嘘と蜂蜜 (1)

本編の設定より約30年前、水媛(セイレンの祖母、土雲媛)が15歳くらいで、土雲の一族が、セイレンが暮らした〈待っている山〉に移ってきたばかりの頃のお話です。


※蜂蜜がこの時代にあるかどうかは意見が別れていると思っています。そのため、1話には蜂蜜が関わるエピソードがありましたが、書籍版からは削除しています。

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 水媛の耳に届いた蜂の羽音は、群れをなして刃をちらつかせる兵のようだった。


 ブウウン……という空気の震えが、「くるな」「きてみろ」と威嚇している。これ以上近づいたら殺す。我が里と子ら、そして女首長をおびやかす者は殺す、と脅される気分だ。


 足が凍りついていたけれど、懸命に膝に力を込めて半歩前に出る。そうしないと〈雲神様の箱〉の雲が、蜂の巣まで届かない。


 震える指で首から下げた石飾りをつまんで、唇にあてる。


 その時、巣のそばに浮いていたうちの一匹が、ブン……と羽音を立てて飛び上がった。「去れ。去らないならこっちからいくぞ」と大男に怒鳴られた気分で、青ざめた水媛は思わず雲を吹いていた。


 〈箱〉から出た雲は、蜂を眠らせるはずだった。でも、遠すぎた。痺れ雲に気づいた蜂は大回りをして浮き上がり、水媛のもとへと脇目もふらずにやってくる。巣に害を為そうとした敵に襲いかかった。


 すくみ上がった水媛に、叱声が飛んだ。


「蜂も従わせられないのかい! それでも土雲媛になる、私の孫娘かい!」


 背後から勢いよく雲が吹き出てくる。


 うしろにいたのは水媛の祖母で、いまの土雲媛。口に〈雲神様の箱〉を構えていて、縦横無尽に宙を舞う蜂を一匹残らず眠らせようと雲を操っている。その姿は、まさに「雲使い」。水媛にとっては、憧れと恐怖を抱かずをえない相手だった。






 雲を浴びて眠った蜂が、土の上に散らばった。


 踏まないように近づいて、蜂の巣を枝からもぎ取り、割る。巣の中に残っていた蜜蜂と、ひときわ大きな女王蜂を取り出すと、土雲の里へ戻った。


 帰り道はいつもどおり、説教だ。


「今日もだめだったね。おまえはいつになったら蜂鎮めができるようになるんだい」


「――はい、お婆様。もうしわけございません」


「毒にも弱い、雲も操れない、度胸もない。おまえのいいところはどこだい。まったく、心配だよ。おまえみたいなのが、いずれ私の後を継ぐなんて」


「――はい、もうしわけございません」


 祖母は厳しい人なので、叱られるのは慣れている。


 でも、いくら慣れていても、「おまえにはいいところが一つもない」と罵られるのは胸が痛む。


 そばで聞いていた母は、里に戻って祖母と別れると、そっと肩を抱いてくれた。


「お婆様はああいっていたけど、前よりはうまくなったわ」


「そうでしょうか」


「ええ。もうすこしよ」


 「さあ、食べて元気を出しましょう」と母はわざと笑って、取ってきたばかりの蜂蜜を壺へ溜めていく。


 土雲の里では蜂が聖なるものとされたので、蜂の巣に向かって雲が吹けるのは土雲媛の血筋だけだ。「なぜ」と尋ねると、母は答えた。


「蜂には女王の蜂がいるでしょう? たった一匹で一族を従える蜂で、たった一人で土雲の一族を率いていく土雲媛と同じだからよ」


「でも――女王蜂にはだんな様がいないのですか」


「さあねえ。巣を守っている小さな蜜蜂のどれかかもしれないけれど、同じように立派な身体をした蜂はほかにいないわね。そういうところも、私たち土雲とそっくりよ」


 土雲の一族の首長は女系で、「土雲媛」と呼ばれ、代々娘へと受け継がれる。


 夫となる男は一族の中から選ばれるが、夫として暮らせるのは、いずれおさとなる娘が産まれるまでだ。娘が産まれたら夫は縁が切れて、宮を出て暮らす。男児が生まれた場合も同じだった。


「もしかしたら、女王蜂の夫も、新しい女王蜂が育っていくのを父ではないただの蜜蜂として見守っているのかもしれないわね。――はい、蜂蜜」


 甘い蜂蜜は、一番のご馳走だ。


 壺の中から木匙にすくわれた蜜は、太陽の色をしている。口に入れてほんのわずか舐めるだけで、指の先まで甘くなる気がする。贅沢な甘さだ。


「――おいしい。こんなものが蜂の巣の中にあるって、ふしぎ」


「きっと蜂が、一滴ずつ蓄えていくのでしょうね」


 小さな蜂がほんのわずかずつ運ぶものが、溜まると、壺一杯の量になる。それも、水媛は凄いと思っていた。



 


 三十年かけた山の清めが済んで、新しい〈待っている山〉に移ったのは、水媛が十五の時だった。


 毒が消えかかった山で生まれ育った水媛には、新しい山での暮らしは苦しかった。


 祖母の土雲媛は、それにも呆れた。


「なんだい、おまえは。それでも私の血筋かい。いずれ土雲媛を継ぐ稚姫わかひめのくせに、ちょっと頂きの湖にいくだけで息が苦しいなどと――」


 〈待っている山〉で一番濃い毒が漂うのは、水源のある山頂の湖のあたり。


 そこに辿りつけるのは、一族の中でも十五人ほどで、新しい山に辿りつくと山を登って、新しい山魚様にあいさつをするのが古くからの習わしだ。土雲媛の系譜の娘として水媛も一緒に出かけたのだが、手つかずの山の毒を生まれてはじめて浴びた水媛は、山頂で気を失ってしまった。


「山開きの儀のあいだも立っていられない土雲媛など、きいたことがない。おまえは我が血筋の恥だよ」


「――もうしわけございません」


「お母様、私も幼い頃はいまほど毒に強くありませんでした。きっとこの子もいまに――」


 母は庇ってくれたが、祖母の土雲媛は、べつのことにも焦っていた。


「前の山で山開きをおこなった時にはね、湖に辿りつけた里者が二十五人はいたのだよ。思い返せば、私のお婆様はその時、それを嘆いておられたの。その前の山で山開きをおこなった時には三十人は登れたのにって――。間違いありません。強い毒に耐えられる者が減ってきています。このままでは、土雲媛の系譜の娘すら、頂きの毒に耐えられなくなる日がくるかも――」


 土雲媛は、ため息をついた。


「決めました。水媛、あなたの夫は私が決めます。あなたと齢が近い若者のうち、もっとも強い身体をもつ男にします」


「でも――」


「おまえの身体が弱いせいです。そうしないと、いくら宝珠の力を使ったところで、おまえから産まれる次の稚姫はさらに身体が弱くなるでしょう。土雲の力を保つためです」

 




 土雲媛の命令は、土雲の里では絶対だ。


 でも、毎日いわれる通りに祈りの稽古をして、「いいところが一つもない」と叱られ続けた水媛には、たまらなく不服だった。


(夫になる人は好きに選んでいいっていったじゃない。嘘つき。嘘つき)


 「この人ならいいかな」という相手くらい、水媛にもいた。


 たった一つ許されていた自由すら奪われた気分で、苛立ちがつのったけれど、つねに祖母や里者の目にさらされて暮らす水媛には、苛立ちをおさめる方法もさほど多くなかった。


 そばにいる侍女がよそ見をしている隙に小さな石を蹴ったり、手の影で、できるだけ乱暴に草や花を引きちぎってみたり――。これくらいしか歯向かえるすべがないのかと、かえって苦しかった。


 しばらくたったある日、土雲媛に呼ばれた。


「おまえの相手を決めましたよ。彼にします」


 館の庭に入ってきて、うやうやしくひざまずいたのは、シシドという若者。


 水媛より三つ年上で、山の頂きに登ることができる強い身体の持ち主のうえ、物覚えの良さを買われて〈神歌の衆〉になるべく稽古をはじめている。真面目で人当たりがよく、きれいな顔をしているので、里の娘たちからもよく噂をされている。


 庭でひざまずいたシシドが顔を上げていき、目が合うと、頬がかあっと熱くなった。実はシシドは、水媛がひそかに想いを寄せていた相手だった。


 ここでおこなうのは、水媛が夫を決める儀式。祖母から「さあ、お言いなさい」と命じられるので、水媛はどうにか唇を動かした。


「おまえを夫にしてやろう」


 緊張で、声はとても小さくなった。館の中からの小声をききつけて、庭の土にひざまずくシシドがゆっくり頭を下げていく。


「ありがとうございます」


「おまえに、我がふところで育てた土雲媛の宝珠をさずける」


 そういった後に、立ち上がり、庭に下りていく。


「顔をあげよ」


 どれも「こういう場ではこういえ」と決められた文句だった。命じられるとシシドは姿勢を正すが、それも決まった所作。そばまで歩み寄った水媛の顔を向いて、シシドの両目が水媛を見上げた。


 水媛は、懸命に気を落ち着かせた。


 ついさっきまで、誰が自分の夫になるかを知らなかった。


 お婆様が決めた相手がこの人でよかった、という安堵と、意中の相手がすぐそばにいて、じっと見つめられている緊張が苦しくて、倒れてしまいそうだった。


 指が冷たくなっていた。感覚があやふやな指で、土雲媛の宝珠という丸薬をふところからとりだすと、シシドの口元に運ぶ。


「飲むがよい」


 シシドの唇がひらいていく。その隙間に、宝珠と呼ばれる丸薬を押し入れた。


 指が、その男のやわらかな唇に当たっている。それが奇妙な気分で、やはり気が遠のきそうになる。


 シシドがその丸薬を飲み下して平伏すると、儀式は終わった。


「では明日、二人で頂きの湖に登りなさい。おまえたち二人の祝言を、大地の神に認めていただきなさい」


 祖母の言葉を最後に、庭にいたシシドが立ち去って、水媛も土雲媛の館を出ることになる。


 館の外で一人になると急に足ががくがくとして、柱にしがみつかないと、立っていられなかった。





 その晩は、眠れなかった。


 「なにも選ばせてくれない」「嘘つき」と恨んでいたくせに、想いを寄せていた相手を選んでくれた祖母には、身体が震えそうになるほど感謝した。


 よくよく考えれば、「夫になる相手くらい自分で選びたい」と拗ねていたけれど、「もしも私に選ばれたあの人が嫌がったらどうしよう」と、その時がくるのを怖がりもしていた。それを、祖母が肩代わりしたようなものだ。祖母が呆れるくらいの頼りなさをはじめて喜んだし、籠の鳥でよかったとも思った。


 ほとんど眠れないまま夜が明けて、身支度をして外に出ると、もうシシドは外で待っていた。


「おはようございます、水媛様」


「おはよう――」


 人の気配がまばらな朝方に、供の侍女もつけずに、自分よりずっと背の高い青年と二人きりでいるのは、生まれてはじめてのことだ。


 どこを見ればいいんだろう。目を合わせるべきか、逸らすべきか。もじもじしていると、シシドが笑いかけてくる。


「さっそくいきましょうか。頂きまではしばらくかかります」


 山頂の湖に向かうのは、そこで土雲の神に祝言の知らせをするためだ。自分と、そこにいる青年シシドの――。


「はい……」


 返事は小さくなった。恥ずかしかった。





 土雲が移り住んだばかりの〈待っている山〉では、集落のすぐそばまで濃い毒が漂っている。


 建って間もない家々の周りには集落を囲むように石が置かれて、「ここから先はいかぬように」と知らしめる。囲いの外にある木の実や、そこで暮らす獣を拾ったり狩ったりすることも禁じられた。


 特に毒に強いひと握りの者のほかは、その囲いの外に出るだけで毒に当てられるかもしれなかったし、草木や獣を食べてしまえば、中の毒が口に入ってしまうからだ。


 すぐに、人の気配は途絶える。


 二人分の足音が響いているが、くつの底が時おり小石を引きずる小さな音が大きくきこえるほど、周りは静かだった。


 しばらく無言が続いてからだった。シシドの声が、ぽつりと耳に落ちてくる。


「おれが相手でよかったのでしょうか」


 問われた言葉より、この青年から話しかけられているのが照れくさかった。


 なんてこたえよう――と言葉を探していると、シシドが苦笑する。


「おれをあなたの相手に選んだのは土雲媛様でしょう?」


「――そうです」


 ですが、私もあなたを夫に選びたかったのです。


 そういいたかったけれど、口ごもった。照れくさいのもあったし、「もしも私に選ばれたあの人が嫌がったらどうしよう」と怖がる気持ちも思い出した。


 シシドは「やっぱり」と前を向いた。


稚姫わかひめというのは、思いどおりにならない苦しいお立場なのでしょうね。心に決めていた男はいなかったのですか」


 それは、あなたです。そういいたかったけれど、やはり、口から出ていかない。


「あなたはどうなのです。想いを寄せていた方はいなかったのですか」


 どうか「あなたです」といってほしい。「あなたのことを想っていました」といってほしい――と願うものの「私などが」と思うと怖くて、やはり声にはならない。


 胸に生まれた小さな炎でじりじり身を焦がすように返事を待っていると、シシドは苦笑した。


「好きな娘くらいいましたよ。いつか夫婦になってくれと、遊びのように口にしたこともありました。でも、土雲媛様の命令には逆らえません。あなたと同じですよ」


 「あなたと同じ」とシシドは言ったけれど、「私は違います」と水媛は声を出したかった。でも。


『いつか夫婦になってくれと、遊びのように――』


 そんなことを、水媛がこの青年からいわれたことはない。シシドが「いつか」と思った娘が、自分ではなかったからだ。


「でも――」


 シシドは何かをいいかけたが、水媛はふいっと頬を向けていた。一番好きだった青年が、自分を一番に好きではなかった。それが、悔しかった。


 

 相手がわたしで、悪かったですね。

 お婆様のせいで、あなたの大切な娘さんと夫婦になれなくて、おかわいそうに。



 唇をかみながら、シシドへの恨み文句を抱く自分にも嫌気がさした。


(なんて意地の悪い――。毒にも弱い、雲も操れない、度胸もない。私なんか――)


 祖母の怖い顔がよみがえる。「おまえは我が血筋の恥だよ」と何度となく叱られたことも、「もうしわけありません」と謝り続けるしかなかったことも。


 水媛の機嫌が悪くなったのに、シシドは気づいたに違いなかった。なにかをいいたそうにしていたけれど、そのまま口を閉じてしまった。


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