番外、白昼夢 (1)

 あぁ、死ぬのだ――と雄日子がはじめて思ったのは、六つの時だった。


 倭の国を統べる勇名高き大王おおきみ雄略ゆうりゃく。その武王が、飛鳥の宮を出て、はるばる高向たかむくの都を訪れた日のことだった。


 雄略武王を出迎えるために、高向の宮の者はすべて外に出て、沿道に並んでいた。


 雄略武王といえば気難しい戦の王との噂だったが、老王とはいえ噂にたがわぬ大男で、凄みのある黒眼で周りを睨みながら歩き、身動きに合わせてかたりと鳴る金色の剣が、颯爽とした足さばきを飾っていた。


 雄日子も、大人に混じって道沿いで頭を下げることになったので、「たいへん立派な方がいらっしゃるから、けっして騒いだり怠けたりしてはいけませんよ」という母の言葉に従って、大王という方が通りすぎるまでじっと動かぬようにと、胸で唱えていたのだった。


 しかし、雄略武王は雄日子の目の前に来るなり足を止めて、「顔を上げろ」と言った。


 命じられたとおりに顎を上げると、雄略武王は金の剣を抜き、刃の切っ先を雄日子の幼い鼻先に突きつけた。


「おまえ、齢は?」


「六つになりました」


「名は」


「雄日子ともうします」


「父と母は」


「母はふり姫ともうします。父は、高島の刺史しし彦主人ひこうしですが、僕が五歳の時に病で亡くなりました」


「高島……とすれば淡海――応神おうじんの血か。逃げ腰になって飛鳥を去った連中の裔か。欲がないと見せかけて、僻地の富を囲いこんだしたたかな血筋――気に食わん奴らだ。おまえもそうか、なあ」


 雄日子の鼻先に突きつけられていた剣が頬に添えられて、鉄の刃身がいたぶるように何度か頬にくっつけられる。この剣でいつでもおまえの顔を真っ二つにしてやるぞと、脅されているようだった。


 周りは、しんと静まり返っていた。


 張り詰めた静けさに、そうか――と、雄日子は理解した。


 僕を助けられる者はいない。


 齢若い王子が刃を向けられるなどあってはならないことだが、雄略武王の為すことを止められる者が、ここには誰一人いないのだ。


 僕は、この武王のお心ひとつで、すぐにこの世から消える。


 そうか、死というのは突然来るものなのだな――。そうならば、父上が呆気なく死んでしまったのも当然のことなのだろう。


 なかば茫然としながら、これまでどこかで耳にした大人たちの噂声も思い出していた。


「雄略武王は手厳しいことで有名だ。ほら、大陸の皇帝すら、意に沿わぬとして遠ざけたとか」


「気に入らぬ者を大勢殺しておられる――まったく、あの方の王座は血にまみれているのだ」


 まばたきもせずに見上げていると、雄略武王は奇妙なものを見るようにくっと笑った。そして、ようやく剣を雄日子の顔から遠ざけて、刃を鞘にしまった。


「高島の彦主人ひこうしの子、雄日子か。ふうん――。なあ、雄日子。おまえがあと十年早く生まれて十六だったら、俺はこの場でおまえを殺していた」


 そういって、雄略武王はゆるゆると腰を下ろしていき、地面にあぐらをかいてしまった。


「あの――僕も御前みまえに控えてもよろしいでしょうか」


 雄略武王が座ってしまえば、いくら雄日子の背が低くても見下ろす形になってしまう。それは無礼だと思って願い出ると、雄略武王はくっくっと笑った。


「ああ、許す。座れ。それにしても、おまえはなかなか肝がすわった童だな。――なあ、雄日子。俺は、これまで、俺の位を脅かしそうな男はことごとく遠ざけてきた。しかしな、同じ血をひいているというだけで殺してきたわけではないぞ。たとえば、景行王の血をひく孫は八十人いたという。大王が代わるごとに子孫は増えていくから、つまりな、大王の血を引く子孫などは掃いて捨てるほどいるのだ。そのなかで俺が遠ざけてきたのは、天の血を持つ男だけなのだ」


「天の血、ですか――」


 きき返すと、雄略武王はちらりと天を見上げるような仕草をした。


「ああ――大王となる男は、この世を平たくしろと天高い場所から呼びかけてくる声をきくことができるのだ。俺のようにな。たぶん、いまにおまえも聞くことになろう」


「僕が? なぜ僕などが……」


 ははは、と雄略武王は笑った。


「その光がおまえに射しているのが俺には見えるからだ。その光が射している男こそが天の血を持つ男で、いうなれば生粋の天の神の御子だ。大王おおきみの座に就いてもよいと神に認められた奴だ。そういう奴らを、俺はことごとく殺してきた。だが、おまえはまだ若い。おまえが争うのは、俺の次か、その次の代の大王の座を狙う奴になるのだろう。少なくとも、俺の王座ではない。俺にはまだ精に満ちていて、高向の童など敵になりようがないからな。であるから、おまえを殺すかどうかは、そいつらに委ねることにした」


 ゆっくり腰をあげながら、雄略武王は立ち上がり、それまでよりずっと高い場所から雄日子を見下ろして、にやっと笑った。


「それまで、命を大切にしろ」


 静寂が続いたのは、雄略武王がそこを立ち去り、高向王が待つ王の宮に姿を消すまでだった。


 ざわざわとそこかしこで囁き声がきこえて、雄日子を見つめる視線で溢れた。


 こんなふうに人の注目を集めてはいけないことを、雄日子はよく知っていた。


 すぐ隣には、一緒に沿道に控えていた従兄弟の角鹿つぬががいる。角鹿は雄日子が身にまとうものよりも飾りの多い晴れ着を身にまとっていて、唇を噛むようにしてじっとうつむいていた。


 雄日子は、さっと立ち上がって角鹿に耳打ちした。


「ねえ、角鹿。いまのはたぶん、武王様が僕のことをおまえと勘違いをなさったんだね。僕は大王様のいうような血なんかを持っていないよ。だって僕は、大きくなったらおまえに仕える身なのに」


 角鹿は高向王の長男で、雄日子は、高向王の姉の長男だ。


 雄日子の母は、一度国を出て高島という異国に嫁いだ身だから、身分はいまの王を務める弟よりもずっと低かった。


 だから、同じ年に生まれて、同じ宮で同じように育った雄日子と角鹿も、身分は角鹿のほうがずっと上だ。角鹿は王の嫡子で、いずれ王位を継ぐ身だったからだ。


 角鹿の白い顎が小さく震えている。角鹿は静かに泣いていた。


「武王様は正しいよ。僕があなたにかなうことなんか何一つないもの」


 涙声だった。そういったかと思えば、すぐに角鹿は身をひるがえして駆けていく。あっという間に沿道を離れていった。


「ええっ――こんなところに置いていかないでよ……」


 周りにいる大人たちの目が痛い。「またあの子が、角鹿様に無礼をはたらいた」と咎める目つきだった。


「待って」


 角鹿を追いかけようとしたが、走り出そうとした腕を掴む腕があった。母だった。


「こちらへいらっしゃい」


 息子の腕を掴んだ母の振姫は、周りにきこえるような大声で叱りつけて、沿道から離れようとする。


「あなたという子は、また己の身をわきまえないことをして、角鹿様に失礼をして――」


「母上、僕はなにもしていません。いまのはきっと、武王様が角鹿と僕をお間違えになったのです」


 母の叱声にいい返しながら人波を抜けて、しばらくいったところで母の足が止まる。そこで振姫は地面に崩れ落ちるようにしゃがんで、雄日子の胴にぎゅっとしがみついた。


「さっきだって武王様に見咎められて――。命があってよかった」


 そういって、息子を抱きしめながら振姫はすすり泣いた。






「あなたは目立ってはいけないのです。能無しと思われていたほうがよいのです」


 と、雄日子は母から何度も繰り返しきいていた。


 乗馬や、漢籍かんせきの暗記や、剣技などが角鹿よりもうまくできると、よく思わない大人がいることも理解していた。


 でも、目立つなといわれる時にはたいてい目立った後で、能無しと思われなさいとたしなめられるのも、たいていなにかが起きた後だ。そもそも、目立ったりすぐれていたりするようなことをやるつもりもなかったからだ。


 角鹿は、物心ついた時からずっと雄日子を慕っていて、遊ぶ時もよく後ろをついてきた。けれど、大きくなるにつれて寂しげに笑うようになった。


「雄日子が僕に仕えることはないよ。偉くなるのは雄日子だよ」


「やめてよ。誰かに聞かれたらまた怒られるじゃないか」


 周りの大人の目を気にして泣きごとをいっても、しだいに角鹿はきかなくなった。


 そして、ちょうど雄略武王の御幸みゆきの三日前に、角鹿のほうが雄日子に文句をいった。


「あなたこそ、僕には真似できないものをたくさん持っているくせに、知らんぷりをするのはやめて。偉くなるのは雄日子だよ」






 そんなことがあってすぐのことだったので、雄日子は不安だった。


「母上、角鹿を探してきます」


 泣きつく母の腕をどうにか押しやって、角鹿が走り去った方角へ向かって走った。


 高向の宮は広くて、中央に王の宮があり、周りに王の家族が暮らす宮が十以上並び、その周りには番兵や侍女の住まいや炊ぎ屋、馬屋がある。


 角鹿はどこまでいったのだろうか。


 彼が生まれた時から暮らしている宮だから、宮の抜け出し方もよく知っている。川沿いや山までいかれたら、見つけられるかどうか――。


 雄略武王の御幸のために、番兵も侍女もみんな駆り出されていたので、王の宮のほかは人の気配がすくない。誰一人姿が見えない庭で、雄日子はふっと足を止めた。上のほうからじっと自分を見下ろす視線を感じた気がしたのだ。


 真上には、青空が広がる。でも、見上げているうちに空の青さが薄れていき、真っ白になる。目がくらんでいるような気分だったが、たしかに雄日子は、真っ白な光に包まれていた。


「なんだこれ――」


 そのうち、光のどこかから声をきいた気がする。慌てて雄日子は首を横に振った。


「違うよ。僕は違う」


 言葉ではなかった。でも、光は雄日子に、「天の血を持つ者よ」と呼びかけた。


 光は、ほかのことも語りかけた。


 言葉ではなかったけれど、見渡すかぎりの大地が焼き尽くされていくところや、大勢の人が殺されていくところ。死んだ人が積み重なって山のようになっている光景――そういうものが、次々と目の前にあらわれる。そのような恐ろしい光景を見せられるのは、幼い童にとっては暴力に近かった。


(見たくない、聞きたくない、知りたくない)


 懸命に唇を噛みしめたが、できることはそれだけだ。


 なすがままになって立っていると、光は最後に、雄日子が知らない言葉もいった。雄日子は白い光のなかで、ぽかんと唇をあけた。


「大地の民、つちぐ、も?」


 それだけは、怖くなかった。


 光が教えたのは、天とは相反するものから生まれた、まつろわぬ民というものがこの世にはいるということだった。天の血を持つ者は、まつろわぬ民を滅ぼすのだ、と。


 それは幼い雄日子にとって、異国の話を聞くようだった。海の向こうや、山の向こうにまだ見ぬ大地が広がっているように、まだまだ僕の知らない世界があるのだと、まだ見ぬものに想いを馳せるような――。


 でも、はっと我に返った。僕は天の血を持つ者ではないと心に唱えて、目を閉じた。


「違うよ。消えて」


 こんなことをしている場合ではないのだ。角鹿を追いかけなければ――。


 でも、角鹿はすぐ近くにいた。


 天を仰いで茫然としていたところを、もしかしたら見ていたかもしれない。それほど、とても近い場所だった。


 角鹿は途方に暮れたようにぽつんと立っていて、雄日子と目が合うと、目に涙を浮かべて小さく笑った。




  ◆  ◇    ◆  ◇ 




 白昼夢ひるゆめをみた気分で、雄日子の耳には子どもの声がきこえていた。幼い頃の自分と、角鹿の声だった。


 高向の王族として育った二人には学びのときというものがあって、師匠の爺のもとへいくと、その爺は大陸から伝わった物語を読んでくれた。爺の声に合わせて、雄日子と角鹿は毎日のようにその物語をそらんじたのだった。


「はるか昔、大陸に二人の王がいた。二人は争い、はじめ優勢だった王は、最後にはもう一人に屈した――まこと、国を継ぐ者は強運の持ち主と決まっている。水が高いところから低いところへ流れるのと、同じことわり」


 師匠が手にしていた竹製の漢籍や、まだ珍しい紙の本、難解な異国の文字、漢籍が何百冊も集められた王家の書庫。書庫に忍び込んでは、竹片をぐるりとまとめた結い紐を解いて広げて、読むに読めない異国の字をたどたどしく指先で追いつつ、二人で読み合わせた幼い頃――。


 ふと、独り言をいうような師匠の爺の声も蘇った。


「ええ、強運はたしかに大切です。しかし、大地を統べる男というのは、恐ろしいほどの孤独と、ある種の憎悪を胸に飼っているものなのです。身の内に巣食うそういうものどもをうまく飼い慣らせるかどうかが、強運よりも大切だと、私は思うのですよ」


 そうやって二人で学びの刻を経るにつれて、角鹿は冷たく笑うようになっていった。


 そして、十になったある日、角鹿は思い詰めたような微笑を浮かべて、雄日子をそばに呼んだのだった。


「雄日子、こっちへ来て。僕と、契りを交わそう。邪術だからよくきくって、出雲からきた邪術師がいっていたんだ」






「雄日子様?」


 二度ほど名を呼ばれて、雄日子は自分がぼんやりしていたことに気づいた。


 雄日子は、自分の館にいた。


 目の前に男がいて、遠い記憶のなかの師匠の爺のように漢籍を手にしていたが、師匠の爺よりずっと若い顔をしているし、別人だ。そこにいたのは、斯馬しばだった。


 斯馬の奥には赤大が控えていて、自分のそばには角鹿もいる。


 雄日子は斯馬へ、手が空けば自分に物事を教えるように命じていた。いまは、そのための時間だった。

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