番外、僕の名は


ネタ回です。よかったらどうぞ。

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「なあなあ、セイレン。頼むからさ、雄日子様に、前みたいに『様』付けなしで呼んであげてよ」


 後ろからやってきた日鷹ひたかに突然そんなことをいわれるので、セイレンは足を止めて大きな口をあけた。


「はあ?」


 日鷹の横には藍十あいとおもいて、小さくうなずいている。


「なんていうかなぁ、いらいらなさっててなあ――」


「そうなんだよセイレン。なんていうか、微妙な不機嫌で微妙なとばっちりが来てんだよ。前みたいに軽―く呼んでさ、つっかかってあげてよ」


「つっかかってって――」


 セイレンはつむじを曲げた。二人の前に立って、腰に握り拳を当てて文句をいった。


「前は『雄日子様って呼べ』とか『無礼だ』とか、二人ともわたしを叱ってたじゃないかよ」


「そりゃあ、前はな。でもさ、こう、はじめの頃とはこう、いろいろさぁ――」


「いまさらなんだよ! わたしだって、ちゃんと守り人っぽくなりたいって思ったんだよ。いいことだろ? だって、おかしいじゃないかよ。あの男に仕えてる小娘が、そばで『雄日子』って呼んだらへんだろ」


「それは、ほんとにな、おれらも、よくここまでおまえが育ったなあとは思うんだけどな……」


「へんっていうか、雄日子様に可愛がられてる女なのかなあって思われるだけじゃねえのか。雄日子様の好みがばれて、物好きだと思われるというか」


「好みがばれる? 物好きって?」


 尋ね返すと、日鷹が慌てた。


「今のなし。ちょっとした言葉のあやで……とにかく、ためしに今日だけ! もう一回前みたいに呼んであげて!」






 さて、どこにおいきになった――と雄日子の姿を探すと、高島の宮の大庭あたりで、ざっと人の頭が動くのが見えた。


「あそこかな」


 雄日子が館の外にいて歩いていれば、人は雄日子に道を譲って場所をよけるので、大勢の人が妙な動きをしている場所を探せばよかった。


 遠くからその人波を眺めてみるものの、いつもとは動き方が違って見える。雄日子の身動きはたいていゆったりしていたので、歩く時も立ったり座ったりする時も、たとえば、気が荒い武人が「どけ!」とほかの人をおしのけてまで我を通すような忙しない雰囲気をもたなかった。


 でも今は、人を蹴散らすように歩いている。宮の人たちは「よけろ、よけろ!」と慌ただしく主の若王に道を譲っていた。


「ほら、いらいらなさってる。不機嫌だよなぁ」


「男の二人組――飛鳥の人だっけ? あの人たちがきてるせいじゃないの? 敵か味方かよくわからない奴らがきて高島に居座ってるから、さすがの雄日子もぴりぴりしてるんだよ」


 セイレンがもっともらしいことをいっても、藍十と日鷹はうなずかなかった。


「そうじゃないと思うけどなぁ」






「雄日子様」


 顔の表情が窺えるほど近づいてから、藍十が声をかけた。


 雄日子が顔を上げて目が合うと、藍十と日鷹はその場で一度足を止めて頭を下げる。セイレンも二人の後ろで同じ仕草をした。


 一旦地面に視線を落としてから顔を上げて、雄日子の表情を探すと、真顔があった。


 セイレンが雄日子という男を知ってからずっと、「この男はいつも笑っている」という印象があったけれど、たしかにここしばらくの間、雄日子の無表情を見ることが増えた。雄日子は前ほど笑わなくなっていた。


 雄日子は、やってきた三人の顔をゆっくり見回してから唇をひらいた。


「どうした」


「それは、セイレンが――」


 藍十と日鷹がセイレンの顔を覗き込んで、さっと後ろに下がっていく。去り間際に「頼むぞ」とセイレンに耳打ちしながら、すこし離れた。


 挨拶をするなり遠ざかっていく藍十と日鷹を見やって、雄日子は眉をひそめた。


「いったいなんだ」


 それは、セイレンも訊きたいことだ。いったいどうしてこんなことになったのか。


(でも、やれっていわれたしなあ)


 渋々と、日鷹と藍十がいったとおりに試してみることにした。たかが、自分が「雄日子様」と呼びはじめたことが、この男の不機嫌の原因ではないだろうとは思うのだが。


「ねえ……雄日子」


 声をかけるなり、雄日子の目が丸くなる。


 後ろに遠ざかった藍十と日鷹を気にしていた目がさっとセイレンを向くものの、笑わない。雄日子の目は奇妙なものを訝しがるようで、セイレンの顔をじっと凝視した。


 珍しいものを睨むように見られるのは、妙に気恥ずかしい。セイレンは目を逸らして、もじもじと言い訳をした。


「あの、急に、ごめんね……。藍十たちから、わたしがあなたのことを『雄日子様』って呼ぶのは似合わないっていわれて、ためしにもう一度『雄日子』って呼んでみようかと思って、それで、いま……うん、いま、呼んでるんだ。それで、ねえ、雄日子――」


 「雄日子様」と呼びはじめたばかりの頃は慣れないことをするのが気恥ずかしかったが、いざそう呼びはじめてみたら、前のように「雄日子」と呼ぶのも、やたらと照れくさいものがある。


 目と目を合わせるのが気まずいような、そばに近寄るのが恥ずかしいような妙な心地で、前のように名を呼んだだけなのに雄日子の反応が前と違うのも、よけいな緊張のもとだ。


 雄日子は真顔のまま、なにもいわない。ただ、じいっとセイレンの顔を見下ろしていた。


 さっきからそうなのだが、睨まれているような気がして、セイレンの緊張が増していた。緊張に、不安が重なった。


「あの……怒ってる? 気に入らない?」


「――いや」


 雄日子はこたえたけれど、言葉は短いし、表情もぴくりとも動かない。不満気な無表情のままで、じっと見下ろしている。


「でも、笑わないね」


 もはや、雄日子の微笑が懐かしい。本当に胸でそう思っているのかそうでないのかがわからないような小さな笑みを、この男はいつも浮かべていたはずなのだが。


「笑う?」


 思い出したように雄日子の唇の端が上がっていく。雄日子はすこし笑顔になった。でも、無理やりつくったようなひきつった笑いだ。


 これはまずい――と、セイレンは焦った。たぶん、自分はなにかを間違えて、この男の琴線に触れたのだ。


「不機嫌?」


 いま、もしかしたらこの男はとても忙しくて、話しかけてはいけない時に話しかけてしまったのかもしれない。そうだとしても、こんなふうにこの男に話しかけることになったのは自分のせいではないのだが。


 目の前の雄日子は強張った笑みを浮かべて、やはり短くこたえた。


「僕が不機嫌? どうして」


 雄日子が浮かべているのは笑顔――と呼ぶべきものかもしれないが、作り笑顔で、目は笑っていない。それに、異様にまで短い答え文句も、やたらと怖いものがある。


(やっぱり不機嫌だ。いま話しかけちゃいけなかったんだ)


 きっと、やってはいけないことをやったのだ。

 この男の機嫌を損ねてしまったのだ――!


(藍十、日鷹……!)


 咄嗟にセイレンは後ろを振り返って、すこし離れたところから様子を窺う藍十と日鷹に合図を送った。


 腕を胸の前で交差させて、「だめだ、だめ! 失敗! やめたほうがいいみたいだ!」と訴える。


 藍十と日鷹は二人して手を振っている。ときどき人差し指を立てて虚空を突いていて、合図は「そんなことない、大丈夫!」「そのまま続けろ!」という意味のようだが。


(そんなことをいわれても)


 日鷹と藍十が「雄日子様の不機嫌を直してくれ」というから渋々やってやったのに、雄日子の機嫌は直るどころか、ますますおかしくなった。


 セイレンは雄日子のことを近寄りがたいとはもう思っていないし、そばにいって話しかけるのにも躊躇しなかったが、今のような妙な反応をされると、なんともいいようのない恐怖がこみあげる。



 今のこの人、なに考えてるんだろ……怖い、怖い……。



「あの、雄日子……」


 呼びかけると、また雄日子の目がセイレンを向く。口元は笑っているけれど、目が笑っていないのだ。その目で無言で見下ろされるので、怖くて仕方がない。


「その、雄日子――ごめん……その」


 もう、なにを話しかけていいのかさっぱりわからない。


 名前を呼び続けるしかできないでいると、雄日子がうつむいて、指で額をおさえた。その仕草はまるで――。


「あの……うなだれてる?」


 雄日子は答えなかった。


「悪いが、急ぎの用を思い出した」


 そういってセイレンに背を向け、その場を離れてしまった。


 雄日子の後ろ姿が離れていくのを茫然と見送った後で、セイレンは藍十と日鷹のそばに駆け寄って、文句をいった。


「もう! 雄日子、あきれてたよ。見てたでしょ? ろくに相手してくれなかったもん。あんなのはじめてだよ」


 思い切り馬鹿にされたか、雄日子の不機嫌をさらに煽ることになったのか。どっちにしろ、これでは馬鹿にされ損だ。


 セイレンが文句をいうと、日鷹は小さくなった雄日子の後ろ姿を眺めて苦笑した。


「うーん、どっちかなぁ。なあ藍十、どっちだと思う?」


「たしかに、わかりにくかった。あきれてるようにも見えたけど、すっげえ照れてるようにも見えた。でも、雄日子様が照れるとか、想像つかないよなぁ」


 藍十も唇をすこし歪めて、苦笑した。



 




 一方その頃。早足でセイレンから遠ざかった雄日子の足は、御舘みたちの角を曲がって大屋根の影になった薄暗がりに差しかかっていた。


 宮の中央に建つ御舘の、しかも建物と林の木が入り組んだ影が多い場所だったせいか、人の気配がなくなる。人の目が減ったことを悟るなり、雄日子の足は道を外れて、御舘によりかかるように手をついていた。身体の力が抜けて体重がかかったせいで、壁を突いた右手はドン、と大きな音を響かせた。


 音につられて、やってきた男がいた。木々の隙間で木壁に片手を突く雄日子を見つけたのは赤大あかおおで、赤大は、そこにいるのが雄日子だと気づくと「あっ」と驚いてから、「失礼しました」とそばを離れようとした。


 一度は後ろに下がったものの、雄日子の手元を覗き込むように顔を傾けて、恐る恐ると声をかけてくる。


「お一人でいらっしゃいますか」


「そうだが」


「このような暗がりで壁を囲っておられましたので……娘でも口説いていらっしゃるのかと」


 赤大は苦笑いを浮かべて、雄日子のそばに立って姿勢を正した。


「こんなところでどうなさいました。なにかお考えでしたら、邪魔が入らないように人払いをいたしますが」


「いや、すこし気分が悪くなって――」


「ご気分が? 薬でもお持ちしましょうか」


「いや……気を落ち着かせれば」


「気を?」


「そうだ、気だ」


 壁についていた雄日子の手の平が離れていって、かわりに背中が寄りかかる。


 ゆっくり息を吐きながら、雄日子は空を見上げるような姿勢をとった。


「そうだ。つまり――ただ名を呼ばれただけであって、そこに『様』という言葉がついていようがいるまいが、指すものはどちらも僕自身であって意味はなんら変わりようがないのだ」


「あの、雄日子様?」


 雄日子のいい方が小声でかなりの早口だったせいか、赤大が聞き返す。でも、雄日子はつぶやき続けた。


「そもそも、『様』という言葉はみずからが下、相手が上という、語り手の立場を表明する飾りでしかなくほとんど意味をもたない言葉であるから、つまりは、僕の名の後に『サマ』という余計な音がついたかどうかの違いであって、また、今の場合は急に訪れた変化に慣れていないあやふやな時期だから、その余計な音のことが特に気になるだけであって、これが数日、十日もたてばしだいに耳も慣れていき、僕自身も反応しなくなるし、いちいち驚かなくなる、その程度の些細な変化だ。――落ち着こう」


 赤大がぎょっと顔を引きつらせた。


「雄日子様……? いまのはなにかの呪文でしょうか」


「そのようなものだ。落ち着いた。――そういえば、赤大。おまえはセイレンの稽古をみてくれているようだな。ありがとう」


 セイレンが侍女の格好をしはじめてからというもの、ほんの少しずつだがセイレンの暮らしは変わっていた。もとは藍十に務めさせていた武術の世話役を赤大に変えたり、礼儀作法を身につけるようにと、行儀の師をつけたり――。


 赤大がセイレンの指南役を買って出たのを知っていたので、「良い、許す」と伝えがてらに話を振ると、赤大は記憶のなかの新弟子の姿を思い返すようにして笑った。


「ええ、それはもう。飲み込みが早いので助かりますよ。あとひと月もすれば、あなたのおそばに控えさせるのに使えるようになりましょうか。ただ、あなたが用意なさったあの衣装が惜しいですな。あの娘ときたら、高価な絹地が砂にまみれようが、小石をひきずろうが気にせずに向かってくるので」


 セイレンのために仕立てさせた侍女の衣装はとても高価で、一着揃えるのに、藍十たち高位の武人の服と比べるなら十着分以上はゆうにかかる。王宮の庭を行き来するそこらの侍女ではなくて、王のそばに従って宴に出たり、王座の後ろに控えたりしても遜色のない最高位の侍女のためのもので、王を飾る宝をひとつ作るようなものだからだ。


 赤大の苦笑をきくと、「そうか……」と雄日子はため息をついた。


「あまりあの子を変えないでくれ。僕は、あの子がそつなく立ち回るところよりも、絹の裳を引きずって剣を振り回すところが見たい。――なんでもない」


 身なりが変わっただけでなくて、礼儀作法も身につけてしまったら今よりもっと変わってしまう。そうではなくて、前のままがいい。荒削りの、野を吹く風のような澄んだ気配のままがいい――そう寂しくなって赤大をたしなめようとした自分を、恥じた。


(あの子をここまで変えたのは、僕だった)


 木壁に背中をもたれたまま顎を上げると、夏の青空が見える。青空は澄んでいて、「それで、おまえはどうしたいのだ」と問いかけてくるように感じた。


「なあ、赤大。誰なら僕を叱るのだろうな。誰なら僕を咎めて、誰なら僕に、それでいいのかと問い詰めるのだろうな」


 ぽつりとつぶやいてから、くっと笑いが込み上げた。酷い愚問だと自分を嗤ったせいだ。


(それは、僕だ。僕自身だ。いまさら)


 背中を起こして、姿勢を正した。わずかにうつむいた赤大の顔を見やった。


「気弱になっていたようだ。聞かなかったことにしてくれ。僕はいま、おかしいな」


「――御意。そういえば、雄日子様。今日は高向の都から使者がお着きになる日――」


「ここへ来いと呼んだのは僕だ。会う支度をしよう」


 急に動いたせいか、腰から提げた剣が硬い金音を立てる。ふと、もう一度青空が目に入った。さっきと同じく青く澄んでいたけれど、雄日子は睨むようにして見上げた。


(僕はこうしたいのだ。これでいいのだ)


「いこう」


 そう声をかけて赤大を伴うと、木陰を出た。





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読んで下さった方に頂きました「常に冷静な彼が彼女の為に冷静さを失うところが見たい」というメッセージにヒントを得て生まれた、「一人壁ドン」と「妙な呪文」の話でした(笑

次回からは、本編の雰囲気に戻るかと思います。

連載再開までもう少々お待ちください。

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