雲の対岸 (5)
思わずチトネは、自分の手を引いて先をいくツツの向こう側を凝視した。
周りと同じで、真っ暗だった。自分とツツ以外には人の気配がいっさいない。暗闇に紛れて誰かがそこにいるといわれたらそうだろうかとも思うが、チトネの目には見えなかった。
「ツツ、本当か――」
尋ねたけれど、もうツツはしゃくりあげるだけで答えない。本当になにかに手を引っ張られているのか、ツツはとり憑かれたように足を動かして、暗闇の中を走っていた。
いったい、どこをどう走ってきたのか。
暗かったのでいま自分がどこにいるかはわからなかったが、はっと気づいた時、チトネは明るい場所にいた。ついさっき、セイレンという名の土雲の娘と青年を見送った場所に近づいていた。
村から続く洞窟の端で、天井の岩盤にぽつぽつと小さな裂け目があり、光が射し込んでいる。
相変わらず、ツツは自分の手を引いて駆けている。ツツはセレンに手をひかれていると話したが、ツツの前には洞窟の端へ向かう景色が見えているだけで誰もいない。でも、ツツの片腕はなにかに引っ張られるように宙に浮いていた。
前方に見える景色に、はっと我に返った。その先には地上につながる穴があって、ひときわ明るい光が射している。その手前に石が並んでいて、その先が禁足地だと示していた。
「だめだ、ツツ。止まれ。その先にいったら目が見えなくなる」
「父ちゃん、大丈夫。出よう。セレンがいけって――」
「セレンが? しかし――」
ツツはためらわなかった。小さな歩幅で禁足地のしるしを跳び越えて、いっそう明るい光のもとへ。
チトネも覚悟を決めた。ここにいればいまに里に連れ戻されて、あの不気味な青年に殺される。自分だけならまだしも、きっとツツも同じように捕まって殺されてしまうだろう。たとえ言い伝えどおりに目が見えなくなったとしても、いまここでツツを守るためには先へ進むしかなかった。
「この穴を登るんだって」
洞窟の果てには、地上に続く縦穴があった。はじめて訪れたはずのその穴の壁を、ツツは足場を探しながら器用に登っていく。
どうにか真上にたどりつき、息を整えた時。ツツが慌てはじめた。
「セレン、どこ」
ツツは顔を真っ青にして、周りをきょろきょろとしている。目を開けたり閉じたり、手をさまよわせたりしてしばらくセレンを探していたが、登ってきた穴の底に顔を向けると探すのをやめた。
「セレンだ――」
「どこだ。穴の底にいるのか?」
ツツは、生まれつき目が見えない土蜘蛛の守り手だ。目が見えないかわりに、目が見える人には感じることができないものを見たり、聴いたりする。さっきからのツツは、自分の目には見えないものを見ているとチトネは疑っていなかった。
ツツは穴の底の一点をじっと見つめて、ぽろぽろと涙をこぼした。
「セレンが、戻るな、いけって――」
「どういうことなんだ?」
「わからないけど……もう戻るなって、手を振ってる。お別れだって――。……セレンと一緒にいきたいよぅ。セレンに会いたいよぅ。セレンを返して。助けて、誰か、助けて……」
ツツは糸が切れた細工のように地面にぺたりと膝をついて、すすり泣いた。
チトネも、ツツの目が向いた先をじっと見つめた。
でも、チトネの目には、ツツのようにセレンを感じない。そこにあるのは不思議な印象などない穴で、底のほうの岩場には上から射し込んだ光が揺らめいて、ときおり影がちらつく。誰かがいるような気配も感じられなかった。
放心したようにうずくまっていると、人の声をききつける。声は穴の下のほうから聞こえていて、五人ほどいるようだ。
「まさか――ここを登ったのか? どうする、地上に出たら目がつぶれるぞ」
追手だ。里者が、自分たちを探しにきたのだ。
ツツの腕を持ち上げて、小声でせかした。
「ひとまずいこう。ツツ」
ツツはうなずいて、二人で立ち上がると、物音を立てないように気をつけて穴から離れた。
すこし先に、こんもりと茂る緑の森が見えている。木の形は里に生えているものと似ていたが、地下のものよりずっと太くて背が高いし、数も多い。草も、驚くほど種類が多い。葉の緑色は濃くていきいきとしていて、里でよく見る緑色の淡い光とは似ても似つかぬ色をしている。
目は、まだ見えていた。地上に出たら目が見えなくなるというのが嘘だったのか、それとも、いまに見えなくなるのか。
しばらく歩いた時、ツツが足を止めて真上を見た。
「ねえ、父ちゃん。上のほうにセレンがいる――」
「セレンが?」
「とっても遠い場所だけど、セレンがいる……」
チトネも足を止めて頭上を仰いだ。そこには、なんともいえぬ爽やかな色をしたものが一面に広がっている。果てしなく広くて、深くて、遠くまで澄んでいた。
「これが、空か――」
地上には空というものがあると話に聞いていたが、それは、想像をはるかに超える大きなものだった。
「空? ねえ、父ちゃん。空に白い煙が浮いてる? それが雲だって、セイレンが――」
「セイレン……」
思わず、舌打ちをした。あの娘とさえ出会わなければ、セレンは殺されなかった。
やはり災いの子になど関わらなければよかったのだ。セレンから聞いた後にすぐ追いかけて、捕まえて捧げておけば、セレンは失わなかった。
そこまで思って、チトネはため息をついた。
いいや、そうではない――。大地の神という青年は、疑わしいものはすべて滅ぼしたはずだ。ろくに話を聞かず、自分が間違っていようが気にせず、やってもいない無実の罪で人が傷つこうが命を奪われようが、無頓着だ。誰かの悲しみや苦しみに関心がなく、土雲や土蜘蛛が永く栄えていくことしか頭にないように見えた。
薄青の空には、白い塊が浮かんでいた。煙に似ていたが、ふわふわとした優しい印象がある。
「雲か――。ああ、浮いてるよ。とんでもなくでかい煙の塊がたくさん浮いている。――腹が立つが、きれいなもんだ」
「そっか――」
ツツは一度笑ってから、息を詰まらせて泣いた。
「雲か、雲……。セレンに見せたかったよぅ」
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