番外短編②
はじまりの心音 (1)
1話冒頭から2話の終わりくらいまでの、セイレンと石媛の物語です。全2話予定。
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その人の横顔を見つけた一瞬のうちに、生まれ変わった気分だった。
さっきまでの自分はどこにいってしまったのか。
身体中に稲妻がほとばしって、生まれ変わりの力に押されるように、その人の目元を追い続けた。
石媛が初めて見たその人は、森の木の向こう側にいた。
春を迎えたばかりの梢の先に見え隠れする白い衣。見慣れない結い方をした黒髪。高い背丈。それに、薫るような気品。
年は、二十歳をすこし過ぎたあたり。梢の奥に覗く額や鼻、唇や、喉の輪郭を目で追って、ああ、男の人だ――と思う。でも、その人を見るまで、こんなに麗しい男がいると想像したことはなかったし、その人より美しい男も、乙女も、ほかに知らなかった。
(きれいな人。本当に男の人? 朝の神様? それとも、森の神様。澄んでいて、強くて、きれい――)
ふと、その人が足を止めた。石媛に気づいて振り返ろうとしていると気づいたのは、すぐ後だった。ほんのわずかな間に、そんなわけがない、その人がこちらを気にするわけがない――そう、私はここにいます、気づいて――と、ちぐはぐな思惑が交差して、その人が本当にこちらを見ようとしているとわかると、逃げたくなった。いけません。私はあなたに見られる準備ができていません、見ないで――。
でも、足は動かない。指の先までが動かなくなって、身体の動かし方を忘れた。まばたきもできなかった。
ある時、のけぞるように息をした。その人と目が合ったからだ。青年は石媛に笑いかけた。たったそれだけのことで、頬に涙がしたたり落ちた。嬉しかった。
その、すぐ後のこと。はっと青ざめた。
青年は土雲の一族ではない。ならば、ここにいてはいけない人だ。土雲の住む山には毒の風が吹いていて、山の下の人が里のあるあたりに迷い込むと、弱ったり死んでしまったりするのだから。
慌てて、駆け寄った。
「あの――」
森の小径から出ていくと、その青年はにこやかに笑って、雄日子と名乗った。
「はじめまして。あなたは? この山に住まうという土雲の姫君でしょうか」
「ひめ――? はい。石媛と申します」
青年が話す言葉には、意味がわからない言葉もあった。でも、それどころではないと気が焦る。早くしないと、この人が死んでしまう。
「あの、これを」
衣の内側、腹のあたりから取り出したのは、小さな黒い粒。土雲媛の宝珠と呼ばれるものだ。
雄日子と名乗った青年は、それをつまんだ白い指先をじっと見つめた。それから、石媛へと視線を戻して、笑った。
「それはなんでしょう」
「はい、これは、土雲媛の宝珠といって、私がずっと育ててきたものです。これを身体に入れた男は、私と同じ身体になれます。あの、これをお飲みください。そうしないと――これを身体に入れないと、あなたの身はこの山にむしばまれてしまいます。この山は土雲の山で、山の下の人には相容れない重い風が吹いています。早くしないと――」
「それを飲めば、あなたと同じ身体になれる――」
雄日子の言い方は、言葉を噛むようだった。考え込むように何度か反芻するが、それものんびりしている。
「この山は土雲の山で、山の下の人には相容れない重い風が吹いている――それを飲めば、あなたと同じ身体になれる――」
でも、石媛は気が気ではない。早く飲んでもらわなくては、この人が死んでしまう。
雄日子の後ろには男が二人ほどいて、すぐ後ろにいた男が呼びかける。咎めるような言い方だった。
「雄日子様、無茶は――」
「いい、角鹿」
雄日子はその男の口を閉ざしてしまうと、石媛の真正面に立った。そうかと思えば――。
石媛は、動けなくなった。その青年の目が、針で貫くように石媛の目から逸れなくなったからだ。薫るような気高い微笑を浮かべて、その男は両手をあげて、石媛の顔に近づけてくる。両頬が手のひらで包まれて上を向かせられるので、その人の顔のほかが見えなくなった。
間近に見えるその人の微笑にも、頬を包んで余る大きな手のひらや、耳のあたりに触れた親指の温かさにも、気が遠のいた。まじないにかかったように動けなくなって、その人の手が触れているところ以外の身体が消えた気がした。その人と繋がった顔だけが浮いている心地だった。
「そのように大切なものを、僕にくださるのですか」
真正面にあるその人の笑顔が、問いかけてくる。
唇も耳もとても近い場所にあるので、囁き合うような小さな声だ。それも、まるで呪術だ。
「はい、あの――」
「なぜです。なぜ、僕にくださるのです」
「あなたを死なせたくなくて。この山はあなたのお身体に合いません。これを身体に入れれば、あなたは私と同じ身体になり、奥へ入っても平気に――」
「しかし、どうして僕のことを気にかけてくれるのです。僕はあなたにいまはじめて会ったのに」
「私は、あなたを山の神様だと――光り輝く美しい神、とても美しい方だと――だから、死なせてはいけないと、思ったのです」
懸命に言葉を紡ぐうちに、息も絶え絶えになった。すると、くすっという笑い声とともに唇に息がかかる。額に、その人の額が触れた。
「かわいらしい方だ」
頬から手のひらが離れていく。その人の鼻と自分の鼻との間に風が通り抜けていって、はじめて、顔が熱いことに気づいた。その人の手のひらが触れた部分が、熱をもって火照っていた。耳も、苦しいくらい熱かった。「かわいらしい方だ」といったその人の声が、余韻になって耳を痺れさせた。
「わかった。なら、いただこう。その粒を飲みましょう」
「雄日子様」
たちまち、後ろにいた男の声が重なる。雄日子は笑っていた。
「試したい」
「――雄日子様」
すぐ後ろにいた角鹿という男の声が、凄みをきかせるように低くなった。でも、雄日子が耳を傾けることはなかった。
「大丈夫だ。この乙女はとてもかわいらしい方のようだ。――では、石媛。それをいただきましょう」
雄日子の手のひらが差し出される。それは、拒んだ。
「あの、私が――あなたの唇に運びます。あの――そういうしきたりです」
石媛の手にあるのは、土雲媛の宝珠と呼ばれるものだった。いずれ土雲媛となって一族を導いていく娘が、生まれた時からそばに置いて力を移すもので、その時がくれば、夫となる男に与えられる決まりだ。
『おまえを夫にしてやろう。飲むがいい』
それが決まり文句で、夫となる若者を正面にひざまずかせて、妻となる娘の指で、宝珠を唇の隙間に押し入れる。でも、目の前にいる雄日子という若者は、土雲の一族ではない。ひざまずかせたり、横柄な物言いをしたりするのは、きっと違うと感じた。命じるどころか、「どうかこれを受け取ってください。飲んでください」と頼み込みたかった。
「わかった、ならおう」
「あの、背が高くて――ほんのすこしだけしゃがんでください」
「しゃがむ?」
頼むと、雄日子という若者が姿勢を低くして、土に片膝をつけた。その瞬間、後ろに控える男たちの顔色が変わる。雄日子は短く制した。
「いい。――どうぞ」
「はい。飲んでください」
人差し指と親指の先でつまんだ黒い玉を、その人の唇と唇のあいだに押し入れる。その人の口に自分の持ち物を触れさせた、指も触れた――それだけのことで、気が遠くなった。
しばらくして、雄日子が顔をあげた。
「――飲む前に消えた」
立ち上がりながら、自分の身をたしかめもする。
「とくに変わった気配もない」
「いいえ、消えたなら、あなたの身体に溶けた証です」
「では、これで僕はあなたの里へいけるのですか」
「はい」
「――あなたの里は、ここから遠いのですか」
「ここは狩り場の端です。里は、ここからもうすこし登った先に――」
「そうですか」と、雄日子は沈黙する。しばらくして、続けた。
「あなたの里にいってみたいが、僕は一人では出かけられない身なのです。この者たちを一緒に連れていかなければいけない。だから、僕一人があなたと同じ身を手に入れたとしても、僕が足を踏み入れられるのはここまでです。――あなたに頼みたいことがあります。明日の夜明けに、またここにきます。ここに僕がくることを、あなたの里の誰かに伝えてくれませんか」
「里の誰かに?」
「
「あなたの都へ――」
夢のようだった。その若者の笑顔のほかがなにひとつ見えなくて、いずれ訪れる幸せな出来事しか頭に浮かばなかった。
後ろにいた男が、ひときわ責めるように呼んだ。
「雄日子様――」
その男を軽く振り返ってから、雄日子は石媛をじっと見つめた。
「それとも、いま、僕といきますか。あなたさえよければ、僕はあなたをこのままお連れします」
まるで、呪いの文句。雄日子の言葉は不思議な呪いのように妖しくて、声と言葉が耳にも頬にも顎にも触れて、絡めとって自由を奪って、「はい」とうなずかせるようだった。でも、石媛は、首を横に振った。
「明日をお待ちしています。あなたは素晴らしい方ですもの。あなたが私を連れていきたいと頼んでくだされば、かならず土雲媛は、土産を持たせて私を送りだしてくださいます」
きっとそうなると、信じて疑わなかった。夢見心地で、幸せだった。
(明日、あの人がくる――私を迎えにくる)
頬を包んだ大きな手のひらや、光の化身のような美しい姿を思い出しては、恍惚とした。土雲媛の宝珠がないことを咎められても、気にならなかった。
「石媛、土雲媛の宝珠はどこです」
「それが、失くしてしまいました」
まだ内緒だ。あの美しい人が、去り際に「僕と会ったことは内緒に」といって、約束したから。
「なんと――宝珠を失くすなど」
思い切りひっぱたかれた。でも、痛みは感じなかった。
(この頬に、今朝、あの人の手が触れて――。もうすぐ、あの人がくる。明日になれば――待ち遠しい、眠れない)
宝珠を失くした罰に館に閉じ込められたけれど、どこかに出歩きたい気分でもない。記憶の中の雄日子を追いかけていた。
その夜は眠れなかった。夜更けだというのに外が騒がしかったせいもあった。
「土雲媛はセイレンを盗人に仕立てて罰せよと――大地の神から新しい宝珠をいただくためだ」
男達がなにかを深刻そうに話しているが、言葉は耳に入ってこない。
もうすぐ。夜が明けたら、もうすぐあの人がくる――。それしか考えられなかった。
うとうととしながら夜が明けるのを待って、空が白みはじめると、いよいよ眠気が遠のく。
(夜明けだわ。あの人はもうきた? 私を連れていきたいって頼まれたら、おばあさまは渋顔をするかしら。――大丈夫、おばあさま。あの宝珠は渡すべき人のところにいっただけなんです。あの人を夫にしたいと思ったんです。あのように光り輝く方を見たなら、きっとおばあさまもふさわしい方を夫にしたねって喜んでくれるわ。素晴らしい方だもの)
すっかり夜が明けて、朝がきて。いつ呼ばれるのかとそわそわと耳を澄ましていたが、土雲媛のところへ呼ばれたのは、石媛ではなかった。
「セイレン、土雲媛がお待ちだ」
呼ばれたのは、セイレン。双子の妹、災いの子だ。
そのあと、石媛が耳にしたのは思いもよらない言葉だった。
「セイレンが山を下りるらしいよ。雄日子っていう男王に仕えるらしい。石媛の代わりに」
(えっ――?)
違う、その方に恋をしたのは私。その方が呼んでいるのはセイレンじゃない。私です。
飛び出そうとした。けれど、外で番をしていた母に止められる。
「どこへいくのです。罰を受けている身でしょう」
「でも――」
「おばあさまのいいつけを守りなさい」
母はひどく不機嫌だった。
あなたのいいたいことも、やってしまったことも、お見通しです。悔やみなさい。そう、叱られた気がした。
それからは、泣きに泣いた。瞼が腫れて、目の前がよく見えなくなったけれど、どうでもよかった。見たいものなど、この世に何一つなかった。
セイレンが山を下りるなら、お別れをしなくちゃ――。悔しくて笑えるかどうかわからないけれど、双子の妹にお別れを――でも。悔しい。
セイレンは、いいなあ。私はセイレンになりたい。
この手足から伸びるなにかが、セイレンのいるところまで届けばいいのに。セイレンと一緒に、あの方のそばにいければいいのに。
そんなふうにしか、思えなかった。
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