番外、樟葉の夜 (2)
もうもうと湯気がこもった湯殿でお湯を浴びると、どうにか頭が静かになった。
苛立っていた厄介事のもろもろにも、仕方がない、自分以外にできる者はいないと、諦める想いも戻ってくる。
新しい衣に腕を通して湯殿の外に出ると、
「どうされます?
いま、自分の寝床には新しく妻になることになった樟葉王の娘が横になっている。
思い出してため息をつきつつ、雄日子はうなずいた。
「そうしたほうがよいのだろうな」
「では、寝ずの番はどうされます。私がやっても構いませんが」
「おまえが? 一晩中起きている気か?」
「私にできることはそれくらいでしょう?」
角鹿は細い目をさらに細めて苦笑しているが――。雄日子は冷笑した。
「ほかのことは僕が自分でやれと、そういっている気か? ――嫌だな。こんな夜におまえにそばにいられたら、無事に眠れたところで悪夢を見る。――セイレンは?」
「今日は非番と伝えたので、武人の棟で休んでいるかと。起こして連れてきましょうか?」
「あの娘をあんなところに連れてくる気か? おまえの頭はどうなってるんだ」
「どうもこうも、あの娘はあなたの守り人なのですから、役目を果たせばよいとしか――」
「――もういい。セイレンが寝ているなら、僕がいって、そこで寝る。藍十もいるだろう? ここがいまだ僕の力が及びきらない敵の宮だろうが、セイレンと藍十が寝ていようが、守り人が何人もいれば僕の身は安全だろう?」
「では、樟葉の姫は――」
「婚儀は終わらせた。放っておいてもよかろうが」
先に歩きはじめた雄日子の後を、角鹿は「では、そこまで供を――」といってついてくる。
ふたたび連れだって歩きながら、角鹿は雄日子の背後でくすっと笑った。
「セイレン、ですか――。ご執心ですね。それだけあの娘を気に入っているなら、妻にするなり
なにを馬鹿なことを――と、雄日子は冷笑した。
「なんの忠告だ? あの娘は妻ではなくて、僕の守り人だ。僕があの子によくかまうのは、あの子が僕の気に入りの遊び道具だからだ。妻や側女とは違うよ」
角鹿は折れなかった。
「妻も側女も遊び道具ではありませんか。放っておこうが、かまおうが、牢屋に籠めようが、処刑しようが、あなたの好きにすればよろしいものです」
「妻が、遊び道具?」
それは違うと、雄日子の胸が冷えていった。
妻や婚姻や、自分に求められる面倒の数々は遊び気分で受け入れるものではない――それは、これまでに何度も考えて、諦めたことだったからだ。
すこし黙ってから、こたえた。
「妻は遊び道具などではないよ。妻というのは、僕の周りで起きる決まりごとの一つで、僕の好きに選ぶことができないものだ。戦や
角鹿は納得がいかないふうに笑った。
「――なぜそんなにこだわるのか。私には、同じだと思いますが」
守り人たちが寝床にしている館は、湯殿からそう離れていない場所にあった。
角鹿と別れてそっと館の中に入ると、暗闇に包まれた床の上に、セイレンを囲んで日鷹と藍十が寝転んでいるのが目に入る。
暖をとっているのか、手と腕、背中や胸がすぐに触れ合うような近い場所で眠りについていて、寝がえりでもうてば互いの身体が重なってしまいそうに見える。
セイレンの細い身体が男二人に囲まれていると思うと、むしょうに腹が立った。自分の遊び道具を使って勝手に遊ぶな、とも思う。
右端で眠る藍十の背後に近づくと、しゃがみ込んで肩を揺さぶる。
藍十はすぐに目を覚まして、そばに膝をついた雄日子を見上げた。はじめ寝ぼけていた目は、すぐに見開かれていく。
「おっ……」
名を呼ばれかけたので、人差し指を口元に当てて黙らせた。
「わけあって、ここの寝床を借りたい。場所を代わってくれ」
藍十は口をぱくぱくさせて、すぐに隣にずれた。
「ど、どうぞ――」
藍十がそれまで寝転んでいた場所に割って入って、セイレンの横に寝転んでみるものの、寝入るには少々肌寒かった。
「あまりの掛け布はないのか」
布団をねだると、藍十は我に返ったようにはっとして自分の身体から布をひきはがす。
「ここにあるだけです。雄日子様、おれのを使ってくださ――」
「いい。セイレンのを借りるよ」
セイレンの身体に掛かっていた布をたぐって浮き上がらせると、その中に身を滑りこませる。
すると、背後から藍十の声にならない悲鳴をきいた気がした。
言葉はなかったが、心の声や叫びのようなものはひしひしと伝わってくる。だいたいこういうことだろう。
雄日子様、それはあまりにも……!
げえっ、やばいもん見ちゃった――!
藍十は止めようかどうしようかと迷っているふうで、青ざめている気配も感じた。
たしかに、眠りこけた娘の寝床に滑り込むなど、夜這いと呼ばれても仕方ないことだが、申し訳ないとはまったく思わなかったし、むしろ妙な優越感があった。
だから、無言で背中を向けて、藍十の悲鳴にこたえてやった。
僕はこの娘になにをしてもいいんだよ。
この娘は僕の守り人で、僕の物だから。これは、僕の自由だからだ。
諦めた藍十がそろそろと寝転び直して、しばらく経った後。雄日子も眠りについた。
朝、雄日子の目を覚ましたのは、セイレンの叫び声だった。
「な、なななな」
声をきいて、ああ、驚いているなあと思うと、目を開ける前から笑いが込み上げる。目を開けて、驚嘆顔をするセイレンが目に入ると、いたずらがうまくいったような妙な心地もして、声を出して笑ってしまった。
「いや、夜中にな、後役の守り人が見つからなかったから、ここで寝ることにしたんだ。眠っていてもおまえたちがいれば安心だろう?」
話したのは、半分は事実で、半分は嘘だ。
セイレンは納得したが、怒った。
「でも、なにも真ん中に割り込んでくることないじゃないか。あなたがいたところには藍十が眠ってたんだよ? 藍十を押しのけて間に割って入ってきたの? 後から来たんだから端っこで寝なよ」
セイレンが腹を立てたのは、横入りをしたこと。掛け布の中に雄日子が潜り込んでいたことには触れなかった。
思わず、吹き出した。
怒るところが、ちょっとずれている。
隣にいる藍十がぱっと横を向いて、顔を隠しつつ忍び笑いを漏らした。セイレンの向こうで起き上がった日鷹も口もとに手を当てている。目はにまにまと笑っていた。
「そうはいっても、僕が借りてもいいのはおまえの寝床のはずだろう? おまえには前に僕の寝床を貸してやったからな。これで貸し借りなしだ」
セイレンの怒りを宥めるのは、雄日子には造作もないことだ。
セイレンが納得するしかない状況を用意すればいいだけの話だ。
「――はあ?」
セイレンはむっと眉をひそめたものの、それ以上いわなくなった。
それどころか、渋々と自分の掛け布をたぐりよせて差し出してくる。
「ほら――使っていいよ」
もう駄目だ。笑いが込み上げて止まらなくて、声を押し殺すようにして笑い続けた。
セイレンはつむじを曲げた。
「なんだよ。なんで笑うんだよ」
「面白いなあと思って」
「面白い? なにがだよ。とりあえず、この前に寝床を借りた分は、これでなかったことにするからね? 悪かったとかしくじったとかは、もう二度と思わないことにするからね?」
「ああ、いいよ」
寝床の貸し借りの話をしたのはセイレンを納得させるためで、もともとどうでもよかった。それを信じて、頬をふくらませつつセイレンが渋々うなずいているのはなんとも滑稽で、こんなに面白いならまたやってやろうとも思う。
幸い、セイレン相手になら、その程度の貸しはいつでもつくれそうだ。
次にセイレンに寝ずの番が当たった晩に、眠くなる話でもしてやれば済むのだから。
◆ ◇ ◆ ◇
雄日子とセイレンを残して、藍十と日鷹は先に館を出ていた。
上機嫌の主の邪魔をすまいと思ったのもあったし、恐ろしいものに近づかないでおこうと逃げたせいもあった。
館からすこし離れると、藍十はぼそぼそと日鷹に話しかけた。
「日鷹、これ、あれだよな……。雄日子様って、セイレンのことをめちゃくちゃ気に入ってるよな――」
日鷹はにまにまと笑っている。
「みたいだな。セイレンのことを女として見てるかどうかは知らないけど。それにしても、なんでよりによって今朝にセイレンのそばにいらっしゃるんだろうな。だって昨日は……おもしれえ。――で、おまえはなんで端っこで寝てたの? 雄日子様にどかされたの?」
「そりゃおまえ――夜中にさ、笑顔で睨まれてみろよ。――ああ、思い出すだけで身の毛がよだつ……。――なあ、日鷹。これさ、万が一にでも間違いが起きて、セイレンに手を出してたらまずいやつだよな――」
「まずいんじゃないかなあ。そういえばおまえ、しばらくセイレンと二人旅してたよな。手ぇ出してない? 出してたらあぶなかったかもな? 死んでたかもな」
「死ん……」
藍十は青ざめて、細い息を吐いた。
後ろに遠ざかった館からは、まだ時おりセイレンの声がきこえてくる。「もういい、あっちいけ!」と雄日子を追い払おうとしているようだったり、「ええー?」と不満そうにしていたり。
雄日子の声は外まで漏れ聞こえてこなかったけれど、藍十と日鷹の耳には雄日子の笑い声が聴こえた気がした。
それで、二人で目を合わせると、吹き出した。
「まあいっか。雄日子様がご機嫌だ」
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