が倒れればまた高い場所へと飛び跳ね、別の兵の群れを狙って夜風を踏んだ。


 わあ、あぁと悲鳴があがり、武装した男が次々と倒れていった。


 軍長は、自軍が崩れていくありさまを茫然と眺めた。


「こいつは、血の鹿だ――」


 影は鹿の形をしており、純白の鹿角かづのが頭上で夜天を衝いている。周りが暗いせいで身体が黒く見えるが、まことの色は赤いはず――呪術師の手でつくられた、血の色をしているはずだ。


 霊獣だ――。


「逃げろ。あいつに触れると動けなくなる!」


 しかし、その時にはもう、立っている男は数人しかいなかった。


 ほとんどの兵が、重なり合いながら土に倒れている。


 たぷん……。ねっとりと重い水音が響き、鹿の姿をした不気味な生き物が、草の上にふわりと立った。


 鹿の鼻先は、まっすぐに軍長いくさのきみの顔を向いている。


 軍長は、奥歯を噛みしめた。


 夜の沼地に現れた呪いの獣――血の鹿は、無茶苦茶に人を襲っていたわけではなかった。おさの自分をわざと残したのだ。


 ならば狙いは、威嚇か、交渉か。

 

 しかし、腑に落ちない。


「なぜ、血の鹿がここに」


 血の鹿というのは、し宮の呪術師がつくりあげるまじないの獣だ。血でできた身体をもち、大王おおきみみささぎを守るために放たれる、いわば、大王の陵守はかもり


 それが、なぜこんな森の中にいるのか。なぜ大王の軍を襲うのか。


 ザッ、ザッ――と、草を踏む音がふたたびきこえる。


 次はなんだと目を見張ると、血の鹿のうしろに人影が二つ現れた。 


 身なりは大陸風で、飛鳥では珍しい深袖がついた衣装を身につけている。


 軍長の目が、見開かれていった。


「あなたは、霊し宮の……斯馬しば様、それに、柚袁ゆえん様」


 闇の奥から現れたのは、し宮という呪術師の宮で長を務める男と、その一番弟子だった。


 斯馬は、大王と大臣おとどの相談役を務める識者でもある。


 小柄な男で、日々鍛錬をおこなう軍長と比べると胴回りは半分ほどしかないが、斯馬は真っ向から軍長を見つめていた。


「立ち去ってください。そして、ここは通れないと大臣に伝えてください。ごらんのように、この森には血の鹿を潜ませています。飛鳥の者が深草宮を訪れることはできません」


 軍長はかっとなり、一歩前に踏み出した。


「お行方知れずと噂になっていたが――どういうことです。我らは大王の命を受けて訪れているのですぞ。霊し宮の役目は、大王の御身と都の守護ではないですか。その呪術師が、恐れ多くも大王のご意向にそむくおつもりですか。ここで我らを阻むということは、秦君を守り、ひいては逆賊、雄日子様を助けているということですか。いったいいつ寝返ったのですか。恥を知れ!」


 斯馬は、こたえなかった。


 隣にいた弟子の男、柚袁と目を合わせると、揃って両手を胸の前に組む。


「早く去りなさい。そうしなければ、二度と出られない場所に閉じ込めてしまいますよ」


 斯馬と柚袁は、鎧も武具も身に着けていなかった。


 どちらも学者風で、非力に見える。でも、武具を振りかざして脅そうがうろたえる素振りは見せず、それどころか、たった二人で軍を阻もうとした。


 二人の口が動き、小声でぼそぼそと喋りはじめる。


 咄嗟に、軍長いくさのきみに不安が押し寄せる。


(呪術だ)


「退け」


 倒れた仲間を引きずり、森から引き返すことになった。






 湖国の若王、雄日子の軍が樟葉くずはに攻め入った。

 秦氏の長、秦君はたのきみにも、謀反の疑いあり。

 秦氏の宮のある深草ふかくさへ向かい、くわしく調べてまいれ。



 そう命じられて旅立ったはずの軍勢は、深草に入ることすらかなわなかった。


 言葉少なにうつむきながら軍勢が戻ってくると、都を守る役を負う二つの豪族はさっそく参集し、膝をつき合わせた。


 集まったのは、大伴おおともの一族と、物部もののべの一族。


 ともに、稚猛武王わかたけるぶおうの御世から大王を側で守る武人の家系だ。


 寄合の場となった館の中で、深草から戻った軍長いくさのきみは、額を床につけて平伏した。


「申し上げます。道なかばで襲撃にあい、深草へたどり着くことはかないませんでした。二十の兵はあっというまに三人を残して倒されたのでございます。我らを襲ったのは、し宮の長、斯馬しばでございました」


 斯馬は、やまと一の腕をもつ呪術師だ。


 呪術だけでなく、天文や歴史、薬術など、幅広くさまざまなことに知見を深めており、大王や大臣の相談役として、霊し宮のある難波なにわと飛鳥を行き来していた。


「斯馬が……行方知れずになっているとはきいていたが、まさか、雄日子様の助けをしていたとは――。いったい、なにが起きているのだ。麁鹿火あらかび、いま一度知らせい。山代やましろで、いったいなにが起きたのだ」


 名指しされたのは、物部一族が集まる列であぐらをかいていた若い武人、麁鹿火あらかび


 少し前のことだ。


 麁鹿火は、湖国の様子を探るために、百人の兵を連れて山代へ向かっていた。


 道中、飛鳥の都を目指して進んでいた雄日子の護衛軍と遭遇して、一戦まじえたのだった。


「はっ――。雄日子様の騎馬軍が飛鳥に現れた日のことです。俺は山代におり、雄日子様の騎馬軍が飛鳥と山代を行き来しようとしていると狙いをつけました。茂みにひそみ、道の上に太縄の罠をしかけ、雄日子様の軍を待ち受けました。馬をころがして動きを止め、襲いかかりましたが、軍を逃がすために一騎が残り、我らを阻んだのです」


「一騎が。たった一騎か?」


「はい。乗り手は二人でしたが」


「しかし――たった二人でおまえの軍と相まみえたのか。おまえの軍には百人いただろう。百人は、その二人にやられたというのか」


「はい。二人のうち、一人は腕の立つ武人でした。馬から下りて、剣をふるいました」


「それで、もう一人は――」


「娘でした」


「娘?」


「たぶん男のほうは、娘を逃がそうと先に馬を下りたのです。でも、その娘は手綱を操り戻ってきて、我らをすべて、倒しました」


 麁鹿火の声が小さくなり、震える。


 館に集った男の口から失望のため息が漏れ、麁鹿火の小声に耳を澄まして、静まりかえった。


「娘一人が、百人の兵を? ――何度きいてもわからんのだ。いったいなにが起きたのだ。その娘は、なにをしたのだ」


 麁鹿火はうつむいたまま首を横に振った。


「俺にも、わかりません。娘は口に手を当てて、笛のようなものを吹きました。その後はもう、身体が動きませんでした。全員、倒れ伏したのです」


 顎を引き、麁鹿火は声を振り絞った。


「気がついた時には、娘も男も、姿はありませんでした。時が過ぎ、日が傾いていました。百人の兵が、その娘の技で一瞬のうちに眠らされたのです」

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