序、霊獣の森 (1)

 空から血が降りてくる――。

 どろりとした血の塊が――。



 

 飛鳥の都を出て、深草宮へ向かった討伐軍は、夜中の森で不意打ちを食らうことになった。


「なんだ……」


 兵の数は二十。足が止まり、闇に包まれた森の中を見回している。


 夜の森は、夜に動く獣や鳥たちで騒がしい。


 昼間には鳴かない鳥の声が闇を裂き、どこかで食い合いをする獣のうなり声も、響いていた。


 夜の森は、いつもどおり。つい今しがたまでと同じに見えたが、兵の足はすくんだ。



 なにかがいる――。

 待ち伏せをしているなにかが、襲いかかる時を探っている――。



 兵を束ねる軍長いくさのきみも、怪しい気配に気づいた。


「止まれ、集まれ――」


 部下たちの動揺をしずめようと声を張る。



 どこにいる、こっちか、そこか――。



 二十人の目で、闇を探っていた時のこと。闇の色が移った大樹の陰で、ざっと音が鳴った。


 樫の木だった。


 立派な幹の奥に、真っ暗な森の闇が、果ても見えぬほど続いている。闇の低いほう、草が群れた地面のあたりに、ザッ、ザッと素早い動きをするものが草を踏む音がして、近づいてくる。


「なにかいるぞ、陣を組め」


 襲撃に備えよと声が響いた、すぐ後のこと。暗闇から飛び出してくる影があった。


 影は飛び出すなり跳ねて、宙に舞う。頭上高い場所から、兵の群れに襲いかかった。


 熊のように大きいが、動きが早い上に身が軽い。夜風を踏むように俊敏に跳ね、その影がとおった後には、月の粉か蛾の鱗粉に似たものがきらきらと舞って、夜風に散った。


 ふしぎな動きや、光の粉に目を奪われているうちに、悲鳴が響いた。


 影は、宙を舞って兵の頭の上へと跳ね下りる。獲物を蹴散らすことだけを愉快がるようで、人が倒れればまた跳ね、別の群れを狙って跳ね下りた。


 次々と部下が倒れていくのを茫然と視界におさめながら、軍長の男は震え声をもらした。


「こいつは、血の鹿だ――」


 影は、鹿の形をしていた。暗がりにいるので黒く見えているが、実際には赤い色をしているはずだ。頭の上には月を樹の形に削り取ったような、白く輝く鹿角かづのが生えている。


「逃げろ。あいつに触れると死ぬぞ、逃げろ!」


 しかし、その時にはもう立っている男は二十人ほどまでに減っている。


 たぷん……と水音に似た重い音が響いた。


 地面にはばたばたと男が折り重なって倒れていたが、鹿の形をした不気味な生き物は、動かなくなった兵の身体の上にふわりと降り立ち、軍長いくさのきみの男のほうを向く。


 鹿は、まっすぐに男の顔を見ていた。それで、軍長の男は気づいた。


 現れた呪いの獣――血の鹿は、無茶苦茶に人を襲っていたわけではないのだ。


 狙いは、威嚇か交渉。いずれにせよ、自分たちを脅すために現れたのだ――。


 しかし、腑に落ちないこともある。


 血の鹿というのは、し宮の術師がつくりあげる呪いの獣だ。血でできた身体をもち、大王おおきみみささぎを守るために放たれる、いわば、大王の陵守はかもり。それが、なぜこんな森の中にいるのか、そして、なぜ自分たちを襲うのか。


 ザッ、ザッ――と、草を踏む音がふたたびきこえる。


 次はなんだと目を見張っていると、血の鹿の後ろに、人影が二つ現れた。 


 身なりは大陸風で、飛鳥では珍しい深袖がついた衣装を身につけている。


 軍長の男の目が、見開かれていった。


「あなたは、霊し宮の……斯馬しば様、それに、柚袁ゆえん様」


 闇の奥から現れたのは、し宮という呪術師の宮で長を務める男と、その一番弟子の男だった。


 目が合うと、斯馬という男が一歩進み、声をかけてくる。


「立ち去ってくれ。そして、ここは通れないと大臣おとどに伝えてくれ。森には血の鹿が潜んでいるから、飛鳥の者が深草宮を訪れることはできない」


 斯馬の声は穏やかで、夜闇にすんととおる。


 斯馬はいくらか嘆くようないい方をした。


「呪いの加護のない飛鳥の軍の、なんとひ弱なことよ――。おのれら武人たちは、おのれらの力だけで戦っていたと思いあがっていたようだが、呪いの加護のない飛鳥の軍は、かわいそうなことにひ弱なのだ。私たちの守護なきおまえたちにこの道は通れないから、立ち去りなさい」


 軍長の男はかっとなり、一歩前に踏み出した。


「霊し宮の役目は、大王の御身と都の守護にある。にもかかわらず、その呪術師が、恐れ多くも大王のご意向にそむく気か。ここで我らを阻むということは、おまえは秦王を守り、ひいては逆賊、雄日子様を助けているということか。いったいいつ寝返ったのだ。恥を知れ」


 斯馬と柚袁は、こたえなかった。


 二人で目を合わせると、揃いの仕草で両手を胸の前に組む。


「早く去りなさい。そうしなければ、二度と出られない場所に閉じ込めてしまうよ」


 斯馬と柚袁はちょうど道を挟むようにして立っていたが、なにかの呪術のはじまりを思わせる仕草で指を組んで、小声でぼそぼそと喋りはじめる。


 二人がなにをいっているのか、軍長の男にはわからなかった。


 でも、咄嗟に不安が押し寄せる。


 これは、呪いだ――。こいつらは、我らをこの場に閉じ込めようとしているのだ――。


「退け、退け……」


 そうして、生き残った兵たちは、ふるえる足を引きずって都へ戻ることになった。






 高島の太子、雄日子の軍が樟葉くずはに攻め入った。

 難波の秦王はたおうにも、謀反の疑いあり。

 秦王の宮へ向かい、くわしく調べてまいれ――。



 そういいつかって旅立ったはずの軍勢は、深草に入ることすらかなわなかった。


 軍勢が戻ってくると、都を守る役目にある二つの豪族は、顔を合わせる場をもつことになる。


 集まったのは、大伴おおともの一族と、物部もののべの一族。


 ともに、はるかいにしえの時代から大王を守る武家の家系だ。


 面々が集まってくると、水無瀬行きから戻ったばかりの軍長いくさのきみは、深く平伏したうえで知らせた。


「申し上げます。道なかばで襲撃にあい、討伐はかないませんでした。また、我らを襲ったのは、大王と大臣の覚えもめでたかったあの男……し宮の長、斯馬しばでございました」


 霊し宮の斯馬。それは、大和一の腕をもつ呪術師の名だ。


 呪術だけでなく、天文や歴史、典薬てんやくなど、幅広い知識をもち、大王や大臣の相談役として、難波なにわと飛鳥を行き来していた。


「斯馬が……行方知れずになっているとはきいていたが、まさか、雄日子様の助けをしていたとは――今、なにが起きているのだ――。麁鹿火あらかび、いま一度知らせい。山背やましろでは、いったいなにが起きたのだ」


 名指しされたのは、物部一族が並ぶ列であぐらをかいていた若い武人、麁鹿火。


 麁鹿火は、数日前に雄日子側の様子を探るために、百人の兵を連れて山背へ向かった。そこで雄日子の護衛軍と相対して、一戦まじえた後で飛鳥へ戻ってきたことは、とっくに知れ渡っていた。


「はっ――。あれは、雄日子様の騎馬軍が飛鳥に現れた日のことです。俺は、運よく山背やましろにおりましたので、そこで、都から戻ってきた雄日子様の騎馬軍を待ち受けました。道の上に太縄の罠を張り、馬を転がして動きを止め、襲いかかりましたが、一騎が我らを阻もうと残り、あいまみえました」


「一騎が。たった一騎か?」


「はい。乗り手は二人でしたが」


「しかし――たった二人でおまえの軍を待ち受けたのか。おまえの軍には百人いたはずだろう。百人の軍は、その二人にやられたというのか」


「はい。二人のうち、一人は男の武人でした。馬から下りて、剣をふるいました」


「それで、もう一人は――」


「娘でした」


「娘?」


「たぶん、男のほうは、娘を逃がそうと先に馬を下りたのです。でも、その娘は戻ってきて、我らをすべて、倒しました」


 麁鹿火の声がふるえて、小さくなる。


 そこにいる男の口という口からため息が漏れ、途切れ途切れになる声まで聞きつけようと、いっそう静かになった。


「娘一人が、百人の兵を? いったいなにが起きたのだ」


「わかりません。娘は口に手を当てて、なにか笛のようなものを吹いていました。その後はもう、身体が動きませんでした。全員、倒れ伏したのです」


「なんと――山背のほうまで呪術の類か」


 麁鹿火に問いかけていたのは、大伴一族と物部一族の長をつとめる男たち。大伴の長は名を室屋むろやといい、物部の長は麻佐良まさらという。


 麻佐良にとって麁鹿火は嫡子だったし、室屋からみても麁鹿火は、これから共に都を守っていく大切な若者。二人とも、麁鹿火の敗北を咎めることはなかった。


「まあ、よく帰ってきてくれた。妙なことが起きたようだが、殺されなかっただけ助かったというべきか」


「娘が笛のようなものを――か。先日、樟葉くずはが攻められた時も、樟葉の兵はなすすべもなく平伏したとか。あの噂はそれだったのかもしれないな。ひとまず、麁鹿火、おまえが無事に帰ってきてくれてよかった。おかげで謎をすこし紐とくことができた」


「いえ――」


 麁鹿火をなぐさめた後で、麻佐良と室屋は向き合い、話しはじめた。


「しかし、斯馬までが雄日子様のもとにいるとは――一筋縄ではいかないようだな」


「たしかに。このたびの水無瀬行きは、難波から内陸へ入ろうとしたもの。難波側からの道が使えないとなると、使うべきは船だが、このぶんでは川岸にも陣を張っているだろう。そんなところに船でいけば、矢の的にしてくれというようなものだ」


 ふう――と、二人の長の口からは代わる代わるため息が漏れる。


「どうすればよいのだ。これでは、雄日子様に陣を整える時を与えるだけだ。守りの内側で大きくなっていくのを、指をくわえてみているしかないのか」


 肩を落とした室屋に、麻佐良は「いいや……そうでもない」とうつむいた。


「こちらの人死にが減っているだろう。これまでならば、飛鳥に戻ってくる兵は一人もいなかったのだ。つまり、雄日子様は一度に手を広げすぎたのだ。従えるものが大きくなり、守りが甘くなっておられるのだろう。守りが固まりきる前に、機を見て攻めよう。狙うは一か所。まずは風穴を開けて、そこから広げていく――そういう戦をせねばなるまいな。慎重な支度がいるぞ。腕のいい窺見うかみを用意せねば……。それにしても、斯馬がいないのは痛い」


「ああ、痛い」


 霊し宮の呪術師たちは、魂を鳥や獣に乗せて、はるか彼方のことを調べる技をもっている。つまりは、最高の力をもつ窺見うかみの役をこなすことができた。


 呪術者は斯馬だけではないし、霊し宮にはまだ大勢が残っている。しかし、霊し宮の呪術者が口を揃えていうのは、「我々が試したところで、呪術を使うかぎり、斯馬様は先に気づいて手を打たれます」ということ。


 つまり、位の低い呪術師に窺見役をつとめさせたところで、力の差の大きい相手が敵陣にいれば、かえってこちらの動きが読まれるかもしれないというのだ。


「弱ったな。あやつらの代わりはいないのか」


「いないものを無理に頼っても仕方ない。――腕のたつ窺見を探すことにしよう」






 軍議が終わるなり、麁鹿火あらかびはすぐさま館を後にした。その場にいることが、つらくてたまらなかった。


 庭に出た麁鹿火は、早足に端までいって青空を見上げた。


 背後に人の気配が追いついてくる。世話役をつとめる武人で、名を火輪ひのわといった。


「若――」


「悔しいし、悔しいし……悔しいんだ」


 火輪にこたえた時、麁鹿火は泣いていた。はらはらと頬に涙をこぼしながら、麁鹿火は空を見上げて、声をふるえさせた。


「雄日子様とやり合ってやるといきがっていたくせに、あっさり敗れちまったのも悔しいし、生きていてよかったと慰められたのも悔しいし――こんなもの、恥でしかない。それに……」


 雄日子の軍と相対した時のことを思い返すと、麁鹿火の目の中に、焼きついて離れないものがあった。


 街道に罠を張って待ち受け、雄日子の軍の動きを乱した時、麁鹿火は興奮していた。そら、読みが当たった。勝負がはじまった――と。


 逃げゆく雄日子の軍を追いかける時には、狩りを愉しむような高揚感があったし、あいにく逃げ足が早く、ほとんどの騎馬はどんどん先へいってしまったが、逃げ遅れた騎馬が一騎いて、そいつになら追いつけると踏んだ時には、獲物を狩ってやると身の内に血がたぎった。


 もう追いつく。もうすぐだ。追いついたら生け捕って、飛鳥への土産にしてやる――。


 追いかけた麁鹿火は百人の群れと一緒にいたし、対して、相手は一騎。負ける算段は、まったくなかった。


 しかし、捕らえようと見張っていたその武人は、たった一人で馬を下りて待ち受け、剣を抜いた。


 その時のその武人の姿が、いまも目の裏に残っていて離れない。その上、思い出すたびに、麁鹿火の目に涙を浮かべさせる。


「なあ、火輪。あの男は、どうしてたった一人で俺たちを待ち受けたんだ。たった一人だぞ? たった一人で俺たちを蹴散らすつもりだったのか」


「それは……逃げ遅れたのでは――」


「違う。あの男の目はとても鋭くて、剣みたいだった。武家の嫡子だの、豪族の子だのと、都でぬくぬくと育った生ぬるい俺みたいのとは違ったんだ。俺は、あの男が心底羨ましいと思っているんだ」


 震え声でいったのち、麁鹿火は頬にこぼれた涙を拭いた。



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