雲の対岸 (3)
「やめたって、なにを――いまのはなんだったの」
声はか細くて、震えていた。口から出ていく声が、まるで別の誰かの声のようにきこえるほどで、自分でぎくりとした。
「さあな、なんだろうな」
「ふざけるな。ちゃんと答えないと、いまのことをみんなにいいふらすぞ!」
「ああ、どうぞ?」
雄日子は微笑んでいる。焦りなど微塵もない、落ち着きはらったいつもの笑顔だ。
かっと頭に血がのぼって、喚きたくなった。
「いじわる! 卑怯者!」
「なにがだ。僕はおまえの好きなようにしていいといっただろう? 誰かに話したいならそうすればいいよ」
「だって――いまのは、みんなにいいふらしちゃいけないことでしょ? 誰かにいったら面白がるようなことなんでしょ?
「わかるようになったのか? 大人になったな」
目が合うと喉がひくりと鳴って、雄日子からすこしでも離れようと後ずさりをした。
二人のあいだにじわじわと距離が開いていくのを、雄日子は寂しそうに見ていた。
「おまえは――なんだろう、ふしぎなやつだな。おまえがいないとつまらなかった。もう戻ってこないかもしれないと思うと、それでよかったのかもしれないと思いつつ、やはり寂しかった」
雄日子は困ったように笑っていた。きっとなにかを考えているだろうに、腹の内にあるものは片鱗すら見せずに、ただ笑っていた。
それに、いまの笑顔は冷たくなかった。優しいとまでは感じなかったけれど、誰かをうまいように扱ったり、あえてなにかを黙っていたりするような冷たい顔ではなかった。
セイレンはいつのまにか、後ろに下がるのをやめていた。
「そんな顔をするな。おまえにそんなふうに見つめられると、ひどく責められている心地がする。――まあ、責められて当然か。僕が悪かった。へんな真似をしたのも、僕のわがままに付き合わせたのも謝るよ。すまなかった。――いっていいよ」
「責めているわけじゃ――」
思わず、雄日子の顔に見入っていた。態度や口調はもういつもの雄日子に戻っていたけれど、それでもまだ雰囲気がいつもと違う。
「ねえ……あなたはときどき、とても寂しそうな顔をするよね」
思ったまま、ぽつりといった。
すると、雄日子は唇の端を上げた。まばたきをすればすぐに消えてしまいそうな幻に似た、儚い印象のある笑顔だった。
「おまえといる時は、不自由を楽しんでいるんだ。――もういっていいよ。帰還の報告、ご苦労だった。よく休め」
やっぱり、雄日子の印象は前から変わらなかった。
一見優しそうだけど、そうでもない。冷たいけれど、冷たいだけでもない。掴みどころがなくて、ときどき一緒にいて怖くなったりもするので、あえて近寄りたい男でもない。
いまも、さっさとこの男から離れてしまいたかった。でも――。
「――はい」
命じられた言葉に返事をすると、雄日子の笑顔が切なく歪む。
その奇妙な笑顔はやたらと目に焼きついて、なかば逃げるように館を出た後も、まぶたの裏からはなれなかった。
◆ ◇ ◆ ◇
土蜘蛛一族が暮らす里――地の底にある暗がりには、絶えずごうごうと風が唸っている。
洞窟の天井を行き来する風の音で、風が吹き抜ける隙間が少ないので、音が籠るのだ。そのせいで、どこかの壁で跳ね返された風の音は、絶えず上のほうから降っていた。
ほんのりと緑色に輝く水面には、訪れた
白いうろこにおおわれた身体は布でぐるぐる巻きにされて、見えている場所はほとんど口だけ。魚の身体から突き出た短い手足も、布で縛られて岸に打たれた聖なる杭につながれている。
その姿は、土蜘蛛一族に伝わる神の鎮座の光景だ。でも、当の山魚様はそれを怒っていた。
『ここから出せ、縛めを解け。人どもめ。滅びろ、憎い、喰わせろ……』
あらわになった魚の口が蠢いて、恨み言が漏れている。湖面のさざ波の音は、かき消されていた。
神迎えの儀、山魚様の儀の始まりを待って、里長の男は神の真正面に立ち、腕組みをしていた。
目の前にいる山魚様は、神と呼ぶには少々汚らしい生き物に見える。絶えず恨み言を浴びせてくるところも、正面に立ってじっと見ていたいと思えるものではなかった。
しかし、その禍々しさこそが神と呼ばれる由縁だと、里長の男は信じていた。
だから、里者たちのぼやき声を聞きつけると、里長の男はたしなめた。
「やれやれ――伝え聞いてはいたが、気味の悪い神だ。滅びろ、喰わせろと、こんな言葉をこれから毎日聞き続けるのか……」
「戯れ言をいうでない。神のおでましを悪くいうやつがあるか」
「はっ、〈神の口〉様。申し訳ありません――」
「無駄口をたたかずに支度を急げ。
水に浸かった異形の神と向かい合う場所にある湖岸には、里中の者が集まっている。
前列に並ぶのは歌い手で、その後ろに並ぶのは太鼓や楽器を手にした
「みな揃ったか? ならば、はじめよう」
山魚様を迎える儀式を前におこなったのは三十年前のことで、前列に並ぶ歌い手はみな三十年前にも山魚様の儀を執りおこなった先達で、見事な歌い手ばかり。
里長の男の口上を皮切りに、朗々とした歌声が風の音に重なった。
我、土蜘蛛の一族、〈神の口〉なり。
我が里におでましになった山魚様に、ごあいさつにまいりました。
山魚様ぁ、どうかごゆるりと、我が里でお休みくださいませぇ。
鎮座の床は、土蜘蛛の娘が丹精込めて編みました。
捧げ物の人に代えて、類い稀なる美しき石を土蜘蛛の子らが集めました。
この地で、どうかごゆるりと、お鎮まりくださいませぇ。
『放せぇ、人どもめ。にっくき人どもめ――』
山魚様は布で縛られていたのでほとんど動かなかったが、唯一あらわになっている口からは、絶えず恨み言が漏れている。布の内側でもがいているのか、ぐるぐる巻きにされた白い布には、肉から染み出た黒い体液が滲みはじめた。
あな、清く美しき山魚様。
この聖なる湖で、どうかお鎮まりくださいませぇ。
真白く輝くうろこと、力に満ちた美しい肉を、我々にお与えくださいませぇ。
山魚様の儀で歌われるのは、里にたどりついた山魚様を褒め讃える祝詞だ。
でも、「清く美しい」と讃えられているのは、憎い、滅びろと人を罵る異形の神で、神というよりは化け物――。
後列で銀笹を振るチトネは、前に並ぶ里者の頭越しに山魚様の姿に見入りながら、このようにしか思えなかった。
これが、果たして神なのか。
神とは――?
考えているうちにいつのまにか銀笹を振る手が弱まっていたのに気づいて、慌てて柄を握り直す。
長の男の声が響いたのは、その時。
「大地の神のおでました。おいでになるぞ。みな、失礼をするな。音を揃えろ」
土蜘蛛の長は〈神の口〉と呼ばれて、大地の神という存在の声を聴き、その言葉を里者に伝える役を担っている。その男がいち早く感じとったとおりに、ゴゴゴ……と地面が揺れ動くような地鳴りの音が響いた。
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