終章、媛の片恋 (1)

 突き上げ式の木窓から、かすかに風が入っている。石媛の館は大宮の端にあって、すぐ後ろにたちばなの大樹があるので、風にはふんわりとした爽やかな香りがついている。


 ふと、部屋の隅で小さく動くものがあった。自分の供として同じ館で暮らすフナツが、わずかに顔を上げていた。


「いま――」


 大地の神という若者に嫁いでからというもの、石媛は毎日館に籠っていた。


 好きでもない相手のそばにいかなくてはいけない自分の身が哀しかったし、罪深さに恥じる気持ちもあったし、一歩でも外に出てしまえば祖母か母に会って、神の土穴へ――青年のもとへいけといわれてしまうのが怖かったせいもあった。


 そもそも、その青年に嫁ぐことになった原因は自分にある。夫に渡すために育てあげた大切な宝珠を、けっして渡してはいけない人に渡してしまったからだ。


 自分は罪深き娘だ、罪人とがびとだ――でも、哀しくてたまらない。


 朝起きて、昼の間ぼんやりとして、夜に眠って――。小さな館の中だけで過ごす日々を十日以上も続けていたが、その間、フナツは文句をいうこともなく一緒にいた。話しかけても、お喋りが続くようなまともな返事はなかったし、フナツから話しかけられることもほとんどなかった。


 だからいま、フナツが自分からなにかを探すような身動きをしたのは、とても珍しいことだ。


「どうしたの?」


 尋ね文句にこたえるフナツの言葉も、いつもより丁寧だ。


「いま、子どもの声が聴こえました。助けて……って セレン……セイレン? セイレン様?」


「セイレン? セイレンがなにか?」


「いいえ。聴こえた音はセイレン様の名に似ていましたが、違う相手でしょう。セイレン様の気配は感じませんでしたから――」


「そう――」


 石媛は微笑した。


「あなたは、セイレンのことが本当に好きなのね。しばらく一緒に暮らしてみて思ったけれど、あなたが気にするのはセイレンのことだけだもの。私のそばにつくようになってから衣も食べるものもよくなったはずなのに、嬉しそうにも驚いたふうにもしないし、退屈でしょうに文句もいわないし――」


 フナツは機嫌を損ねたふうに黙って、ぽつりといった。


「――セイレン様は私の『娘』ですから。私の、たった一人の家族です」


 責められた気がして面食らったが、苦笑した。


「そうだったわね。――セイレンがうらやましいわ。そんなに想ってくれる家族がいて」


 自分はどうだろう――と、母と祖母のことを考えると心底そう思う。


 母と祖母は自分をかわいがってくれたが、娘や孫という以上に「次の土雲媛」として扱われているように思う。


 里に出て幼馴染の家の様子を見るたびに、「うちとはちょっと違うな」と奇妙に感じたことは、これまでに何度もあった。


 フナツはもう唇を閉じて置き物のようにうつむいていたが、しばらくするとまたぴくりと頬を動かして木窓の外を向いた。


「どうしたの? また声が聴こえた?」


 館の外に出るのはいやだけれど、ずっと館の中にいるのは退屈だ。フナツをお喋りの相手にしようと、石媛はまた話しかけた。


 フナツは眉をひそめて、目を閉じた。外の気配に耳を澄ますような仕草だった。


「来ます」


「だれが――」


「大地の神様――あなたのだんな様です」


「えっ――」


 青ざめた。


 ここは石媛の館で、神の土穴ではない。


 土雲媛が大地の神と対話をするのは、大宮の裏にある神の土穴だと決まっている。ここはその祠ではないのだから、フナツの気のせいだと思いたかったが、しばらくすると、石媛も奇妙なものが自分のもとへ近づいてくる気配を感じた。


 たとえるなら大きな暗い塊のようなものが、ぐんぐんと自分のもとに近づいてくるような。


(あの人だ)


 そうとしか、感じなかった。


 いやだ、会いたくない。あの人に近づくのは怖い――。


 近づいてくる気配に怯えつつ縮こまっているうちに、館の戸が開く。


 そこに現れたのは、背の高い青年。数多くの色を使う土雲風の衣装に身を包んでいて、背中まである黒髪を小さな房に結っている。頬と目尻には刺青さしずみで描かれたような文様があるが、その色は濃い朱と深い青色。薄暗い祠の中でしか会ったことがなかったので、色までがしっかりと見えたのはいまがはじめてだった。


 陽のあたる明るい場所にいるのに、青年の印象は黒かった。暗くて重くて、まるで、異様な影に見える。人の姿をしていようが、そこにいるのは人ではないと、見る者を怯えさせる気配をその青年はまとっていた。


「暗がりで会うのとはまたことなる、美しい姿だ。わがいとしき妻よ。そなたは美しい」


 青年ははじめ不機嫌だったが、石媛と目が合うと笑う。


 狭い館の中を大股で近づいてきて、肩を抱いてそばにあぐらをかき、唇をくっつけてくる。


 青年の唇が頬につきそうになると背筋が凍ったように震えて、石媛は知らずのうちに身をよじってよけていた。


「おやめください」


「つれない妻だな」


 青年は鼻で笑った。


 青年は衣の胸の合わせに手を差し入れて、石飾りを取り出した。青年の手の上に乗ったのは、真っ赤な色をした石の御統みすまる。石は南天の実のような鮮やかな色をしているが、木の実ほど素朴な印象はない。南天の実というより、血潮に似た気配があった。


 その石飾りは、石媛にとってはじめて目にするものだ。それなのに、どこか懐かしい。


稚媛わかひめ、これに触れてみろ」


 青年がその石飾りを懐から出した時から、目はずっとその石を追いかけていた。いわれるままに両手を差し出して、手のひらに下りてくるのを待った。


 肌に触れるとひんやりと冷たくて、丹念に磨かれた石の表面はとても滑らかだ。


 少々重みのあるその飾りをじっと見下ろしているうちに、石媛は幻を視た。


 朝の森で出会った背の高い青年で、その人は雄日子と名乗った。――その人が、自分を向いて笑った顔も、ふっと脳裏に蘇った。


(あの方だ。この石から、あの方の匂いがする――)


 目は赤い石を覗き込んでいたけれど、視ているものは森の中の景色だ。


 いま、自分の周りには爽やかな風が吹いていて、目の前には微笑んだ雄日子がいる。


 茫然としているうちに、もうひとつ新しい驚きも感じた。


 石に触れた手のひらを通して、なにかが身体の中に流れ込んでくる気がした。まるで、自分が内側からまるごと変わっていくような――。


 これは、なんだろう。なにが起きているんだろう――。


 会いたかった人に会えた喜びと、自分の身に起きた新しいふしぎに驚いていると、突然身体が浮いて、痛みを感じた。


 館の真ん中に座っていたはずなのに、気づいたら壁にぶつかっていて、目の前には憤怒の顔をした青年が立っている。青年は手を震わせていて、その手で掴みかかろうと、石媛のところへやってくる。


 胸倉を掴まれて、悟った。壁際にいたのは、青年の手で壁に叩きつけられたからだ。頬がひりひりと痛くて熱くなっている。


「そんなものを大事にもって、なにをぼんやりしている。気に食わん――」


「でも――これはあなた様がくださったものでは……」


「我が妻を試したのだ。投げ捨ててほしかったのだが。――この石には天の香りがついている。そなたが土雲媛となるなら、けっして相いれてはならない天の一族の香りだ。このようなものに気を取られるなど、そなたにはまだ土雲媛となる力が育っておらんな。嘆かわしい」


 青年は石媛の手の上から石飾りを掴み取ると、投げ捨てた。がしゃん、と大きな音がして、反対側の壁に当たった石飾りが落ちていく。


(雄日子様の石飾りが――)


 思い出の中にいる青年の香りがするものが乱暴に扱われるのは、哀しかった。でも、哀しみに耽ることはできない。石媛の胸倉を掴んでいた手が両肩に移っていて、そのまま床に倒れ込む。上から青年の身体がのしかかってきて、暗闇に閉じ込められたと怖くなった。


「おやめください、怖い――!」


 力づくで抗っていると、頬に痛みが走る。青年に平手打ちをされていた。


 叩かれた頬は痛かったし、自分を見下ろす青年の顔は愚かなものを罵るようで、そんな目で見られていることが悔しかったが、青年の顔が遠くに見えるほど身体が離れていたことに、まずは安堵する。


 ちっと、青年は舌打ちをした。


「――嘆かわしい。我を拒むなど、そなたは出来損ないの土雲媛だ。――このような場所にいるからだ。これからは我が祠で暮らせ。光など浴びぬ暮らしをして、土雲のなんたるかを思い出せ。稽古に励め!」


 間抜けなみすぼらしいものを軽蔑するような目で石媛を睨みつつ起き上がって、青年は館を出ていこうとした。


 戸口のきわにフナツが正座をして、両手で赤い石飾りを掲げている。床に落ちたのを拾って、差し出していた。


 フナツの手から石飾りを奪うようにして掴み取ると、青年は館を後にした。


「――土雲媛はどこだ! 我が妻を縛めて土穴につなげ。外に出すな!」


 怒気を含んだ青年の声が遠ざかっていくのを、石媛は静かにきいていた。


 壁際で床にぺたりと座って、急に静かになった館の気配にぼんやりしていた。


 殴られた頬も、壁に叩きつけられた肩もひりひりと痛い。無我夢中で抗ったせいで、身体中に汗もかいていた。


 でも、口元に込み上げるのは笑みだ。唇の端をあげて、石媛はくすくすと笑った。


「わたし、これでもういつ死んでもいい。もう一度あの方のお近くにいくことができたのだもの……いいえ、あの方の気配に触れることができたのだもの」


 思い出すのは、殴られたことやのしかかられて怖かったことよりも、石飾りに触れた時の幸せな想いだけ。石に触れた時のひんやりとした感じも、肌を通して身体の中に入ってきた奇妙な血潮のようなものも、身も心もありありと覚えている。


「フナツ、わたしね、怖い気持ちがすっかりなくなったの。大地の神様からまたなにかをされても、まったく怖くないわ。ふしぎね。あの飾りはもっていかれてしまったけれど……うん、やっぱりそう。中にあったあの方の気配は、まだここにある……」


 石飾りの手触りを覚えている自分の手のひらがとてもいとおしくて、そっと胸に抱いた。





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