番外、樟葉夕景

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2話「名もなき王の進軍」で使わなかったシーンを再構成したもので、オマケになりますが、よかったらどうぞ。

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 水滴が岩に落ちる音が響いている。


 そこは、とても暗い場所だった。


 光の入らない岩の祠の奥、地下へと続く鋭い裂け目のそばに、大きな岩がある。


 その岩に寄りかかった娘がいて、セイレンは、その娘の真正面でぽつんと立っていた。


 娘はすすり泣いていたけれど、セイレンに気づいたのか、顔を上げた。


 目が合うと、驚いた。まるで水面にうつった自分の顔を覗いたようで、その娘の顔も背格好も、自分とまったく同じだったからだ。


 耳に、震え声が届いた。その声は、耳が覚えていた。双子の姉の石媛のものだった。


「いいなあ、セイレンは――。私も災いの子に生まれたかった。私も山を下りたかった」


 その瞬間、怒りがこみ上げる。


 ああ、自分は怒っている――と気づくより先に、口が文句をいっていた。


「ちょっと待てって――ふざけんな、ばかやろう」


 石媛はぼんやりしていた。目を逸らすと、セイレンの首元を見てため息をつく。


「その髪飾りだって――」


 石媛の視線の先には、セイレンの左耳がある。


 いったいなにが――と指を浮かせてみると、指に触れたのは、よく磨き上げられた石の連なり。


 珊瑚の髪飾りだった。胸まである髪をひとくくりにする結い紐に重ねて巻かれた、真っ赤な色をした石の御統みすまるだ。


(セレンとツツにあげたはずだったのに――)


 記憶の中では、たしかその髪飾りは、世話になった少年に渡してしまったのだが――。


「いいなあ、セイレンは――。雄日子様からのいただきものなら、私が欲しかった。私はあなたになりたかった……」


 石媛の目に涙が溜まっていく。


 一度まぶたが閉じると、涙がこぼれて小さな珠になり、白い頬をつうっと伝った。


 その涙の粒は、純真で、可愛らしくて、とてもきれいで――。美しい涙だ――と、うっかり思ってしまうと腹立たしくなり、声が大きくなった。


「冗談じゃないよ、なにが……。あんたのほうが、これまで散々いい思いをしてきたくせに。ふざけんな。黙れよ、大ばかやろう!」


 いまになっておまえがそんなことをいうなと腹立たしくなって、セイレンのほうも泣きたくなった。


「あんたなんか嫌いだ。消えろ、消えてよ!」


 幻を振り払うように、ぶんと腕を振り回す。


 そうしているうちに、ぐらりとよろけた。


 転んだ――? そう思って衝撃に身構えたけれど、転ぶどころか、身体ごと深いところへ落ちていく。


 いつのまにか足の下に深い穴があいていて、そこに落ちていった。






「セイレン、起きろ!」


 藍十の声が聞こえる。


 目をあけると、とても近いところに藍十の顔がある。藍十に抱きかかえられていたせいだ。


「え――あれ」


「あれ、じゃねえよ。落馬したんだよ。おれのとこに落ちてきたの。ていうか、自分で立て。歩け!」


 結局、藍十はセイレンを放り投げるようにして立たせてしまったが、さっぱりわけがわからない。


 


 わたし、なにしてたっけ。

 ここ、どこだっけ――。




 あたりを見回してみると、のんびりとした里の風景が広がっている。


 日が暮れはじめていて、太陽は西に。夕暮れ時の涼しい風が吹いていて、心地もいい。


 暗がりの洞窟から逃げ出したいと思ってはいたものの、あまりにも印象が違うところに飛んでしまった気がして、思わず呆けた。


「わたし、藍十を迎えにきて――それで――」


「なんだよ、まだ寝ぼけてんのか」


 あのなあ――と、藍十は話してきかせた。


 武術の稽古の時間になってもおれが戻らなかったから、おまえが、里まで様子を見にきたんだったろ?


 それで、いま一緒に樟葉の宮に帰ってるところだ。


 思い出したか――と、藍十は笑った。


「馬上で寝るのはいいんだけどさ、落馬するほど眠りこけるなよな」


「わたし、寝てた?」


「寝てたよ。ぐっすり」


「なら、さっきのは夢か――いやな夢を見た……」


「ふうん、獣かなにかに追いかけ回される夢とか?」


「違うけど――どうして」


「ちょっと暴れてたからさ。腕を振り回してたぞ」


「えっ――」


「目ぇつむってぐらぐらしてたから起こそうかと思ったけど、寝ぼけてるしさ。面白くて見てたら、落っこちたんだよね」


 そういって、藍十はにやにやと笑う。


「どうだ、恥ずかしいだろ?」


「――恥ずかしいね。気づいたんなら起こしてよね」


 唇を突き出すと、藍十はかえって笑った。


「ばあか。ここじゃな、間抜けな真似をしたら笑い者になるんだよ。ここが宮の中だったら、おれは日鷹も帆矛ほむも呼んでじーっと見てたって。それで、声を殺して笑うのが面白いんだ」


 なんだそれは――とむっとして、「へんなの」と怒っても、藍十は笑っていて、相手にしなかった。








 セイレンと藍十の稽古場になったのは、樟葉の宮の北の端にあった野原。


 夕暮れ時で翳りはじめていたが、二人とも近い場所にいたので、互いの姿はよく見える。


「相手の動きをよく見て――。おまえが殴りかかったところでさ、相手が動きを読んでいるかどうかは、よく見てれば殴りかかる前にわかるんだよ。読まれてると思ったら、わざわざ撃つな」


 藍十がセイレンに教えたのは、戦う相手の姿勢の見極め方だった。


 もしも先を読まれたなら、よけられるか防ごうとされるし、あえて待ち受けられることもある――と。


「よけるにしろ受けるにしろ、直前に力が入るのがわかるだろ? どんな姿勢の時でも、一本筋がとおるみたいに腹のあたりがぴんってなるからさ、相手をよく見ろ。受けようとした奴の手が逆手になってたりしたら、ひねり上げる準備をしてるってことだ。ほら――」


 藍十は説明を続けていたが、セイレンと同じように拳を突き出したり、手刀を払ったりという動きも続けている。


 でも、セイレンほどは息が切れなかったし、動きの切れも落ちなかった。


 こうきたらこう、ああきたらこうと説明しながら藍十はセイレンの拳や膝を流して、最後には殴りかかった手首を掴んでひねりあげるふりをする。


「いててて!」


「はい、今日はここまで。――ああ、いい汗かいた。おれも助かるよ。セイレンとおれは型が違うからさ。いい稽古になる」


 ぜえ、はあ……と、息が切れていた。


 痛めた手首をかばって地面に座り込んで、喚いた。


「くそ、くそくそ! なんだよ、慰めてるつもりかよ! 走るだけなら、わたしのほうが長く走っても息が切れないのに!」


「それは、たしかになあ。山の民ってすげえんだなって思うよ。でもさ、おまえが山の民なら、おれらは戦いの民だったってわけかな? いまみたいな稽古なら、幼い頃からしてきたんだ。赤大もいってたけど、おまえは基礎がなってないんだよ。毎日同じことを繰り返しな。慣れだよ、慣れ」


「みんなそういうよ。馬術も武術も早駆けも、慣れ、慣れ、慣れ! こんなにやってるのに、なんで慣れないんだよ!」


「まあまあ、すこしずつは上達してるって。いらいらしないでさ、水浴びして汗流して、めし食って、寝て、また明日がんばろう。な?」


 藍十は根気強くセイレンにかまったし、喚かれても笑顔で取り成した。


 藍十のほうこそ疲れているはずなのに、こうやって毎日相手をしてくれるのだから、それ以上は、文句もいいようがなかった。


「わかったよ、いこう――。稽古をつけてくれてありがとう」


 渋々と立ち上がって、水浴び場に向かうことにした。






 二人で宮の中を歩いていると、日鷹に出会った。


 日鷹の髪はずぶぬれだった。上衣は脱いでいて小脇に抱えられていたし、袴と帯は湿っている。水浴びの後の格好で、着崩したり服が濡れたりしているのは、濡れたままの身体に衣をまとったせいだ。


「二人とも、毎日がんばるねぇ。俺は先に水浴びさせてもらったよ」


 日鷹のことをセイレンはよく笑う男だと思っていたが、いまもにんまりと笑っている。


 今日はどうだった、とさしさわりのない話をしていると、日鷹の目がなにかを見つけたようにセイレンの耳元を向いた。


「あれ、セイレンって、髪に赤い石飾り着けてなかった? 最近着けてないな。似合ってたのに」


「赤い石飾り……」


 思わず、顔をしかめた。


 日鷹がいったものが珊瑚の髪飾りだということはすぐにわかったが、そう思うなり、双子の姉の顔が浮かんだのだ。夢で見た泣き顔も。


「あんなもの――」


 セイレンの声をさえぎって説明をはじめたのは、藍十。


「あぁ、あれなぁ――。セイレンがあれをなくしたのはおれのせいなんだよな」


 日鷹は「ふうん」とうなずいた。


「そっか、なくしたなら仕方ないな。でも、たしかあの髪飾りって雄日子様からもらったんだよな」


「そうだよ。よく知ってるね」


「そりゃあ、浮いた噂が好きだからさ。――あの髪飾り、セイレンの顔によく似合ってたもんなあ。女っぷりもちょっと上がってたし――。雄日子様って、女の見立てまでできるんだなあと、さすがというかなんというか……」


 そういって、日鷹は意味ありげな目つきでセイレンを見やってくる。


「雄日子様のことだから、いまごろ新しいのを探しておられるかもな。お気に入りの子栗鼠こりすには自分の印をつけておきたいだろうし」


子栗鼠こりす?」


「子狐でもいいよ。子狼? 小熊……子兎って感じでは、ないなあ」


「あのなあ」


 いまいち話はわからなかったが、小栗鼠こりすやら子狐やらが自分のことを指しているということはなんとなく理解した。


「なんの話? ごめん、知らなかったんだけどさ、髪飾りをもらうって、あいつのものって印をつけることになるの? だったら、もう絶対に受け取らないし!」


「いや、そんなことない! 違うって――」


「だいいち、欲しいっていったわけでもないのに、失くしたらものすごく怖いし……」


 ふいにぞっと背が寒くなって、雄日子から睨まれた時のことを思い出す。


 床に倒されて、両手を掴まれて、動けなくなったところを真上から覗きこまれて、怖い目をして笑われた。


 


『――愉しい。胸が痛んだぞ』




 その前にもなにかいっていた気がするけれど、覚えているのはその言葉だけだ。


 思い出すなり身が凍った。怖い――と脅えたことも思い出す。


「違うって、セイレン。べつに髪飾りをもらうことが印をつけるってことじゃないから……。藍十もなにかいって! これでセイレンが雄日子様からものをもらわなくなったら、俺がどんな目にあうか……!」


 日鷹は焦って喋り続けていたが、耳に入ってもこない。


 血の気が引いたようになって、セイレンからは勢いが抜けていた。


 真上から覗きこまれた時のことと一緒に、雄日子がその手で、髪飾りを自分の耳元に結びつけた時のことも思い出す。


『――似合うな。おまえは濃い赤が似合うよ。娘らしくなった』


 夢の中できいた石媛からの責め文句も、思い出した。


『雄日子様からのいただきものなら、私が欲しかった』


(欲しけりゃやるよ。わたしはべつにいらないし)


 とても苦いものを噛んでしまった気分で、顔が歪んだ。


 そんなものよりも、武術や馬術の稽古をする時間のほうがセイレンはずっと欲しかったし、娘らしくなったと褒められるよりも、強くなったといわれるほうが嬉しかった。


 宝玉というものや、珊瑚の髪飾りというものがとても上等で、高価なものだということは薄々わかってきた。でも、似合うといわれようが、よかったなと祝われようが、「そうだね」とはまったく思わない。


(重いし、娘らしくなったとかいわれるし――娘っぽいってなんだよ。そんなの、全然嬉しくないし)


 石飾りがなくなったぶん首元は軽くなり、都合がよかった。


 ただ……すこし寂しい気もする。髪にその石飾りが結わっていた時は、その石から、ふわんと優しい香りが漂っていたからだ。


 その香りはふんわりしていて、穏やかで、故郷の里では一度も嗅いだことがなかった類いで、たとえるならば、日だまりの中に紛れ込んだような、ふしぎな香りだった。


(あの匂いは、嫌いじゃなかったな)


 胸でぽつんと思ったのを打ち消すように首を振って、歩き出した。


「水浴びにいこう、藍十。日が暮れるよ」


 藍十を誘って進もうとすると、後ろにいた日鷹が藍十に向かって両手を合わせて、拝むような仕草をする。


「藍十、セイレンに……!」


「わかったよ、日鷹。はいはい」


 藍十は日鷹に笑って、セイレンと並んで歩き出した。


「じゃあ、いこうか。水浴びして汗流して、めし食って、すこし休もう。な?」


 ここにいる誰かは今夜も寝ずの番をするだろうし、今夜であれ明日であれ、お役目は次から次へと降ってくる。


 でも、水浴び場へ向かったり、みんなでめしを食ったり、こうやってろくでもない話をするひと時は、忙しない日々を十分癒してくれるなあ――と、茜の空の下を藍十と歩きながら、セイレンは思った。


 こういうふうにも思う。


 珍しい石飾りよりも、やっぱり、こういう時間のほうがいいなぁ――と。

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