雲の対岸 (4)

 大地の神が、土蜘蛛の里を訪れるのは珍しいことではなかった。


 半年に一度は神の祠を訪れるので、時が流れたと決める節目になるのは大地の神の来訪だった。


 神を迎える時、近づいてくる地響きの音に合わせて銀笹を奏でるのは古くからの習わしで、揺れと音がしだいに重なっていき、ぴったり合わさった時に大地の神が神の祠に降り立つ、と伝わっている。


 でも、いま。地響きは早くなったり遅くなったりしてなかなか定まらず、銀笹の拍子と合わない。音色がばらばらなまま、天井のほうから木が焦げたような匂いと、黒い煙が下りてくる。暗闇に紛れた黒煙は舞うようにして降りそそぎ、山魚様を繋いだ杭のあたりにかたまり、人の形をつくっていく。


 黒煙から生まれたのは、若い青年の姿をした神だった。土蜘蛛風の衣装を身につけていて、背中まで下りた黒髪には小さな飾りが八つほどついている。頬や目尻に刺青で描かれたような文様があったが、その柄は土蜘蛛の長〈神の口〉を務める男が顔に施すものと、ほとんど同じ。


 虚空に現れた青年は、目尻に向かってすっと上がった目でぎょろっとあたりを見渡している。神は、不機嫌だった。


「天に祈る者がいる――裏切り者は誰だ」


 大地の神という青年の足元には、子どもたちが集めた小石の山がある。青年は、その山を足で蹴りつけた。


「ここから天の香りがする。――これだ」


 青年の手が伸びた先にあったのは、真っ赤な色をした石の髪飾り。


 丁寧に積まれた小石の山を崩しながら、青年の手が珊瑚石の御統を掴み上げる。その様はまるで、小さな生き物の首を締め上げるようだった。


「この匂い――天の匂いだ。ここに、地上にいった者がいる。しかもそいつは天と交わったのだ。裏切り者だ。――誰だ。これを捧げた者は誰だ!」


 激昂した青年の頭上に晒されたものを見つけて息を飲んだのは、チトネ。


(あの石だ)


 チトネは青年が降り立った場所から三列ほど後ろに並んでいたが、じりじりと後ろに下がり、その後ろにいるはずのセレンとツツの姿を探した。


(駄目だといったのに、なんてことを――。匿わないと――いや、誰がどの石を捧げたかなどはわからないはずだ。黙っていれば――)


 ことがうやむやになるのを待とうと、チトネが焦りを押し殺した時。


 〈神の口〉を務める里長の男が、声を震えさせた。


「私が途中で見た時に、その石はなかった。石を最後に捧げたのは――セレン……セレンだったな」


 チトネは動揺した。青年の姿をした神の怒りがどれほどかは、ここにいれば気づくはずだ。ちょっとした弾みで厳罰を与えるような、狂ったような気配があることにも――。


(石集めは子どもの役目だ。この男は里長のくせに、里の子どもを守ろうともしないのか)


 なぜ、守るべき人を守ろうとしないのだ。なぜ、そこにいる不気味な存在のいいなりになるのか。


 怒りをこらえつつ、チトネは背後にいるはずのセレンとツツの居場所をたしかめる。自分が盾になってでも二人を守るつもりだった。


 大地の神という青年の怒りの気配がすこし変わった。青年はセレンの名前を気にした。


「セイレンだと? その名に聞き覚えがある。その者は災いの子か?」


「違います、この子はセレンです。災いの子につける名はセイレンで――」


「しかし、名が似ておる。天の香りがする石ももっていた。その石を捧げた者は災いの子ではないのか。双子の片割れは滅ぼすべしとの決まりを破って生きながらえている者ではないのか」


「違います、セレンは双子では――」


「しかし、名が似ているし、天の香りのするものをもっていた。どの者だ」


「この子です、この子――」


 〈神の口〉を務める里長も周りにいた歌い手たちも、すぐさま場所をよけてセレンを指さす。


 チトネは憤りがおさまらなかった。


(なぜ里の子どもを差し出すような真似をするのだ。幼い子が神とかいうやつの怒りの矢面やおもてに立たされて、なにかができるとでも思っているのか。なんのための里長だ、なんのための大人だ)


 チトネは里長のことも、周りにいる連中のことも軽蔑した。


 こいつらは信用できない。自分が息子を守るしかない。


 チトネは、セレンの周りにできた隙間に躍り出た。普段はお調子者のセレンも、いまは表情をこわばらせて身をかたくしている。


(怖いだろう。大丈夫だ。私が守ってやる)


 息子の無実を晴らすために、自分が申し開きをしてやる。決意したチトネは、青年の真正面に立ちはだかった。


「大地の神様。恐れながら、この子はけっして双子の片割れ、災いの子ではございません。私の妻の忘れ形見の、たった一人の息子でございます」


 青年は聞き入れなかった。


「しかし、名が似ているし、天と関わっておる。どけ。その子をこちらへ。――そうだ、よいことを思いついた。いずれ災いを起こさぬために、我が災いの芽を先に摘んでやろう。その子を我がもとへよこせ」


「違います、この子は――」


 大地の神に歯向かおうとしたのはチトネ一人だった。


 里長の男は、長年同じ里で暮らしたチトネを助けることもなく青年の命令に従った。セレンのもとへ歩いてきて、首根っこを掴もうとする。


「なにをするのだ。やめろ! この子は災いの子なんかじゃない!」


 セレンを引きずる里長を押しやろうと手を伸ばしたが、その手はセレンに届くことなく宙に舞う。チトネを止めようと背後に回った里者に、羽交い締めをされていた。


「はなせ! なぜ邪魔をするんだ! セレンをどうする気だ。セレンを守らないのか!」


 身体の自由を奪われてできることは、叫ぶことだけ。


 何人もの手から手へ渡って、セレンはあっという間に一番前に引き出される。


 青年は、目の前にやってきたセレンの顔をちらりと見た。セレンの背の高さは青年の腰までしかないし、顔も小さい。腕も足も胴周りも細く、華奢だ。首も――。


 その細い首に、青年の手は躊躇なく伸び、掴む。首を掴んだまま持ち上げた。


 セレンの足が地面から離れて宙に浮き、もがいている。首を絞められた幼い顔が苦痛に歪んで、目が見開かれた。


「なにをするんだ。セレンが死ぬ! セレン!」


 その青年が神だろうがなんだろうが、突き飛ばしてでも息子を助けてやる。意気込んで一歩を踏み出したが、すぐに周りから腕が伸びてきて、それを押しとどめてくる。よく知っている里者だった。


「チトネ、やめろ。神の御前で暴れるな」


「暴れるなだと? セレンが、私の息子が……!」


 目の前で、小さな子どもがよく知らない青年に殺されかけているのに、里者は助けようとしなかった。セレンのか細い首は、いまどうなっているのか。チトネの目にはセレンの首がもう砕けているように見え、血の気が引いた。それほど青年の手には力がこもっていた。まもなく、宙に浮いたまま、セレンは動かなくなった。


「セレン、セレン!」


 泣き叫ぶチトネの声だけが、恨み文句を連ねる山魚様の声に重なる。


 動かなくなったセレンを、青年は湖へと放り投げた。ぱしゃんと水柱が上がった場所は、ちょうど山魚様の口元。そんなところに落ちたら食われる――それ以前に、その湖の水は、土蜘蛛といえども触れてはいけない毒の水だ。セレンの身体が沈みゆく水には、ぶくぶくと泡が立った。


「災いの子は山魚に食わせる決まりだろう。その子の命は山魚の肉となり血となり、いずれ我らに幸となって還ってくる」


「セレン、セレンを助けろ……! いまなら間に合う! あの水に飛びこませてくれ。はなせ、はなせ!」


 チトネは自分を羽交い締めにする腕を振りほどこうと暴れた。それをやめさせようと、里者たちはかえって力ずくでチトネを押さえつける。


 騒ぎを青年は冷めた目で見て、笑った。


「我はぬしらの神ぞ。我にたてつくとは、おまえも裏切り者か。おまえも、我よりも天がよいというのか。――そうだ、よいことを思いついた。おまえのような者が一人いればこの里に不和が起き、いまに土雲の里にも広がり、土雲媛すら我にまつろわぬようになる。いまのうちにおまえも山魚に食わせて、災いの芽を摘んでやろう」


「なにがよいことだ。いっていることが無茶苦茶だ!」


「我の命令に従わぬのか? この者は我にはむかう裏切り者だ。ここへ連れてこい。こいつも息を止めて湖に放り投げてやろう」


「誰が……死ねといわれてすんなり死ぬやつがどこにいる。おまえなど、神じゃない。化け物だ!」


「化け物だと――?」


 青年の目が不機嫌に細まる。その次の瞬間だった。


 バチン! なにかが弾けるような物音がして、周りが真っ暗になった。湖のほのかな緑色も、足元に生える草の光もすべてが消える。


 青年の姿も里者の姿も見えなくなった。いや、気配そのものが消えていた。


 チトネの手をひく、小さな手があった。


「逃げよう、父ちゃん。セレンは、もうここにいないんだ」


 チトネを引っ張ったのは、ツツ。しゃくりあげながら、涙声で懸命に喋っていた。


「来て、父ちゃん。セレンはもうここにいないから、ここにいても無駄だよ」


「ツツ……でも、セレンはそこの湖に落ちたじゃ……」


「うん。身体は落ちちゃったけど、セレンはもうそこにはいないんだ。どこかわからないけれど、ここにはいないんだ。ううん、すごく近くにいるんだけど、ここじゃないところにいったんだ」


「どういうことだ? あの湖に落ちたらセレンと同じ場所にいけるのか? なら、私はすぐにでも飛び込んで――」


「ううん、わからない……でも――いまは逃げよう、父ちゃん。だって、セレンが逃げろっていってるんだ。来るなっていってるんだ」


「セレンが?」


「いまも、ほら――」


 ツツの声がうっと詰まる。嗚咽しながら、泣き声を震わせた。


「セレンが、僕の手を引いてるんだ。僕のすぐ前にね、セレンの形をした影がいて、僕の手を『こっちだよ』って――。これ、セレンの手だもん。絶対に間違えないもん」



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