嘘と蜂蜜 (2)


 山道を登るにつれて、風が頬や首筋にまとわりつくように重くなる。


 木々の隙間に続く人の踏み痕を進んでいくと、やがて、景色の色味が変わっていく。紫がかった葉が目立つようになり、幹の色も黒味を帯びる。蔦や草にも、赤や桃色に色づくものが増えていった。


 土に白や瑠璃色が混じるようになり、匂いも変わっていった。甘い葡萄のような、干したばかりの薬草のような、甘くて、重くて、その匂いがすんと鼻にとおったかと思えば、その瞬間に消えていく――。それは、水媛もよく知っている濃い毒の香りだ。


「まもなくですね」


 頂きに近づいていた。森の背が低くなり、生えている木々がまばらになる。


 頂きの湖の周りには、まだ木も草も生えていない。山開きの儀をおこなった時に眺めた、この世のものとも思えない山頂の景色を思い浮かべつつ山道を登るが、しだいに息が上がっていった。


 しまった――。そう思った時には、もう胸が早鐘を打っている。どくどくとうるさいほどで、指先や肩や、足や頬や、身体のいたるところがぴりぴり疼いた。


 毒に、身がおかされている。このまま登り続けたら、山開きの儀をおこなった時と同じように、そのうち気が遠くなって立っていられなくなる。


「ごめんなさい、シシド。土雲草を飲ませて」


 土雲草は山の毒をやわらげる薬草で、毒清めによく使われる。


 立ち止まって、薬入れから取り出した緑の粉を〈雲神様の箱〉にいれて、口に当て、吸い込む。〈箱〉から出た雲を身体に入れておけば、毒の効き目を遅められる。


 でもそれを、山魚様の儀をおこなうとくに毒に強い身体をもつ里者が使うことは、めったにない。


 シシドは立ち止まって待っていたが、顔色も様子も、集落を出た時とさほど変わりない。弱っているのは水媛だけだった。


(いずれ土雲媛になる娘なのに)


 「おまえは我が血筋の恥だよ」と罵る祖母の声が、耳にこだました。


『私も幼い頃はいまほど毒に強くありませんでした。きっとこの子もいまに――』


 そういって、母は、祖母に叱られる水媛を庇ってくれたが、母の優しい言葉すら気に食わなくなった。


(いまにって、いつよ)


 やっぱり、私なんか――と、なにもかもが嫌になる。


 うつむいて唇を噛んだ水媛を、シシドは気にした。


「具合が悪いのですか」


「そうよ。私は毒にそこまで強くないの。土雲媛の血筋なのに。山開きの時に倒れたのをあなたも知ってるでしょう?」


 情けなくて、声に棘が混じる。なにも悪くないシシドにまで当たろうとしている自分のことが、もっと嫌いになる。大嫌いだ、大嫌い――。涙が出そうになるのをこらえていると、シシドは呆気にとられたように苦笑した。


「土雲媛の血筋というのは、苦しいお立場なのでしょうね。おれの背に乗ってください。おぶっていきますよ」


 シシドは腰をかがめて、「ほら」とばかりに自分の背中を見せた。


「そんな顔をしないで。頂きまでです。里の娘たちはもっとのびのびしていますよ。男がいれば平気で甘えて頼ります。あなたほど一人で耐えようとする娘を、おれは見たことがなかったんです。いいえ――たぶん、おれしか見られないと思うんです。あなたは、耐えようとする姿すら、見せてはいけないお立場なのでしょう?」






 土雲媛は女系の一族で、夫として迎えられた男も、娘が生まれたら家を出る決まりだ。だから、水媛は父親を知らなかったし、男の背中におぶられたこともなかった。


 はじめて乗った男の背中は、広かった。


 こんなにも頼もしくて温かいものがこの世にあったのかと涙ぐんでしまうほどで、シシドの背中に乗って山道をいくあいだ、泣いてなるものか、震えてなるものかと、そればかりを考えた。


 水媛を背負ったシシドが足を一歩踏み出すごとに、しがみついた大きな背中がゆっくり揺れる。御輿に揺られるよりずっと不安定な乗り心地が、人の上に乗っているのだと身に染みさせる。御輿を運ぶよりもずっとつらい思いをして運んでいるのだろうということも、よくわかった。


「ごめんなさい――」


 肩の上でぽつりとこぼすと、軽い笑い声がすぐ近くできこえる。


「おれは平気です。たぶん、あなたがくれた丸薬が効いているんですよ。きっとそうだ。おれが平気でいるのは、あなたの丸薬を飲んであなたの力が俺に乗り移ったからです。だから、おれがあなたを背負ってもなんら問題はない。おれの足が丈夫に動いているのは、あなたの力のおかげなんですから。謝りなどしないで、このまま頂きまで運べと命じてください」


 大丈夫です。そう気落ちしないで――。シシドは言葉の裏でこういっていた。


 自分のものよりずっと太くて、温かいうなじの上に頬を寝かせているうちに、水媛の目から一滴涙がこぼれた。


「シシド、私を運びなさい。私は土雲媛になる娘だから、あなたに世話を焼かれるのは当然です」


 震え声でいうと、シシドは軽快に笑った。


「かしこまりました、水媛様」






 山の頂きは岩場になっていて、ほかには青い空しか見えるものがなかった。


 木は一本も生えておらず、草もない。土もほとんどなく、ごつごつとした岩肌がむき出しになっていて、岩場は丸裸だ。でも、美しかった。


 岩は、一面が透き通るような白色と、黄土色をしている。


 その向こうに大きな池があり、ゆったりと水をたたえていた。水の色は、桜の花の色。日の光を浴びるたびに、水面が花びらで覆われたような見間違いをさせるほどで、さっと濃くいろづく。


 ばしゃん――。大きな水音が鳴る。山魚やまうお様が、水面で跳ねていた。


 山魚様のうろこは、純白に瑠璃色と桜色が混じった宝貝のような色をしていて、すこし角度がかわるたびに色がかわるので、白い身体は虹をまとっているように見える。


 シシドの背中から下りた水媛は、湖に向かって進み出る。青空を包むように両手をかかげ、声を張り上げた。



  我、大地の神の子、土雲媛の血をもつ、すえの姫なり。

  我、母なる石となり、あらたな神の子を宿すべく、夫となる男を選びたり。

  この小さき石どもに、はぶりと寿ことほぎを。

  我、小さき石どもを従えて、あなたをとこしえに祀り、大地を清めたらんことを、ここに誓いたり。



 大地を前にして祈りを捧げると、身体がそこに溶けていく気がした。


 〈待っている山〉や、毒の湖や風や、山魚様や、降りそそぐ太陽の光や、青い空や、雲や。ここにあるすべてのものに混じって、馴染んでしまった気配を、じわじわともとの人の形にたぐりよせてからでないと、手を下ろすことができないような――。


 姿勢を戻したのは、声の余韻が薄らいで、ぱしゃん、ぱしゃん――と、山魚様が跳ねる水音をきいてからだった。


 後ろにいたシシドを振り返った時、シシドは恍惚と水媛を見つめていた。


「いまのは祝詞のりとですか。おれが知らない祝詞でした。おれも〈神歌の衆〉として、古くから伝わる神歌をそらんじる稽古をしていたつもりでしたが」


「あなたは知るよしもありません。いまのは、土雲媛の血筋の娘にしか伝わっていない祝詞ですから」


「それを、おれはきけたということなのですね。すごいな――」


 シシドはため息をついて、照れくさそうに目を細めた。


「あなたの相手になるのが、本当におれでよかったのでしょうか」


「それはあなたの問題です。あなたが不安に思うのは、誰か意中の相手がいたからというだけです」


 むっと眉をひそめて睨むと、シシドは息を飲んだように黙ってから、苦笑した。


「さっきまでとは打って変わって毅然とした顔をなさる。――意中の相手がいたかどうかではなくて、おれは単に、あなたに魅せられたのですよ。美しく、気高い、一族を守る姫君――そんなお方の相手が俺などでよいのかと、脅えたのです」


 水媛は、さっと目を逸らした。


「私は出来損ないです。一人では山にも登れないし、度胸もないし、いいところなど一つもないといつも叱られていて――」


「出来損ない? そう思っているのはあなただけです。おれにとっては、この世で一番美しい土雲媛です」


 ぱしゃん、と水音がきこえた。桜色の水面で山魚様が跳ねている。


 毒の濃い山では山魚様の身体が大きいので、湖の近い場所で跳ねると、水しぶきが二人のもとまで降りかかる。


「あぶない」


 シシドの手が、水媛を水際から遠ざけた。自分の身体の影に隠して大切なものを守るようだった。


 すこし遠ざかって眺めると、広々とした山頂の景色が視界におさまる。


 桜色の湖は純白なもので囲まれて、きらきら輝いている。山魚様のうろこが波で流されて積もったものだが、太陽の光をはね返して虹を生んだせいで、頂きの岩場はまるごと光り輝いて見えていた。


「美しい――夢の中のようです」


 シシドは湖から目を逸らすと、水媛の手をとった。


「こんな場所で、あなたの夫になることを誓ってもらえるのも、夢のような話ですね」


 帰ろう、という話になると、水媛はまたシシドの背中におぶさることになった。


「湖が離れて毒が薄まるまでです。夫婦らしくていいじゃないですか」


 夫婦に、夫、妻。そういう言葉をシシドの口からきくたびに、胸がはずんだ。しかし、気になることもある。


「お願いがあるのです。あなたに背負われたことは、どうか内緒にしてもらえませんか。大切な儀式の時に私がへまをしたときいたら、お婆様はきっとお怒りになるでしょう」


「もちろんです。もし土雲媛に問われても、あなたはずっと自分の足で歩き、立派にすべてを終えられたと嘘をつきます。嘘か――夫婦らしいですね」


「嘘が夫婦らしい?」


「ええ、誰にも内緒の秘密をこの世であなたと二人だけでもてるんですから」


 シシドは明るく笑って「もっと嘘をつきましょう。あなたとおれだけしか持たないものをもっと手に入れてみたい」という。


「まあ。あなたはおもしろいことを考えるのですね」


 嘘が、そんなふうに可愛らしい夫と妻の秘めごとになるとは。


 シシドの肩の上で唇の端をあげると、「あっ」と声がきこえて、シシドが振り向いた。


「いま、声が笑ってましたね。笑った顔、見たかったな」


 真後ろにある水媛の顔を覗こうと、シシドは懸命に目の玉を動かしている。でも、首を伸ばしてもほんのわずかに視線がかすり合う程度で、あきらめたのか、山歩きの行く手に目を戻した。


「ほら、嘘にはあなたを笑わせる力もあるんですよ。もっと嘘をつきましょう」


「いいえ、もう――」


 嘘をついてくれと頼んだのは自分だったけれど、祖母の目はごまかせても、きっと大地の神の目はごまかせないだろう。


 土雲媛が仕える大地の神は、大地のすべてに宿っている。遠くの山々や、大地や、岩陰や、水辺――すべてで、いまも、「嘘をつきましょう」と話した二人の会話を耳に入れているかもしれない。


 それに、どんなに小さな嘘でも、すこしずつ重なっていったら、物事はすべて塗りかわってしまうのではないか。蜂蜜のように、蜜蜂がつくる一滴はわずかでも、溜まっていけばいつかは器がいっぱいになるように。


「嘘はいけません。大地の神様はきっとすべてお見通しですもの。だから、たった一つ、この嘘だけは大切にしますね」


 シシドの背中から見渡せるのは、毒の風が吹きかう〈待っている山〉。土雲の一族は、大地の神に代わって山の毒を癒して暮らす山の民で、土雲媛は、その一族を率いていく。


 自分が、祖母のように首長の座につく頃、この山はどうなっているだろう?


「――すこし、こうさせてください」


 シシドのうなじに頬を寝かせた。この青年が水媛のそばにいるのは、娘ができるまでだ。その後は館を出て、夫という繋がりを失ってしまう。


 だから、たった一つ。この嘘だけ。


 女王蜂が一匹で暮らさなければいけなくなるまでの、いまだけ。


 蜂蜜のような嘘の甘さは、指先までを贅沢に甘くする。その甘さにひたろうと、水媛は目をつむった。





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お題「土雲媛の若き日のロマンス」にて、書かせていただきました。

頭の中にぼんやりあった設定を掘り下げてストーリーを練るのがとても楽しかったです。

リクエストを下さった方、ありがとうございました!

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