風霊の辻 (4)

「おかしいですな。たしかに夕べ、斯馬しば様が地鎮とこしずめをなさったのに」


「斯馬様は――なんだっけ、霊威の壁をつくったっていってたっけ」


 昨晩のことだ。一行が夜を過ごすことにした谷で、風がまるで生き物のように飛んだり跳ねたりするので、これはおかしい――と斯馬しば牙王がおうという二人の呪い師に霊鎮たましずめが委ねられた。


 斯馬は儀式めいたものを執りおこなったはずで、それは藍十も眺めていた。


「ええ。人のための斎庭ゆにわをつくるといっておられました。ちょうど我々を囲むように霊威の柱が建ち、いまも我々を守っていますよ」


 牙王の目には、霊威の柱というものがみえているのだろう。牙王は野営に集まる人の気配がとだえた向こう側、焚き火の明かりも届かない暗がりを向いていた。


「しかし、斯馬様がつくった霊威の囲いで遠ざけたのは、風の姿をした地霊だけのようです。昨夜ゆうべはそれでよかったのですが、夜半を超えたいま、前はいなかったものも、うようよおりますわ。恨みをもった迷い霊に、獣の迷い霊。獣は厄介ですぞ。言葉も道理も通じない相手のほうが多いですからな」


 牙王は困ったなと笑っているが、藍十からすれば、なにをどう笑えるのかわからない話だ。


「笑ってる場合かよ。あぶないってことじゃないのかよ」


 赤大あかおおの顔が、ついと横を向いた。


「なにかあるな。あそこじゃないか」


 一度目をとじてから、赤大はゆっくりと歩きはじめた。


 通り道で燃えていた焚き火の内側から小枝を一本抜き取ると、赤大はついてくるようにいって、森へと近づいていく。


 火のそばを離れると、あたりは真っ暗闇につつまれる。赤大が立ちどまったのは、一見なにもない暗がりの地面だ。


「ほら、やはり」


 赤大が火をかざした先の地面では、すこし大きな石がぽつぽつところがり、いびつにまるまった石の角が、火明かりに照らされていた。


 いや、石ではなかった――人の頭蓋骨だ。


 牙王が膝をつき、覗きこんだ。


「なるほど。念が溜まっております。それにしても、よくお気づきになられましたな」


 赤大は、自嘲するようにいった。


「この手で、何人もの命を奪ってきたからだ。人が望まぬ死を迎えたあとは、妙な気配が残る。死の匂い、恨みの気配とでもいうのか――そういうものを覚えるほどには人を殺して、似たものを何度も見てきたのだよ、たぶん。――悪いが、牙王、弔ってやってくれないか。この骨の並び方だと、おそらくこの者は、傷を負った後もどこかへいこうとしていた。帰りたかったのだよ、家族のもとへ」


 藍十も暗がりに目を凝らしてみた。すると、たしかに――。


 真っ白になった骨は、手を伸ばしていた。動かない身体で懸命に暗い地面を這いながら、すこしでも故郷へ近づこうと、土の上にころがっていた。





 呪いの文句をとなえる牙王の声が響くと、谷底の暗闇がすこし澄んだ。


 充ちていたなにかが薄れたというふうで、眠りについた護衛軍をおどかそうとする気配も、すこし控えめになった。


 でも、「そんな気がする」という程度だ。人ではないものの気配は、まだそこかしこにあった。


「まだ、いるよなあ。うようよいる、か」


 藍十は、やれやれと頭上をふりあおいだ。


 唸るように吹く風は夜通しやむことはなく、笑い声や遠吠えめいた響きも、まだ耳に落ちてくる気がする。


 牙王の目でみれば、谷底を埋め尽くすようにそこら一帯が妙なもので溢れかえっているのかも――そんな想像をすると、ぶるっと身震いして、眠気がさらに遠ざかった。


 火のそばに戻ってくると、日鷹とセイレンが寝転がり、寝息を立てている。


「こいつらはのんきだなぁ。おれも休みたい――」


 そろそろ眠らないと、明るくなった後の旅が苦しそうなのだが。


 その時だ。セイレンがはね起きた。虫を払うように手をうごかしながら、「なに?」とセイレン本人も驚いている。


「あれ? なにかにさわられた気がしたんだけど」


 きょろきょろと周りを見回したあとで、セイレンはがっくりと肩を落とした。


「夢かぁ。脂がたっぷり乗った仔猪、食べたかった……」


 そういって、口元をぬぐった。よだれをぬぐうような仕草だった。


 ――脂がたっぷり乗った仔猪。その言葉には、聞き覚えがあった。


「おまえがどんな夢をみたか当ててやろうか」


 そういうと、セイレンはぎょっと目をまるくした。


「えっ、なんで?」


「おれもさっき、妙な夢をみたんだよ」


 藍十も、子どもの頃に泣きじゃくった時の夢をみた。強烈に覚えているので死ぬまで忘れることはないだろうが、あえて思い出したくもない「恥ずかしい話」だ。日鷹がいうところの「面白い話」かもしれない。


 なんとなく、仕組みがわかってきた。


「たぶん、巻き込まれたんだよ。ここに集まってきた風やら人やら獣やらの霊が、退屈しのぎに面白い話をききたがってるんじゃないかな。おれたちに妙な夢をみせて、その夢を覗いてるのかもなぁ」


 そうだとしたら、セイレンがみた夢は、猪を狩ったと早合点して、のがしたごちそうにしょげかえる夢のはずだ。


 それが悪夢だなんて、無邪気な奴だなぁ――。


 



 また、セイレンの顔が動いた。まとわりついてくる虫をよけるような仕草だったけれど、ふしぎそうに暗がりを見つめた。


「――むじな?」


 セイレンが見ているのは宙だ。むじなや獣が潜んでいそうな草陰や木の裏ではなかった。


 でも、セイレンの目は、渦を巻くようにくるくるとうごく風を追うようだ。すばやく虚空を舞うなにかを追いかけるような動きをした。


「やっぱり、むじなだ。シシモドリかな」


「シシモドリ? なんだ、それ」


「誰かが肉に感謝するのを忘れたんだよ」


 「うちの一族でいわれてることなんだけどね」と前置きをして、セイレンは続けた。


「人も獣も、死んだら魂と肉が離れて、肉は土に、魂は地の底のもっと深いところに向かうんだ。でも、魂のほうは時々肉に戻ろうとするんだ。でも、肉のほうは土にかえったり、誰かに食べられたあとだから、戻ってきた魂が迷子になるんだよ。そういうのをうちの里じゃ、シシモドリって呼んでるんだ。――かわいそうに」


 さくっと、草が踏む音が鳴る。


 セイレンは一歩ずつ前へと進みでた。


 やたらと爽やかな足音をたてて、谷底の暗がりに立つと、闇に向かって両手をかかげた。


「ケェッチャ、アベ。アボツ、クラスマ。アガス、アガス」


 まるで、巫女だ。


 聖なるものがのりうつったふしぎな乙女のように、セイレンは高い声で何度か唱えた。


 すると、声をかけていたあたりの虚空で、ぽうっと赤い光がまたたいた。小さな獣くらいの大きさで、一度淡く光ってから、消え去った。


「帰れたみたい。赤く光ったから、やっぱりむじなだよ」


 振り向いた時、セイレンはにこりと笑っている。


「赤く光ったらむじな――そうなのか?」


「うん。狐だったら青く光るから」


 セイレンは当たり前のことを済ませただけのような顔をしていたけれど、藍十から見れば、ふしぎな儀式をみたあとの気分だ。


「えっと――いまのは? まじないかなにか?」


「呪いって、牙王がおう斯馬しばがやるような妙なやつでしょ? そんなんじゃないよ」


 「違う、違う」とセイレンはいうけれど、どこが違うのかは、藍十にはよくわからなかった。


「うちの里にはそう伝わってるんだよ。シシモドリがきたら、さっきの言葉をいえば帰ってくれるって」


「さっきの言葉? どういう意味なんだ?」


「――わかんない。そういえって、フナツ――育ての母がいってたんだ」


 ケェッチャ、アベ。アボツ、クラスマ。アガス、アガス。


 セイレンはもう一度その言葉を繰り返したけれど、首をかしげた。


「たぶん、おまえが帰るところは暗いところだよって教えてあげてるんだと思う。こういえばシシモドリが暗いところに帰るっていわれてるから。『ごちそうさま』のあとの『ありがとう』と同じだよ。『おまえの命はわたしの身体のなかで生きています。ありがとう』って感謝をするのを忘れると、シシモドリが出るんだ」


 セイレンは当たり前のことを話すようだったけれど。


 きっとそれは、狩人の一族に生まれた娘の身に沁みついた、一族の祈りなのだ。


「やっぱり、土雲の一族っていうのはふしぎな一族だな」


 目の前に立つ小さな乙女を称えて、藍十は笑った。





 やがて、空を染めていた闇がだんだん澄んでいく。天も森もまだ暗闇に染まっていたけれど、朝の気配が漂いはじめていた。


 森には、甲高い鳥の声が響きはじめる。夜明けをことさら待ち望む鳥の声だ。人の目には闇に見えようが、鳥や虫はほんのわずかにまじりはじめた夜明けの気配にも敏いのだ。


「まずい、もうすぐ朝だ。寝ないと――」


 結局、ほとんど眠れなかった。このまま朝を迎えたら、疲れを残したままで旅の道を進むことになる。


「寝なよ、藍十。わたしが起きてるし。それにしても――」


 セイレンの目が、崖側へ向かう。


 そこには、宵からずっと同じ場所で微動だにせずに寝転ぶ主、雄日子の寝姿があった。


「あいつ、すごいを通り越して、頭がおかしいんじゃないのか……。一晩中ずっと賑やかだったのに、一度も起きなかったよねぇ――妙なこともたくさん起きたのに」


 宵からずっと、笑い声も悲鳴も何度となく響いたが、たしかに雄日子は一度も起きあがることなく眠り込んでいた。


 藍十も、苦笑した。


「雄日子様は肝が据わっておいでだから。ただ者じゃないんだよ」


 鳥の声がかわり、天や森が朝の気配を帯びはじめた。それに気づいたのか、谷底では、武人たちが一人、また一人と目を覚ましはじめる。


「なんだか、妙な夢をみた」


 うーんと背伸びをする声と一緒に、首をかしげているような怪訝声がそこらじゅうからきこえてくる。


「無事に眠れた奴らも、夢のなかであいつらに化かされたみたいだな。――おれも寝るよ。寝ないと――ふわあ……」


「うん。わたしが火の番をするよ。焚き木を集めてくる」


「ああ、頼むわ」


 やれやれ、妙な夜だった――と、藍十が眠りにつこうと地面に横になった時。


 燃え尽きかけた焚き火のそばで、日鷹が勢いよくはね起きた。


「へんな夢を見た」


 日鷹は、起きるなり周りを見回したり、自分の手のひらをじっと見つめたり。いつになく真剣な焦りっぷりがめずらしくて、藍十は笑った。


「へんな夢? おまえもかよ」


 日鷹の焦りようはなかなかで、いまも藍十の顔をじっと見つめると、脅えたふうに眉をひそめた。


「藍十? 俺、いま齢はいくつだ? 十じゃないよな」


 日鷹は不安げで、藍十をじっと見つめてくる目も、すがるようだ。


「悪い夢でもみたんだろう。どんな夢だった?」


「昔のいやな思い出が――流行り病が広まって、姉さんが殺さ……」


 日鷹はいいかけたものの、はっとして言葉を濁すと、にっと笑った。


「さあね」


 だから、藍十も笑った。


「べつに、きかねえよ」


 夜通し起きた妙な騒動の後だ。目の前にいる日鷹そいつになにが起きたかくらいは想像がつくが、言い合う必要もないことだった。


「おれ、まだ眠れてないんだ。寝させてもらうわ」


「ああ、どうぞ」


 守り番の交代だ。日鷹が役を代わってくれれば、なにも心配することはない。これも、いつもどおり。


 日鷹のそばで藍十は横になって、眠りについた。


 そいつとは、それくらいでちょうどいいのだ。



           fin.



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『雲神様の箱』2巻刊行に感謝しての番外「風霊の辻」は、読んでくださった方からのお題から生まれた物語です。いただいたお題は次のページでご紹介しています。

https://kakuyomu.jp/works/4852201425154970199/episodes/1177354054920991197


〈参考文献〉

『縄文語の謎』(著:阿部順吉、北の杜文庫)

セイレンが作中で言ったおまじないは、こちらの本を参考にしました。

ケェッチャ、アベ。アボツ、クラスマ。アガス、アガス。

私は「暗闇は反対側、母神のところへいこう、燈火をもって、さあ」という意味で使いました。縄文語はまだまだ謎に包まれており、いろんな説があると思いますが、きっと美しい言語だったでしょうね。


【書籍情報】

10月23日に『雲神様の箱』2巻が角川文庫から発売予定です。

かなり改稿しましたので、WEB版との違いをお手元でお楽しみいただければ嬉しいです。

https://www.kadokawa.co.jp/product/322005000361/


近況ノートでのお知らせ/『雲神様の箱』の書影公開&まもなく発売日

https://kakuyomu.jp/users/end55/news/1177354054934337290


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最新情報はTwitterにて!

円堂 豆子:@endo5151 (https://twitter.com/endo5151)

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