草辺の宴 (2)


 川べりをじゅうぶん走って、満足して戻る頃には、すっかり馬とも仲良くなれていた。


「なんだよ、おまえ。意地っ張りなだけでいい奴だな」


 馬の性分もなんとなくわかったので、手綱を操った時の心の通じ具合も深まった気がする。


 走りだしたあたりまで戻ってみると、小さな天幕が建っていた。


 雄日子の一行が宿として使う館からそう遠くない場所で、ちょうど天幕から館へと戻っていく世話男のうしろ姿が見えていた。


 布の屋根の下には敷物が広がって、風で飛ばされないように四方に重石がしてあった。水壺や盃、蓋付きの高坏たかつきも運ばれている。


 宴でもはじめるような支度だ。でも、誰もいない。


「みんなは?――って、馬を探しにいったんだっけ」


 武人たちが馬をつれて草原に出たのは、逃げた馬を探すためだ。セイレンはというと、馬飼に追いつけるほどうまく馬を走らせられなかったので、馬探しを諦めて遊んでいたようなものだった。


 天幕のそばに、馬を休ませるのに都合のいい木陰があった。


 木のそばで鞍から降りるが、地面に足をつけるとふらふらとする。長いあいだ馬上の揺れの中にいたので、膝が動かない地面に驚いていた。


「うわっ」


 悲鳴をあげつつ足を慣らしていると、隣で馬からおりた雄日子も、鞍にもたれかかった。


「僕もだ。足がおかしい。知らないうちに緊張していたんだろうな」


 なんとなく、セイレンは手をさしだした。


「平気か? 手を、かして、やろうか――」


 セイレンは守り人という役についていて、雄日子の身を守っている。その男は、セイレンの主だ。


 こういう時、たぶん藍十なら、こいつの身体をささえてやるだろうなあと、渋々手をさしだしてやった。


 でも、雄日子は忍び笑いをこぼすだけだ。セイレンの顔と、本当はいやなんだけど――と不器用に虚空に浮いた手をしげしげと見下ろして、肩をふるわせるようにして笑った。


「なんだよ、歩くのを手伝ってやろうと思ったんだよ」


 むっとして文句をいっても、雄日子は笑っている。


「ありがとう。なら、手綱を木に巻いてくれ」


 結局、手は借りないまま、べつの仕事を頼んだ。






「休もう」と、敷物の上に腰をおろすことになった。


「この天幕は?」


「休み場をつくったんだろう。僕のためのものだろうが、荒籠たちをねぎらおうと、誰かが気を利かせたのだろうね。――セイレン、水をくれ。二人分だ。おまえも喉が渇いたろう」


 壺の中から水を汲ませると、二人で喉を潤す。


 風を浴びて肌も口もからからだったので、水はすぐにおかわりをした。


「はぁ、おいしい。――それにしても、あなたってこんなに馬の扱いがへただっけ?」


 雄日子が馬に乗る姿はこれまでも何度も見てきたけれど、べつだん苦手なようには見えなかった。むしろ、セイレンよりはずっと慣れているはずだ。


「新しい馬なのだ。荒籠から、僕のための馬を用意するといわれた。これまで乗っていたのは高嶋からつれてきた馬だが、もう一頭くらいは慣れた馬があったほうがよいだろうと、もらうことにしたのだ」


 雄日子が、背後をふりかえる。ちょうど雄日子の馬とセイレンの馬が二頭仲良く木につながれているあたりで、足もとの草を食んでいた。


「荒籠がいうには、育て方によって、馬の走り方は変わるのだそうだ。荒籠の牧の馬のほうがよく鍛えられているからと、すすめられた。たしかにいい馬だった。高嶋の馬とは乗り心地も力強さも違うし、癖も違う。でも、だいぶん慣れたと思う」


 雄日子が乗っていた馬は、ほかの馬よりも背が高く、身体そのものが大きかった。脚が太く、胴回りもしっかりしている。――乗りこなすのも、難しいのかもしれない。


「このように立派な馬を、大勢の前で僕が情けなく乗るわけにはいかないだろう? しくじって僕がばかにされるだけならまだしも、供のおまえたちや、湖国の名にも傷がつく。だから、いまのうちに稽古をしているのだ」


 雄日子は、湖国の若王という立場だ。そこにいるだけで、誰かが一挙手一投足を見張っている。


 うまくやるのが当たり前で、馬の上でぐらついたりしようものなら、目ざとく見張る誰かにかならず見つけられてしまうだろう。


「そっか。あなたも大変だねえ」


 セイレンが馬から転げ落ちようが笑われて終わりだが、この男が同じ真似をしようものなら、たった一度のことでも、噂話になって山を越えていくかもしれない。


 雄日子は敷物にごろんと寝転んだ。頭の下に腕で枕をつくって、のんびりとくつろぐ時の姿勢になった。


「仕方のないことだ。高嶋を出て異国にいるのだ。毎日新しいことが起きるに決まっているのだから、慣れていかなければならない。僕だけでなく、おまえや、ほかのみんなにも強いていることだ。荒籠にいたっては一族ごと暮らす場所を変えさせたのだ。なんでもないよ」


 寝転んだので、馬がつながれている場所に顔や肩が近づく形になった。手を伸ばすと、ちょうど馬の口元あたりに手がいく。雄日子は草を摘んで、馬に食べさせた。


 指のつけねあたりを馬の唇に舐められながら、雄日子は穏やかに笑っていた。「そういうわけだから、お手柔らかに頼む」と、馬に頼みこんでいるようにも見えた。


 雄日子は湖国の若王で、この一帯にいる誰よりも立派な身なりをする男だ。でも、目の前で敷物に寝転んでいるのは、ただの男にも見えた。ただの、野辺でくつろいでいる若者だ。


 でも、この男の頭の中には多くのことがあって、背中には大勢の期待がのっている――そのはずだ。


「あの――つらくない?」


「なにがだ」


「たくさんの人のことを考えなくちゃいけないんだろ? たった一人で――」


 雄日子は手を自分の頭の下に戻して、考えごとをするように瞳を動かした。 


「前にもおまえはそう訊いたな。ふつうはそうなのか?」


「ふつうは?――わかんないけど」


 セイレンも、ふつうの暮らしをしてきたわけではなかった。


 ただ、里を出るのも、雄日子のもとに留まるのも、馬に乗るのも、いまここにいるのも、誰かを気にしなくていい。考えるのは、自分がどう思うかだけだ。


「その、あなたは、荒籠様のことや、秦君はたのきみや、ほかの偉い人や、その国に住む人や――顔もみたことがないほど大勢の人のことまでを考えなくちゃいけないんでしょう?」


 自分なら――と、セイレンは考えてみた。


 でも、考えようもなかった。自分以外の誰かがどう幸せになるかということなんて、考えようとしたこともなかったし、考えるべき人がどれだけたくさんいるかも知らない。


 よく知らない人のことなんか「わたしは自分でなんとかする。みんなも自分でなんとかすればいい」と、考える気も沸いてこない。


 雄日子は平然としていた。


「おまえにとっては面倒なことなのか? 僕なら、それを難しいものと感じたことはないよ。むかしからそうだと思っていて、慣れている」


 すごいな――と、セイレンは、雄日子の顔をじいっと見た。まるで、人ではないべつの生き物だ。


「そっか、すごいね。だから、藍十も赤大もあなたに従うんだなぁ」


 きっとこの男の目で見るものは、自分には見えない景色なのだろうな――。


 藍十あいとおにも赤大あかおおにも、たぶん荒籠あらこ角鹿つぬがにも見えない世界を、きっとこの男は一人で見ているのだ。だからみんなは、この男にひざまずく。この男は、みんながたどりつくことができない高みにのぼって、彼方までを見渡すのだ。きっと――。


「ねえ。あなたの目では、この草原くさはらはどう見えてるの? わたしが見るよりもきれいに見えるのかな」


「この草原?」


 雄日子がちらりと顎を傾ける。風が行きかう草原の向こうに、太陽の光を浴びた大河が銀色の帯のように見えていた。


 きらきらと輝いて見える川筋を見つめるうちに、雄日子の声が低くなった。


「ああ。おまえが見るものとは違って見えるだろうね」


 雄日子はいくらか寂しそうな言い方をした。


「僕の目では、あの川が真っ黒でどす黒い、おぞましいものに見えている。僕にはあの川が、男どもの野心を運ぶ道にしか見えない。草原は、そのそばにある空虚な場所だ。なにもないから、馬の稽古に都合がよいだけで、不毛だ。――おまえの目では、もっと美しく見えるのだろう?」




 


「急に暗い気分になった」


 雄日子は起きあがり、天幕の柱のそばに置いてあった高坏たかつきに手を伸ばした。


 二人の真ん中に置いて蓋をもちあげると、あらわれたのは、色とりどりの菓子。桃に、くるみや松の実、椎の実などの木の実に、花の形に飾られた干し菓子が、円のかたちに美しく盛られていた。


「これは、はじめて見た」


 雄日子の指が伸びたのは、干し菓子。夕日のように鮮やかな橙色をしていて、丁寧に刃が入れられ、桃の花のような形に整えられている。


 大きさもちょうど桃の花くらいだ。指でつまめるくらいの菓子を、雄日子は斜めにしたり、下から覗いたりしていたが、口にいれた。


「干し柿だな。ふしぎな味がついている。生姜はじかみかな」


 ゆっくり味わってから、雄日子は同じ菓子をつまんで、セイレンにさしだした。


「食べてみなさい。うまかった」


「うん」


 セイレンも、手をさしだした。


 こうしてこの男から物をもらうのも、もう何度目だろうか。


 菓子を手の上にのせてもらうと、すこしふしぎな気分になった。前なら「いらないよ」と突っぱねたはずだ。そうしなくなっていた自分に、驚いた。


 食べてみると、その菓子はおいしかった。


 もとは干し柿だが、べつの味が足されて、品のいい上等な菓子になっている。花の形の飾り切りがされているので、ほどよく軽い噛みごたえも楽しい。


「おいしい」


「気に入ったなら、もうひとつ食べればいい」


 雄日子は高坏の上に残っていた最後の花菓子も、セイレンの手にのせた。


「いいの? とってもおいしかった」


 わくわくと手の中を覗きこんだセイレンを、雄日子は微笑んで見ていた。


 敷物に寝転び直しながら、ぼんやりといった。


「なあ、セイレン。おまえに守り人とはべつの役を与えようか」


「別の役? いやだよ。どうして」


 なにしろ、いまは守り人としても役立たずなのだ。別の役をこなすような余裕もない。


 即答したセイレンに、雄日子は苦笑した。


「守り人の役を取りあげるわけではないよ。そうじゃなくて、たまには、こうして――」


 その時だ。セイレンは、はっと顔をあげた。


 草原の奥のほうから、馬の群れが戻ってくるのが見えた。


「あっ、荒籠様だ――みんなも」


 やってくるのは馬飼の集団だ。荒籠を先頭にして、逃げた馬を探しにいった武人たちも揃っていた。


 目を凝らしてみると、人が乗っていない馬が二頭増えている。セイレンはほっと肩で息をした。


「よかった。馬が見つかったみたいだよ。――で、なんだっけ」


 雄日子のほうに目を戻すと、雄日子は寝転んだまま、ぼんやりとしていた。


「どうしたの」


 その男の表情が、急に暗くなった。さっきまでは明るく笑っていたけれど、いまは、天から降りそそぐ陽の光が似合わないくらい暗い気配をまとって見えた。


「わからない」


 短い答えだ。でも、そんなことをいわれても、セイレンのほうがわからないので困る。


「なんだっけ――不自由さを楽しんでいるんだっけ?」


 この男の館で、いまのような顔をした雄日子からこんなことをいわれた。


『きっとおまえといる時は、この不自由さを楽しんでいるのだと思う』


 妙に寂しそうな雄日子の表情も二人のあいだにある気配も、その時と似ていた。


 雄日子は首を横に振った。


「いまは違う。あまり楽しい気分ではない」


 それから、微笑んで、セイレンの顔を見上げた。


「この世には、いくら力を得ようが手に入らないものがあるのだなと、そう思ったのだ」






 後方の館の方角からも人が駆けてきた。


「雄日子様、お戻りを」


 やってきたのは、留守役の武人。天幕のそばまでやってきた男は乗っていた馬からおりて、雄日子のそばで膝をついた。


 雄日子は起きあがり、敷物の上に姿勢よくあぐらをかいていた。


「雄日子様。急使がきています。三嶋みしま様からです」


「早いな。昨日、使いを送ったからその返事だろう。いまいく」


 颯爽と立ちあがり、馬のもとへ。


 セイレンが無造作に留めた馬の手綱は、やってきた武人の手でうやうやしくほどかれていく。武人はひざまずき、掲げるようにして、手綱を雄日子の手元にさしだした。


「どうぞ」


「ああ」


 雄日子が鞍にまたがると、武人は頭をさげて自分も馬にまたがり、先導をするように馬を歩かせていく。


 雄日子も馬を動かそうとしたが、馬の腹を蹴る間際に、馬上からセイレンを見下ろした。目が合うと、雄日子はくすっと笑った。


 それから、前を向いて、館の方角へと馬を進ませていく。うしろ姿がぐんぐんと小さくなっていくが、その後は、その男が振り返ることは一度もなかった。


 やがて、ざわめきが近づいてくる。戻ってきた馬飼たちだ。


 場所を譲ろうと、セイレンは敷物から出て、自分の馬のそばに寄っていた。この天幕は馬飼のためのねぎらいの場でもあると、雄日子が話していたからだ。


 群れの中からセイレンを目ざとく見つけた男が寄ってくる。藍十だった。


「セイレン、ここにいたのか。ついてこないから迷子にでもなったかと思ってたよ」


 藍十は「あぁ、よかった」と胸をなでおろしている。


「探してたんだよ。館にもいなかったら、あとで草原に探しにいくつもりだった」


「あっ――それは……心配かけてごめん。雄日子と一緒にいたんだ」


 すると、藍十は納得したふうにうなずいた。


「なんだ、守り人の役についてたのか。お疲れさん」


「え?」


 それは違う――と、セイレンは真顔に戻った。


 雄日子といるあいだずっと、遊んでいたようなものだった。馬を競わせて、草原を走って、喉を潤して、菓子を食べて、喋っていただけだ。


(一緒にいたなら、あいつを守らなくちゃいけなかったのに――わたしは馬鹿か)


 守り人の役目をすっかり忘れていたことに、ようやく気づいた。


 唇を噛んで黙ったセイレンの手元を見下ろして、藍十が目をまるくした。


「それ、菓子か? きれいだなぁ。うまそうだ」


 花の飾り細工がされた干し菓子だった。


 セイレンはむっとして、さしだそうとした。


「欲しけりゃ――」


 こんなものをもらって喜んでいる場合じゃなかった。そんなの、守り人でもなんでもないじゃないか――と、自分を責めた。


 けれど、手の中にある菓子を見つめると、雄日子が笑った顔を思い出す。あの男は、ほかの人が相手でも、あんなふうに笑っただろうか。


「――」


 無言でじっと見下ろした後、ばくっと干し菓子を口に放りこんだ。そのまま、めちゃくちゃに噛んだ。


「おまえ、一口で! 悪かったよ。大丈夫だよ、とらないから。味わえよ」


 詫びてくる藍十に「そんなんじゃないよ」と、もごもご文句をいった。


「食べなきゃって思ったから食べたんだ」


「食べなきゃ?」


「いいの。わたしが食べなきゃあいつに悪いと思ったから、食べたんだ」


 藍十はまだ怪訝そうな顔をしていた。


 でも、セイレンも似た気分だ。どうしてこんなに奇妙な気分になるのかよくわからない。だから、ひたすら干し菓子を噛んだ。


 その菓子は、甘かった。


 でも、すこしぴりっとした風味も効いていて、美味しいけれど、ふしぎな味がした。




              fin.



*****************************

お題「セイレンと雄日子が皆をまいて二人きりで遠駆けする話が読みたいです」「セイレンと馬」にて書かせていただきました。

リクエストをくださった方、ありがとうございました!


馬が関わると、2巻orカクヨム版の2話以降の設定でないと書けなかったので、オマケのオマケになりましたが、2巻を読み終わってくださった方、カクヨム版でお付き合いくださっている方に楽しんでいただければ嬉しいです。


ではまた。いつかまた『雲神様の箱』の世界でお会いできるといいな。

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