罠 (1)

 一方、河内かわちの牧を発った騎馬軍は、生駒いこまの山裾をとおって山背やましろへ向かっていた。


 また人の目にとまってはならないと、森や野原を選んで進み、二度の野宿を経てたどりついたのは、桂川のほとりに建つ離宮。秦王はたおうの離宮まで戻ることになった。


 その日のうちに、一緒に辿りついた面々は別れて動くことになる。


 馬飼うまかい一族の女子どもは、休息もそこそこに翌朝の旅に向けて支度をした。秦王の本拠地、水無瀬みなせ宮に移るためだ。


 馬飼の若衆の中で、荒籠あらこから指名された四人は、離宮にとどまることなくそのまま旅を続けた。


 雄日子の守り人も、帆矛太ほむた日鷹ひたかは離宮を通り越して、さらに旅を続けることになった。


 残った守り人は、セイレンと藍十あいとお、そして、守り人の長と護衛軍の長をつとめる赤大あかおお


「おやっさんは忙しいし、しばらく寝ずの番はセイレンとおれの二人だ。おれは後役をやるから、おまえは前役な。おれは先に休むよ――ふわあ……」


「ってことは、日鷹たちが帰ってくるまで、寝ずの番はわたしと藍十で回すってことか」


 これから毎晩眠る時間が半分になると思うと、考えるだけで億劫だ。そうでなくても、旅続きで身体が疲れているというのに。


「まあ、みんな疲れてるよな。――セイレン、雄日子様が来てくれって。もう寝るってさ。雄日子様もお疲れだ……ふわあ」


 日が暮れてからすぐだったが、雄日子の寝所に向かうと、藍十がいったとおり、雄日子はもう寝床で横になっていた。


「長旅はどうしても疲れる。休めるうちに休まないとな。ふわあ……」


 雄日子があくびをするので、セイレンももらいあくび。


「ふわああ……わたしも疲れたよ」


 雄日子の枕元を陣取ってあぐらをかき、武具を手元に並べて寝ずの番の支度をするが、そのあいだもあくびが止まらない。


 寝転んだ雄日子は、セイレンの口元を面白そうに見ていた。


「眠そうだな」


「眠いよ――ふわあ……。ねえ、帆矛太と日鷹はどこへいったの?」


黒杜くろもりを探しにいったのだ」


「黒杜って――」


「守り人の一人だ。水無瀬宮から河内まで一緒だったろう? 黒杜は高島に戻らせたんだ。もうそのへんまで戻っているはずだがな」


「――ごめん、よくわからないんだけど」


「黒杜が河内を出たのは十日前で、高島までいくのに四日かかる。都で支度をして、あらためて旅立って、もういまごろは賀茂あたりまで戻ってきているだろう。だから、日鷹と帆矛太に探しにいってもらったのだ。合流地を決めたあとで日鷹たちは戻ってくるはずだ」


「わたしたちが河内からここに戻るまでのあいだに、あの黒杜って人はそんなに遠くまでいって、戻ってきてるの? なんか、すごいね……あくびが止まっちゃった」


 疲れたと口ではいうものの、雄日子の目に眠気はなかった。いまも、敷布に寝転んで真上をぼんやり眺めている。


「今回は早さが勝負の分かれ目だからな。遅れをとれば命取りになる。荒籠や馬飼たちもよく働いてくれているし、この先もしばらくはばらばらに動くことになるだろうが――つぎにみんなで集まる時に、一人残らず顔を合わせられるといいんだが……」


 雄日子の表情は、とても穏やかだった。見覚えのある冷たい静かさではなくて、熱心に誰かを心配しているふうにも見えなかったが、誰かを思いやる落ち着いた目をしていた。


 思わず、間違い探しをするように、雄日子の顔をじっと目で追った。


「――あなた、前と感じが違うね」


「どんなふうに?」


「それは、えっと―――――――優しい人に見える」


 いい渋るセイレンを見上げて、雄日子は苦笑した。


「そんなにいやそうな顔でいうな。――優しい、か。でも、僕は優しくないと思う」


「知ってるよ。だから、そんなふうに見えるのはおかしいなって思ったんだ」


「辛口だな」


 雄日子は目を細めて笑った。一度口を閉じてから、慎重に唇をひらいた。


「なあ、セイレン。僕はもうすぐ戦をはじめると思う」


「戦――」


 戦というものを、セイレンはよく知らなかった。故郷の里にいた時に「山の下の男王たちはしょっちゅう剣と矢で戦をしている」と、恐ろしいことや馬鹿げたこととして話にきいていたが――。


「戦って、賀茂で襲われた時みたいなもののこと?」


「だいたいな。あの時よりは長引くだろうし、人も大勢傷ついたり、死んだりもするだろう」


「傷ついて、死ぬ……」


「ああ、そうだ。僕は、僕を慕ってくれる仲間をそうさせたくない。だから、戦がはじまったら、おまえにはあの雲を吹いてほしい」


 あの雲――それは、セイレンのもつ〈雲神様の箱〉のことだ。


「でも――」


「その時がきて急に頼まれたらきっとおまえは悩むだろうから、いまのうちに頼んでおくのだ。いいな、セイレン。その時がきたら、一族の技を僕のために使ってくれよ」


「――わからないよ、そんなの」


「いまはそうだろう。だから、その時までに心を決めておいてくれ」


「でも――あの箱を使ったら、一度に大勢が死んじゃうんだよ? あなたも見ただろう――」


 眉をひそめて尋ねたセイレンに、雄日子は笑った。「それがどうした?」という表情だ。


「――やっぱり、あなたは優しくないよね」


「そういっているだろう? じゃあ、そろそろ寝るよ。おやすみ」


 雄日子の手が、身体にかける布を引き寄せはじめる。寝る支度を整えると、まぶたを閉じた。


 やわらかそうな寝床の中で、雄日子の目が閉じていく。それをセイレンは心底うらやましいと思った。


 雄日子はこの離宮にいるなかで一番の地位をもつ男だ。一番上等な寝床を広々使って、そばには自分の世話をさせる守り人まで置いて、そうそうに眠りにつこうとしている。


 いいなあ――そう思うと、胸がむずむずした。


(わたしだって眠いよ! でも、日鷹と帆矛太よりましだよね。あの二人はいまもまだ歩いてんだもんね。黒杜さんっていう人にはもっと負けるよね。高島まで戻って、また進んでるのか――すごいなあ。あ、でも、雄日子のそばを離れたら寝ずの番はなくなるよね。一晩ぐっすり眠れるんだろうな。いいなあ)


 きっといまごろ、日鷹も帆矛太も黒杜も、どこかで横になって寝息を立てているのだろうな。


 三人の眠る姿を想像していると、セイレンは雄日子の声に起こされることになった。


「眠そうだな」


「えっ?」


 声をしたほうを見れば、雄日子が目をあけてセイレンを見上げている。


「ええと、うん?」


「座りながら寝ていたぞ。河内からここまでの旅はそんなに疲れたか」


「旅くらい平気だよ。だいいち、疾風はやてに乗せてもらってたから、自分の足じゃほとんど歩いてないし。――なんだろうね。疲れてるのは、藍十に稽古をつけてもらってるからかなあ」


「藍十から稽古? なんの稽古だ」


「武術だよ。基礎がなってないっていわれて、慣れろ、繰り返せって――。朝早く起きて稽古して、移動の休息中にも稽古して、水浴びの前にまた稽古して――。もう、いやになるよ」


「いらいらしてるな」


 雄日子はくすっと笑った。


「でも、その稽古は必要あるのか? おまえは藍十に追いつかなくてもいいだろうが」


「――なんで! どうしてあなたがそんなことをいうんだよ。わたしはあなたの守り人だよ? 赤大に、あなたの守り人としてはまだまだだっていわれたんだ。毎日稽古をして技を磨きなさいって。実際その通りだし、藍十に稽古をつけてもらっても力の差を思い知らされるだけだし――時間が足りないんだよ。本当は寝ずの番なんかをする余裕だって、力だってないはずなんだ。――本当にわたし、男だったらよかったよ。そうしたらもっと強かったし、稽古をしたってもうすこし早く上達しただろうし」


 勢いよくまくしたてるセイレンに飲まれることなく、雄日子はのんびりとしていた。


「でも、おまえは女だし、なによりも土雲の一族だ。無理に藍十に合わせなくても、それを生かせばよいだろう」


 この男がいったいなにをいっているか、セイレンはよくわからなかった。


「でも……」


 がさりと音が鳴り、雄日子が寝床から起きあがる。


「寝ろ。僕が起きてる」


「――なんで」


「疲れた女に無理をさせてまで守ってもらうつもりはないよ」


「――絶対にいやだ」


 雄日子はすぐに折れた。


「強情だな」


 笑って、もう一度寝床に頭をつけていった。


「じゃあ、守りを頼むよ。おやすみ」


 




 女だから、眠そうにしているからと寝ずの番を取り上げられるなんて、ひどい屈辱だ。


 絶対にやりとげてみせると、セイレンは一生懸命目をあけていた。


 でも、疲れはたまっているようで、まぶたがだんだん重くなり、押し上げるのがつらくなる。でも、眠りこけるなんてありえない! と、寝床で寝息を立てる雄日子の寝顔を見下ろして必死にまぶたをあけた。


 そうやって、雄日子の寝姿をずっと見ていたはずだった。


 でも、夢うつつのうちに身体を持ち上げられて、「ほら、寝ろ」と横に倒された気がした。苦笑して自分を見下ろす雄日子の顔も見た気がした。


 自分の足で立ったわけでもないのに浮き上がって、身体に力を入れていないのに動いているのは、不思議な気分だ。まるで、湖の上にぷかりぷかりと浮いているようで――でも、悪い心地はしなかった。


(そういえば藍十が、海は湖よりも淀川よりも大きいっていってた。海ってどんなだろう。そういえば雄日子は、珊瑚さんごは海の底でとれた宝玉なんだって――。これ、とてもいい匂いがする……)


 そばに雄日子がいると思うと、話しかけていた。


「ねえ、雄日子……海って、深い匂いがする?」


「ん――?」


「あなたがくれた髪飾り――重くていやだけど、いい匂いがするんだ。深くて、しっとりしていて、あったかいんだ――」


 すると、雄日子が微笑んだ気がした。


「珊瑚の香りか――僕にはわからない」






 翌朝、目を開けると、すぐ隣に雄日子の寝顔があった。


 二人仲良く並んで寝転んでいる状態で、雄日子のための掛け布で自分の肩までが覆われている。


 目が覚めるなりぱちくりとまばたきをして、動転した。どうして雄日子の寝床で一緒に眠っているのか、さっぱり覚えがない。


 雄日子は朝寝坊をあまりしないほうだ。たいてい朝の光を浴びるとまぶたをぴくりとさせて目を覚ますが、いまも、セイレンの身動きで目が覚めたようでゆっくりまぶたをあけた。


「おはよう」


「おは……?」


 雄日子だけでなく、うしろからも視線を感じる。振り返ると、あぐらをかいて座る藍十あいとおがいた。


 ちゅん……と鳥の鳴き声がきこえている。館にしつらえられた窓からは、白くて清涼な光がさし込んで、暗かった館の中は爽やかな光に充ちあふれていた。


「朝だ……」


 朝の日差しと、隣で眠る雄日子と、その枕元で番をする藍十。これが意味するものは――。


 セイレンはがばっと起き上がって、うなだれた。


「わたし、寝てた?」


 藍十は渋面をしていた。


「ああ、おまえなぁ――。おれが後役で夜半にきた時には驚いたぞ。寝床で寝てるのがセイレンで、その隣に座っているのが雄日子様で――」


「えっ、どういうこと? わたし、いつから寝てた?」


 ごそがさと音がして、セイレンの隣で雄日子も起き上がる。


「そう泣きそうな顔をするな。たまにはそういう日もあるだろう」


「――雄日子様、ちゃんと叱ってやってください。セイレンは守り人なんです。守り人は雄日子様だけを守るためにいるんです。主を守らずに眠りこけていたなど、あってはならないことで――」


 苦言を呈した藍十を、雄日子はいいくるめてしまった。


「おまえは黒杜くろもりみたいなことをいうな」


「え――」


「まあ、今回のことは赤大あかおおから叱られればいいだろう。僕はべつにセイレンが叱られるようなことをしたとは考えていないからな。どちらかといえば、よく眠ったぶんを別のことではたらいてもらいたいと思う。たとえば、今日とか」


「今日、はたらく?」


 セイレンはぞっとなった。


 へまを叱られることはなかったが、なんだか、へまを叱られていたほうがまだましなことが起きるような、そんな予感がして――。

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