はじまりの心音 (2)

  ◆    ◆  



 セイレンは、いいなあ――。



 「はっ」と息を吐いて、セイレンは瞼を押し上げた。


 何度も息を吸って、吐いて。しばらくそれを続けて、気が落ち着くまでは、胸が焦って仕方がなかった。



 ここはどこだ。わたしは誰だ?

 石媛? セイレン? どっち?



 リン、リン……と、虫の声がする。人の汗の匂いが漂っていて、あたりに満ちた人肌の生ぬるさをかき混ぜるように、夜風が首を撫でていく。


 野道のわきに夜露よけの天幕が建っていて、中で眠る雄日子を守って火が焚かれて、武人が火の番をしている。あたりは暗く、虫の声からすると、真夜中。


 セイレンは、藍十の隣で眠っていた。藍十だけでなく何十人も男が寝転んでいる、旅の途中の野宿だ。


(へんな夢――ばかばかしい)


 夢とはいえ、自分が双子の姉と妹のどちらかわからなくなった――などと焦ったことが、自分で自分を殴りつけたいくらい情けない。


(わたしがあいつのわけないじゃないかよ。あいつは一族を導く尊いお姫様で、わたしは一族に穢れをもたらす災いの子だ――寝覚めが悪い)


 故郷の山を下りて、雄日子という男に守り人として仕えるようになってからというもの、双子の姉の夢をよく見た。


 姉姫は、手も足もない石の姿をしていることもあれば、人の姿の時もあった。同じなのは、いつも泣いていることと、「セイレンはいいなぁ」とうらやましがること。


 別れ間際に見たのが泣き顔だったからか? でも、セイレンにしては腹が立つ話だ。


(うらやましいのはこっちだっつうの。のうのうと暮らしてるくせに、わたしをうらやましがるな。くそ野郎)


 泣き顔の理由がわかったのは、それからすこし経った後のことだ。


 石媛は、土雲媛の宝珠という宝を失くしていた。でも、石媛はその宝珠を失くしたのではなくて、人に渡したのだ。それも、雄日子という名の土雲ではない一族の男に。


(ばかか、あいつは。わたしでもわかるよ。一族の宝珠を山の下の男に飲ませるなんて、禁忌中の禁忌だ。――あいつは、雄日子が好きになったんだ。あんな奴のどこがいいんだか。わかんない。好きっていうのも、よくわからないや)


 恋というものを、セイレンはよく知らなかった。


 けれど、「それが恋だよ」と藍十にいわれたことがあった。


 朝もやが残る、ある早朝のことだ。森の中で、背の高い青年に出会った。


 その人の顔は、面長で、目が細く、それまでに見た誰とも違う容貌かおだちをしていた。朝霧に包まれた小川のそばにたたずむ立ち姿には気品があって、あまりにも美しいので、人なのか、森の一部なのかがわからなくなった。


(きれいな人――。男の人? 朝の神様? それとも、森の神様……)


 背が高いので男に見えたが、それすらもよくわからなくなる。その人を見るまで、こんなに麗しい男がいると想像したことすらなかった。


「おはよう」


 目が合って笑いかけられると、焦った。幻ではなく、生身の人だとわかったからだ。


「おはよう……」


「おまえはセイレンだろう?」


 その人は荒籠と名乗って、「雄日子様にきいたよ」と、笑顔を浮かべて近づいてくる。


「あっ――」


 寄られると、逃げたくなった。待って、こないで。いま、わたし汚いんだ。あなたに見られるなら、顔も首も指もきれいに洗っておくから――と、焦って泣きたくなるほどなのに、足は動かない。足は、その人がそばにくるのを待ちたがった。


 影が重なるまで近寄って、その人は低い声でいった。


「そうか、おまえがセイレン――。しばらくよろしく頼む」


 「よろしく頼む」といわれたのだから、「ああ、よろしく」と返すべきなのに、頭がぼんやりとしてしまう。


(きれいな人――森の神様みたい。澄んでいて、強くて、きれい)


 結局、自分を見下ろす優しい微笑を、黙って見上げるしかできなかった。


 荒籠という人は、馬飼一族の若長わかおさだという。多くの馬を育てあげるという類いまれな技を持ち、その若長ともなれば、一族だけが伝える習わしを誰よりも守りとおして、一族を導いていく役を負っている。


(つまり、土雲媛みたいなものか)


 セイレンにとって、荒籠は、誰よりも遠い人だった。主の雄日子よりもよっぽど身分が高い男と感じたし、憧れもした。心のどこかで「いいなあ」と憧れ続けたものに似ていた。


(ううん、土雲媛なんかと一緒にしちゃ荒籠に失礼だ。荒籠、様……かな)


 はじめて「様」をつけて呼びたいと思った相手でもあった。


(荒籠様か、荒籠様)


 声に出さずに名を呼ぶだけで、音の余韻に浸りたくなる。その人のことを想うと、妙に胸が騒いだ。


(へんなの)


 いつのまにか誰か別の人に生まれ変わったようで、気味が悪い。でも。


(荒籠様――)


 いつのまにか、また名を呼んでいる。名を呼ぶだけだと寂しくなって、目を閉じることもあった。その人が笑った顔を思い出せそうな気がした。






 雄日子のことが、セイレンは苦手だった。


 その男は、大勢からかしずかれる立場のくせに、話しかければ聞いてくれるし、なにかを頼めば引き受けもする。気前はいいが、腹でなにを考えているのかはわからない。頼んだとおりに聞き入れてくれることもあれば、そうか、それがおまえの弱みなのだなと、いつのまにか罠を仕掛けられることもある。いつも笑っているが、その笑顔のままで、自分がほどこした罠に捕らわれていく誰かをのんびり眺めている時もある。時おりは魔物の気配すら帯びる、信用ならない男だった。


 でも、だんだん慣れていく。その人を助けたいと思うようにもなった。


「あなたにはなんだかんだと世話になっているしなあ。世話になった分を返すよ。あなたの『戦』を手伝ってあげる。なんとなく、あなたを助けなければいけない気がするんだ」


 まるで、自分の身体の中にいるべつの誰かにそうしろといわれているようだった。



 この人を助けたい――。

 この人の想いを叶えたい――。



 守り人として従っているので、その男の盾になり剣になるのは日々のことだが、なんというか、自分ではなくて、この男のことをとても好きな誰かが胸の底に居ついてしまったような。


(へんな気分。なんだろう――)




  ◆    ◆  




 土雲の里。夫の手で館に閉じ込められた石媛へ、フナツは嘆願した。


「石媛様……あまり祈らないでください。あなたの祈りがまず伝わるのはセイレン様のような気がします。セイレン様が、あなたの代わりに動かされる気がします」


「どういうこと?」


「あなたがなにかを想えば想うほど、セイレン様があなたの代わりにそれをしようとなさるというか――たぶん、セイレン様は気づいていないと思いますが――」


「セイレンが? ……離れていてもやっぱり双子なのね。嬉しい」


 不思議に脅えるどころか、石媛はふふっと笑った。


「フナツ、私ね、あの方――雄日子様のことを考えていたの。あの方がご無事に過ごされますように、あの方がしたいことができるようにお助けしたいって。セイレンは山を下りて、あの方を守るためにおそばにいるんだもの。私が祈らなくても、セイレンはあの方を守るわよ。離れていても私と同じように思って、同じことをするわ」


 そこまでいってから、石媛は青ざめて、はっと口元に指先を当てた。


「でも――もしも私とあの子が同じ時に同じことをしているなら――あの子、私と同じように雄日子様のことが好きになっていないかしら。そうだったら、私……」



  ◆    ◆  



「僕を助けたい? おまえの口からそんな言葉が聞けるとは思わなかった。嬉しいね」


 雄日子は目をまるくした後で、くすりと笑った。けれど、セイレンも同じ思いだ。


(わたし、なんでこんなにこの人を助けたいって思うんだろう?)


 セイレンも驚いて目をまるくして、その後で、目を合わせて笑った。


「わからない。でも、あなたって、そこまで嫌な人じゃないなって思ったんだ」


 本当のことだった。その男のことを恨む気持ちがじんわりと解けていくような、不思議な気分なのだ。


「あなたはいい人だから、信じてあげてって、誰かにいわれてるみたいなんだ。助けてあげてって。大切にしてって」


 雄日子は苦笑して、唇を閉じた。困ったように微笑んで、セイレンの顔を無言で見下ろした。


 しばらく経ってからだ。雄日子の目がわずかに細くなって、両手をそろそろと浮かせた。


 雄日子は、セイレンの顔に影が落ちるほど近い場所に立っていた。浮いていく両の手のひらは、ちょうど両の頬を包むような位置へとあがっていたけれど、動きが止まる。手も下りてしまった。


「――いいか」


「いいかって、なにが」


「おまえが、本心からいったのかどうかが気になった」


「――はあ?」


「急に僕を助けたいなどというからだ。いまおまえがいったことが嘘だったら、僕は、おまえをそばに置くのが怖くなる。だから、たしかめようと思った。でも、きっと本心だ。たしかめる必要はないと思った。おまえは嘘をつけない奴だ」


「はあ」


 なにを話しているのか、さっぱりわからない。ぽかんとしていると、つられたふうに雄日子が笑った。


「そのままでいなさい。僕は素直なおまえといるのが好きだ」


 いーっと、セイレンは口を横にひらいた。


「わたしは素直だよ。嘘つきってあなたみたいな人のことでしょう? 絶対やだよ。あなたみたいに嫌な人になるなんて、まっぴらごめんだよ」


「口が悪いな」


 雄日子は吹き出して、「僕にそんなことをいう奴はおまえくらいだ」と、もう一度浮かせた右手の親指で頬のあたりをそっとなぞる。雄日子の指が離れたところから、妙に顔がすっきりした。落ちていた黒髪を耳にかけてくれたのだ。


「僕のところにきたのが、おまえでよかった」


「え?」


「僕のところにくるのは、おまえの姉上かもしれなかったろう? でも、僕は姉上よりもおまえの気配のほうが好きだし、おまえといるほうが好きだ。だから、きたのがおまえでよかった」


「――あ……」


 「ありがとう」といおうとしたけれど、途中で声が詰まる。驚いたし、緊張もした。大事な言葉をいただいたと思った。


「――」


 言葉が出なくなる。それくらい嬉しかった。


 『双子の姉よりも、おまえのほうがいい』。そんなことを言われたのは生まれてはじめてのことだった。災いの子として生まれてからずっと、高貴な姉の穢れの存在として育ったのだから。


 でも、たちまち、脳裏によみがえるものがある。泣きじゃくった石媛の顔だった。


『セイレンはいいなぁ――セイレンになりたい』


(また、白昼夢ひるゆめ


 幻を追いやるように首を振る。雄日子はそれを気にした。


「どうした、急に」


「ううん、なんでも――」


 そういいかけて、止まる。なんでもないわけではなかった。


 石媛が泣いた理由がわかった気がした。――ううん、わかるわけがない。わたしは石媛じゃない。わかるもんか、と、苛立った。


 なんだよ、わからないのか。双子のくせに。わかってやれよ――と、苦しくもなった。


「次はなんだ、どうした」


 雄日子の声が降ってくる。笑っていた。


「おまえはころころと顔が変わって忙しいな。見ていると飽きない」


「あなたのためにこうなってるわけじゃないよ。わたしはね――」


(あれ?)


 ふっとなにかに気づいて、雄日子を振り仰いだ。


 

 この人のおかげかもしれない。

 この人が嫌な人で、わがままで、信用ならなくて、好き勝手に命令をしてくるから、この人に腹が立って、でも、やり遂げたくて、その間は、わたしは石媛のことを忘れられる。

 石媛がうらやましかったことも、妬んだことも、一族の連中に腹が立ったことも、自分が災いの子ということも、全部忘れていられる。それどころじゃなくなって、どうでもよくなる。それまでのことが一切関わらない「わたし」でいられる。



「――ねえ、前にさ、わたしと石媛は違うっていってたじゃない?」


 はじめて侍女の格好をした時のことだ。雄日子はたしか、こんなふうにいった。


『おまえと姉姫は全然似ていないよ。見かけはそっくりだがな。おまえにはじめて会った時も、僕はおまえが姉姫とは別人だとわかっただろう?』


「わたしと石媛ってなにが違ったの?」


「――好きか、そうじゃないか」


「好きか?」


「そばに置きたいか、そうじゃないか、かな」


 雄日子は「さあ」といって苦笑した。


「合うか、合わないか。疲れないか、疲れるか――わからないが、僕はおまえといるのが――あぁ、そういえば前にもいったな」


「前に?」


 雄日子は「ああ、いったよ」と記憶をたどるふりをする。それから、ゆっくり唇をひらいた。


「たしか――おまえは、僕が考えつかないことを考えたり口にしたりするから、そばにいると面白い。おまえといるのが嫌いじゃない。いや、好きだ――と、はじめて会った日にいった」


「――」


「だから、僕のところにくるのがおまえでよかった。――これでいいか?」


 雄日子が愉快そうに笑う。面白いものを覗くように顔を覗きこんでもきた。


「――笑いたいけれど笑ってやるもんか、という顔をしている」


 ぎくりとして、慌てて唇に力を入れた。いわれたとおりで、顔がゆるんでいくのをどうにかこらえていた。でも、やめた。笑いたいなら、笑えばいいのだ。


 雄日子の顔を見上げて、笑った。


「あなたは、わたしを怒らせるし、不安がらせるし、いらいらさせるし、ほっとさせるし、ほかのことを忘れさせるね。でも、そのおかげでいろいろ助かってる。わたしも、あなたのところにこられてよかったよ」


 「そうか」と、雄日子も笑った。



*****************************

お題「雄日子と石媛の出会いの詳しい場面」にて書かせていただきました。本編では書かなかった場面を加えつつ、双子の姉妹それぞれの初恋の場面を再構成する形にて。離れていても、同じような状況に身を置いて知らずのうちにシンクロしてしまう双子の姿――みたいなものがお伝えできるといいな。リクエストを下さった方、ありがとうございました!



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