海薫る赤の石 (1)
館の外。
騒々しい集落にしあがった隙間を通り抜けていた時、すこし先で小さな影が道を横切った。その影を追いかけて飛び出した小さな影もあった。
「お待ちってば! 雄日子様が通ってるのに――!」
五つくらいの童と、それを追いかけていた十くらいの
目が合うと、
「もうしわけありません、雄日子様。ごめんなさい……」
べつに、行く手をふさがれたくらいで腹は立たないし、そもそも、わざわざ足を止めてまで頭を下げられなくてもよいと雄日子は思っていた。身分が高い男の機嫌をとろうとどこかで誰かがはじめたことが、さも当然におこなうこととして広まっているだけのことだ。
年端もいかない姉弟から涙目で見上げられるほうが、道を譲られなかったことよりもずっと妙な気分になるというべきか――。
「いいのだよ。姉と弟、仲良くしなさい」
微笑んで声をかけてやると、姉の
ただ道を空けなかっただけでひれ伏さなくてもよいのにと、妙な気分はつのった。
思えば、ずっと昔、ちょうどその
「いずれ王になる御子に臣下になる子が偉ぶるなど、嘆かわしい――」
そのような陰口をたたかれるほうが多く、あまり僕を持ち上げるようなことをしてくれるなと、幼いながらに自分より偉いはずの相手を諭すこともあった。
雄日子は高島の国で王の子として生まれたが、その父王は雄日子が五つの時に病で亡くなってしまった。だから、本当に「王の子」だったのは五つの時までだ。物心がついた時には、もう雄日子は「臣下」だった。
「
母からよく叱られたが、幼い頃から雄日子もそれをよくわかっていた。ただ、角鹿が自分を上に見るのをやめなかったのだ。
父の死後に母が身を寄せたのは、故郷の
母は高向王家の娘だが、高向の王についた弟と比べると、出戻り姫の母の身分は下。角鹿はその弟の長子だったので、年が同じで同じ宮に住んでいるとはいえ、太子の地位を約束されていたのが角鹿で、雄日子のほうは血だけは王家、側統の子という立場だった。
でも、同い年の雄日子と角鹿は双子か兄弟のように育ったし、二人のあいだでの力関係は雄日子のほうが上。引っ込み思案だった角鹿はよく雄日子の後を追いかけてついて回ったので、叱られるからやめてほしいと雄日子は何度も角鹿に頼んでいた。
しかし、ある日。それが一変した。十の時のことだ。角鹿から、王位の継承権を譲られることになったのだ。
角鹿が自分にさせたのは、「血の契り」という邪術だった。
『指を出して――あなたの血をください。そうしたら、父も母もみんな僕たちの想いを受け止めてくれるだろうから――』
「僕たちの想い」というものがいったいなんだったのか、その時の雄日子はわからなかったし、いまもわからない。たぶん、わかりたくもない。
角鹿の思惑通りに、その邪術をおこなった日を機に二人の暮らしは一変した。
雄日子は太子と呼ばれるようになり、太子の親となった母は高向王の弟と同じ力をもつようになった。高向で太子として認められたことで、亡き父が暮らしていた国、高島の王をつとめる男からも呼び戻されることになった。
それからは、すべてが目まぐるしく動いた。変わらなかったのは、ずっとそばに角鹿がいたことくらいだ。
集落を抜けて野に出ると、建物に遮られていた風がびゅうっと強く吹く。服をはためかせるほどだったが、それくらい強い風のほうが心地よかった。
数百頭の馬を育てる牧は広大で、なにもない野の向こうに生駒の山の稜線が見えている。
こんなふうに、自分を崇めたてまつる人の目がないなにもない場所に一人で立つのが、雄日子は好きだった。風があるとなおよい。まぶたを閉じると、これまでの旅のあいだに見た川や山々のある景色が浮かぶ。
(淀川といったか。……あの河は広かった。そうそう渡れない場所も多いし、やっぱり河沿いに
雄日子の頭の中にある景色の中では、川には帆かけ舟の群れがいきかい、山合の谷道には馬に乗った騎馬軍が進んでいた。
三つの川と淀川、
まぶたの内側に浮かんだ野山の景色には戦が見えていた。騎馬軍もいた。
(もっと考えろ。一度はじめてしまえば勝つしかないのだ。まずは飛鳥をどうするか――。飛鳥もこの目で見ないと考えはまとまらないのだろうな……。しかし、飛鳥は
さらさらさら――風が、野原の草を撫でている。涼しげな音の中で涼風を浴び、緑色の小さな葉先が小刻みに揺れていた。ほんの小さな無数の揺れは、まるで星明りがまたたく満天の星の底に沈んだような、奇妙な幻を思わせる。
ぼんやりしていると、ふと、うしろに人の気配を感じた。
殺意をもった刺客でもなく、自分を崇めたてまつる部下でもなく、まったく知らない相手でもない。近づいてきた気配は、野原に生まれた小さな
振り返ると、広い野の端にぽつんと立つ少女の姿が目に入る。一族のものだという独特の衣装をまとっているので、顔が見えなくてもすぐに誰かがわかる。セイレンだった。
話しかけるにはすこし離れた場所にいて、野を前にして立つ雄日子の顔を覗き込むように首を伸ばしていた。
「なんだ、あなたか」
セイレンは丈の短い裳の裾から覗く細い膝を交差させて立っていたが、不満げに唇を尖らせた。
思わず笑いがこみあげて、声をかけた。
「なんだとはなんだ。ここにいたのが僕じゃなくて誰ならよかったのだ」
セイレンはそっぽを向いて、意地悪にすねるようにふくれた。
一族特有の顔つきなのか、セイレンは目が大きく、鼻もすっと高く、くっきりした顔立ちをしている。赤い唇を突き出して目を逸らしたセイレンの渋顔を覗きこんで、雄日子はまばたきをした。
(顔つきが変わった?)
目を合わせたくないのか、セイレンは誰もいない虚空を向いているが、遠くを見つめるその黒い瞳には年頃の娘らしい憂いがある。きゅっと結ばれた唇にも、あどけない華があった。
「なにかあったか?」
尋ねると、セイレンは大きな口をあけた。
「はあ?」
「なんだ。口の悪さは相変わらずだな。でも、顔つきが変わったよ。顔を見せてみろ」
「え……」
見せろといったところであっさり従う相手ではないのは、とうに知っていた。だから、そばまで歩いていくと顎に手をかけて、無理やり自分のほうに顔を向けさせた。
セイレンは、これでもかというほど鬱陶しそうに顔を歪めている。心底いやだけど、相手がおまえだから渋々いわれるままにしてやってるんだ――と、黒い瞳から文句がきこえてきそうだ。
でも、睨まれても、嫌そうにされても、かわいらしいとか面白いとかしか、雄日子は思わなかった。そんなふうに睨んでくる娘も、ほかに知らなかった。
「すこし色香が出たかな? そういえば、見惚れたことがあるといっていたか」
前にセイレンは、荒籠に見惚れたことがあるのだと話していた。どうだといわんばかりに自慢顔をされた時のことを思い出しつつ、苦笑した。
「荒籠が好きか」
セイレンはむっと眉をひそめたが、答えた。
「あなたよりは、好きだよ」
セイレンの黒髪には、紅や黄、紫など、色とりどりの小さな髪飾りが六つついている。そのわりに、六つの房に結われた髪を首もとでひとつに束ねるのは、素朴な結紐だった。
セイレンの首回りに、なにかが足りない――。そう思うと、雄日子は前に渡した髪飾りのことを思い出した。南の海でとれる宝玉、
「前に髪飾りをやったろう? あれはどうした」
「――もってるけど」
顎から手を放してやると、渋々とばかりにセイレンの手が動く。その手は腰に提げた小袋の中を漁った後で、深紅の色の髪飾りを取り出した。
「貸しなさい。つけてやるよ」
セイレンの手からもらうと、小さな耳の下で髪を束ねる結い紐に重ねて巻いてやる。
黒髪に深紅の宝玉が飾られると、セイレンの顔は一気に華やぎを増した。
黒い眼は黒曜の宝玉のような美しい艶を得て、きゅっと結ばれた唇の赤さが、ひときわ鮮やかに引き立った。もともとセイレンにあった意志の強さが、娘らしい、おかしがたい華になって深紅の宝玉に引きだされた。
想像以上の出来だ。雄日子は満足した。
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