雲の対岸 (2)
「なんの話したがってるわけ? おれ、ほんとに関係ないの? ねえ!」
藍十をなかば無理やり館の外に追いやってから、セイレンは雄日子のすぐそばに寄って、小声で伝えた。
「あなたに伝えたいことがあるんだ」
話したかったのは、藍十が土雲媛の宝珠を飲んだことだ。
飛鳥から
「藍十には詳しく話してないんだけど――あなたは〈待っている山〉のことも土雲媛の宝珠のことも知ってるだろう? だから、一応知らせておくよ」
雄日子は苦笑して、目を細めた。
「なるほど、そういうことか。わかった。――ほかには?」
「べつにないよ?」
「さっきいっていた大事なことが起きたっていうのは、いまの話か?」
「そうだよ? 大事なことだろ? 藍十があなたと同じ、毒に強い身体になってしまっただなんて……」
「たしかにそうだ。でも――」
雄日子は、ほかにもなにかを尋ねたそうにしていた。
「それで、おまえは藍十を夫にするのか?」
「ああ、それね――。藍十に夫になってくれって頼んだけど、断られたんだ。夫っていうのはただ好きな男じゃなくて、特別に好きな男のことだからおれは違うっていわれてさ――」
その時のことを話すと、雄日子はくっくっと忍び笑いを漏らす。
「特別に好きな男、か。おまえの特別に好きな男というと……
「だから、なんで荒籠の名前が出てくるの?」
セイレンはむっと眉をひそめる。もう癖のようにしみついていた。
「違うのか? ――まあいい。それにしても、よく戻って来てくれたな。藍十はともかく、おまえはもう戻ってこないかと思っていたんだ。前に、ここから逃げたいと話していただろう?」
「ああ――そういえば、そうだね」
たしかにセイレンは、ここから追い出してくれと雄日子に頼んだことがあった。ここにいるには力が足りないから、と。いまも、どうしてもここにいたいと願っているわけではないが、逃げ出したいと思うほどではない。
でもそれは、故郷の里に帰りたくないというだけだ。土蜘蛛の一族のことを知ってしまったいまはなおさら帰るのが嫌になっていたが、ここを出ても帰らなければいいだけのことで、雄日子のもとにとどまる理由はとくになかった。
「本当だね。どうして戻ってきたんだろ? 藍十がいたからかな」
今回の旅路で、藍十にはずいぶんと借りができていた。
落馬したところを助けに戻ってきてくれたのは藍十だったし、先にいけといって、追手と戦ってくれたのも藍十。それなのに、セイレンは藍十から
藍十は笑って許してくれたが、その時の藍十の笑顔を思い出すと、いまでも胸が苦しくなって、涙が浮かびそうになる。
「うん、きっと藍十のせいだね。藍十を一人で帰すわけにはいかなかったもん。わたしだって……」
自分も、藍十を守りたかった。守ってもらったぶんを、ちゃんと返したかった。
唇を噛んで黙ったセイレンに、雄日子は苦笑した。
「荒籠に、藍十に、おまえは忙しいな」
「だから、なんで荒籠――」
からかわれた気がして、むっと眉をひそめる。
でも、それ以上いえなくなる。
土雲の秘密を大声で話すわけにはいかないと、セイレンは雄日子のすぐそばに寄っていた。
もともと顔と顔はとても近い場所にあったが、いま、雄日子の顔はセイレンの顔の真正面にある。雄日子はセイレンの顔をじっと見つめていて、しかも、その目がじわりと近づいてくる。
セイレンは驚いて、動けなくなった。
ただ、目が近づいてくる……鼻も近づいてくる……まぶたも近づいてくる……と、近づいてくるものに夢中になっていると、しだいに近づいてくるものが近すぎて見えなくなり、頬に手のひらが触れる。
頬が温かいもので包まれたと思ったら、目の前が暗くなっていて、唇に柔らかいものが当たっていた。
唇に触れているのが雄日子の唇だということはわかった。頬を包む手のひらには意外に力が入っていて、なかなか振りほどけない。
なにが起きているのかわからないけれど、逃げ出したいと思って、思い切り頭を振って手のひらの壁から頬を振りほどいた。
「なに、いまの」
唇を手の甲でごしごしとこする。奇妙な感触を、唇はまだふしぎがっていた。
雄日子は微笑んでいた。
「なにって――藍十と荒籠がうらやましいと嫉妬したのだ。僕もそこに混じっておこうかと思った」
「うらやましい? あなたもそこに混じるって……」
なにをいっているのか、さっぱり意味がわからない。
「嫉妬って、馬を取られて悔しいっていう意味?」
前に、藍十からそう聞いたが。ここに馬はいない。疾風や、べつの馬のことをいっているわけでもなさそうだが。
そのうちに、セイレンはぱちくりと目を見開いた。
もう一度雄日子の腕が伸びてきて、あっというまに床に寝かされていた。床の上に横たわったと思ったら、身体の上に雄日子が重なってきて、覆いかぶさるように頬の両横に肘をついている。
真上に雄日子の顔があって、手首も握られてしまったので身動きもとれない。
「なに、なに!」
「おまえを見ていたら、さっきのだけでは足りないかと思ったのだ」
「さっきのって――」
きっと、唇に触れたことをいっているのだと思った。その仕草の意味はわからなかったが、なぜかぼっと頬が熱くなって、懸命に首を横に振った。
「離れて! あっちいけ!」
喚いても、雄日子はきかなかった。すこし高い場所からセイレンの顔を見下ろして、首のあたりをじっと見下ろしている。
「髪飾りはどうした? はずしたのか」
珊瑚の髪飾りのことだ。それはいま、セイレンの髪から抜き取られている。
「あれなら、あげた……」
「誰に?」
「子どもに……藍十を助けてくれた子が、きれいな石だって欲しがったから、あげた――」
雄日子の目が細まる。鼻で笑うような仕草だった。
「僕が贈ったものが、藍十と引き換えに誰かの手に渡ったのか――愉しい。胸が痛んだぞ」
雄日子は笑っていたが、その目が怖いと、セイレンは脅えた。
「はなして――」
突き飛ばしてしまいたかった。でも、手首は両方とも雄日子の手のひらにおさえられているし、足で蹴ってやろうにも、腿の上には雄日子の身体が乗っているので重くて動かない。
じたばたと手足を動かしているあいだ、雄日子は一言も喋らなかった。
しばらくして、手首にあった手のひらが離れる。押さえつけていた手のひらが、セイレンの手のひらに重なった。強い力で押さえるのではなくて、指と指をからめるような優しい動きをした。
怒っているような目が怖くて目を逸らしていたが、恐る恐ると視線を戻して、雄日子の顔を見上げてみた。
雄日子はセイレンを見下ろして、苦笑していた。眉根をひそめて、唇をそっと結んで、目は力なく細められて。とても寂しそうな笑顔だった。
「――やめた」
セイレンの手に重なっていた指が離れていって、身体の上に覆いかぶさっていた雄日子の身体も遠ざかっていく。
身体と身体が離れると、その隙間にふわりと涼しい風が吹き抜けた。
雄日子はそばであぐらをかいて、セイレンに手を伸ばした。乱暴に床に倒したのは自分のくせに、いまはセイレンの手をとって、起き上がらせようとしていた。
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