密談 (3)

 樟葉くずはというのは地名だ。秦王はたおうの本拠地、水無瀬みなせ宮の対岸で、宇治川と淀川、泉川という三つの川に囲まれた要衝。


 たしかに荒籠あらこは、雄日子の辿った道筋をきけば、雄日子の狙いがその樟葉という場所だと感づいた。そこがちょうど難波津なにわつ淡海あわうみ、つまり、西の海と北の海を繋ぐ船の道の中継地になるからだ。


 泉川という飛鳥へ続く川筋にもあたり、その地を押さえておくことは、雄日子が新しくつくる商いの道を飛鳥側から守るためには必須。そう思った。


「ですが、もう少し穏便な手段をとられるかと思っていました。たとえば、いま樟葉の地を治めているのは茨田まったの一族ですが、その王の娘を娶るとか、交渉をするとか――」


「穏便な手がとれればそうしたいと思っているよ」


 つまり、穏便な手がとれなければそうはしない、という意味だ。むしろ、荒籠の目には雄日子が戦をしたがっているように見えた。


「荒籠、おまえには本音で話したいと思っている。いま僕が探しているのは、最初の一手になる場所だ。それに樟葉がふさわしいかどうかはまだ決めていないのだ」


「それはつまり、攻めはじめの場所ということでしょうか」


「ああ、そうだ。最初の一手は退いてはいけない手だ。必ず手に入れなくてはならないなら、僕は手段を選ばないよ」


「――樟葉をいま治めている一族が滅びてもかまわないと、そうお考えですか」


「僕が動かなかったら、すぐに飛鳥が動く。樟葉がいま大和の手が及ばない豪族にゆだねられているのは、あの地が要衝になると気づかれていないからだ。僕がいまに水運を使いはじめたら、誰かはすぐに気づく。時をかけてはいけないと思う」


「ですが――」


「おまえの意見ならきく。なんでもいってくれ」


 荒籠の頭の中には一枚の絵地図があった。その絵図は遠方の地から飛鳥の都の細部までを網羅した広大なもので、馬飼うまかいという役目柄、これまで出かけたことのある場所や、そこを根城にしている主たちの権力の大きさ、商いの品、近隣との友好関係など、勢力図がつぶさに書きこまれている。


 でもいま、自分の中に仕上がっていたはずの絵地図の意味が、少しずつ薄れていく気がしてたまらなかった。いま相対している雄日子の頭の中では、その勢力図がすでに未来の絵図に書きかえられているからだ。


「どうした、荒籠。この国が変わる姿が見えないか?」


 荒籠の真正面で、雄日子は微笑みを浮かべている。姿勢を正して、荒籠は慎重に唇をひらいた。


「いま、見えました――」


 雄日子の頭の中の絵地図の上では、おそらく茨田はすでに自分が支配する地になっているはずだ。


 きっといまに高島からやってきた軍勢が駐留し、その家族を含めた大勢が移り住む。川べりには高島の技が駆使された河湊かわみなとが整えられて、難波津なにわつから淡海あわうみへの中継地として多くの船が立ち寄るようになるだろう。湊に並ぶ船は、商いのための船だけではなく、おそらく水軍の戦船もあるだろう。


 ふと、荒籠の耳に蘇った声があった。雄日子と初めて会った時にいわれた言葉だ。


『僕がこの世で一番会いたかったのは、あなたです。名前ばかりで能のない者には、あいにくさっぱり興味がないのだ』


 なぜ自分だったのか。雄日子に会ったその晩から荒籠は自分なりに考えていたが、自分が出した答えよりも、雄日子はもっと深く遠いところまでを含めてそういったのだ。


(まだ珍しい馬に興味があるとか、馬飼が地の利に詳しいとか、そういうことだけではないのだ――)


 その程度のことなら、雄日子は自分を選ばなかっただろう。それが目的なら、由緒正しい武系の豪族をそばに置けば、自分のような馬飼などは自在に命令できるからだ。


 そうではなくて、自分に求められるのはもっと大きくて新しいことだ。思っていた以上に力を買われているのだ――。


 それに気づくと、あぐらの上に置いた手のひらに力がこもって汗で湿った。ほどよい緊張と、快楽を味わった気分だった。


「――そうであれば、早々に移動しましょう。山辺やまべのことで飛鳥から様子見の軍がやってくれば面倒です。秦王はたおうに使いを送り、しばらく住まわせてもらえるようにお頼みしましょう――」


「難波津がうまく使えず苦労している男が、我々を養えるだろうか。それに、茨田まったは秦王の拠点から見て大河の対岸にある。あの大河を渡るには、いまのところ草香津くさかつまでいかなければいけないのだろう? 橋もなく馬を乗せる船もないいま、秦王のくにに身を置くのは気長な気がするのだが」


「そうですが――」


 荒籠は舌を巻いた。


(たった一度あの河のそばを通っただけで、よくそこまで覚えていらっしゃる。いや、攻め手を考えていらっしゃったなら納得できる。大河は侵攻のじゃまだと判断なさったのだ)


「それでは、秦王のもとへ住まわせてもらうのは俺の父や女子どもだけにしましょう。我々は賀茂かもへ向かってはどうでしょうか」


「賀茂か。僕が先日焼いてしまった宮だ」


「お話は聞きました。あなたに無礼を働いた賀茂王を懲らしめるためという名目なら、高島からきた軍が留まる道理はあります。もともと賀茂は飛鳥から遠く、そうすばやく知らせが届かないでしょう。賀茂を拠点にしつつ、まずは和邇わにの王と会ってはいかがでしょうか」


「和邇――」


「ええ。飛鳥の豪族で、飛鳥周辺の秦王のようなお役目を仰せつかっています。都に本拠地をもっていますが、もとをたどれば淡海周辺の出。高島の対岸の――」


息長おきながか」


「ええ、湖の東岸を拠点にしている豪族で、あなたの配下のはずです。和邇わにの一族は同系の息長おきなが一族の水運を借りて大陸へ荷を運んでいますから、息長の意向をないがしろにできません。それに、和邇王ならよく知っている方なので俺がご案内できます。それに――」


(和邇までいけば、あの男を雄日子様に会わせられるかもしれない……)


 荒籠にふっと思い浮かんだ男の顔があった。なにかにつけて馬飼の自分をとりたててくれた若者で、名前を麁鹿火あらかびという。由緒正しい武家の出で自分とは身分違いだが、頭が柔らかくて、信頼できる友人だ。

 

 雄日子が満足げに目を細めた。


「和邇か。それはいい。おまえに話してよかった」


 雄日子の目と目が合ってから、荒籠は床に両手をつき、頭を下げた。


「かまいません。父に話をつけ、我々はこの地を捨てます。もとより、あなたの手となり足となり働けばいずれそうなるでしょう。――しかしながら、雄日子様。ひとつお願いしたいことがございます。牧を失う我々一族に、牧にできそうな野をいただけませんか。できれば、高向か高島にいただきとうございます」


 床についた荒籠の手に、雄日子の手が触れる。床から手を上げさせようとしていた。


「頭を上げてくれ。もちろんそうしたいと思っている。牧が増えれば駅屋うまやも増え、荷運びの中継地も増やせるだろうしね。それより、よく古くからの牧に見切りをつける覚悟をしてくれた。高向と高島だけでなく、息長おきながにも話をつけよう。息長のくにに牧をおけば、荷運びの道をその先の美濃みの尾治おわりまで伸ばすことができよう?」


「雄日子様――」


 顔を上げつつ、荒籠は小さく唇をひらいた。


「河内の牧を捨てる覚悟をしたのは、今後、難波と飛鳥を結ぶ道はさびれていくだろうと見切りをつけたからです。それより、難波と淡海、そして海を繋ぐ道にある、高向、高島への道が栄えていくだろうと――。そうです、それに――」


 いつのまにか、荒籠の顔には笑みが浮かんでいた。


「ええ、そうです。飛鳥が商いの道から弾かれれば、今後栄えていくのは美濃と尾治です。飛鳥は田舎とさげすんでいますが、美濃はよい材木がとれる国で、今後水運が栄えていけば、船をつくるためには必ず無視できない相手になります。それに、尾治も――ご存知でしょうか。飛鳥の連中は尾治をこの世の果てのように扱っていますが、尾治は、その先にある吾妻あづまに続く大切な場所。尾治も、うまく付き合っていかなければいけない相手なのです」


 飛鳥に住む豪族は遠方の国を鄙地と呼んで威張っているが、そうではないと荒籠はつねづね思っていた。美濃や尾治、そして吾妻は宝の山で、これから栄えていくためには、互いに繋がっていかなければならない――と。


 雄日子は自分と同じ考えをもっているのだ。だから、自分に一番に会いたいと願ってくれたのだ。それに気づくと、胸が子どものようにわくわくと高鳴って、込み上げる笑みをこらえられなかった。


「恐れ入りました、雄日子様。あなたとは本当に話が早い。酒があれば酌み交わしたい気分です」


「交わそうか」


 雄日子の目が荒籠の後方を向く。目の合図を受けると、そこにいた黒杜くろもりが立ちあがって館の外に出ていった。


 やがて、互いの手に盃が乗ると、雄日子と荒籠は笑顔を向け合って酒をあおった。


「荒籠、いま僕は、おまえに出会えたことに心から感謝している。僕の頭の中に描いていた幻の絵図に、おまえのおかげで血がかよってきたよ」


「俺も同じです。あなたのおかげで、俺の頭の中に描いていた、こうなればいいという理想が目の前に生まれそうな気がします。それにしても――」


 盃を唇からはなして、荒籠は肩をすくめた。


「あなたが男でよかった。あなたがもしも女だったら、俺はどうしようもなくあなたに溺れていた気がします」



  ◆  ◇    ◆  ◇ 



 一杯二杯酒を飲んだところで、荒籠は早々に館を後にした。


「始末の後を見てまいります。父ともここを去る話を――」


 荒籠が去ってしまうと、雄日子も館を出ることにした。


「牧にいって、風に吹かれてくる」


「では、供を――」


「遠くからでいい。一人になりたいのだ」


 警護を買って出た赤大あかおおを留めて、立ちあがる。


 館の中を横切って戸口へ向かう雄日子に、角鹿つぬがが声をかけた。


「雄日子様、楽しそうですね」


 角鹿の目は細く、笑うとさらに細くなる。その目を見つめ返して、雄日子は笑った。


「ああ、気分がいい。荒籠と話すのはいいな。あいつと話していると、一人で考えるよりずっと速く考えがまとまるし、新しい考えも生まれてくる。いい刺激になるよ。僕が女でなくてよかった、か。面白いことをいう……でも、僕も似た気分だ。あいつが男でよかったよ」


 角鹿はもともと大笑いするほうではなかったし、たいてい真顔をしているので表情が読みづらい男だ。いまも、本当にそう思っているのかそうでないのかがわからない笑顔をしていた。


「つまり、荒籠様を懐柔したということですね。――それでこそ我が君。やはり、私があなたに位をお譲りしたのは間違いなかったようです」


 雄日子の胸に生まれていた熱のようなものが、すっと冷めていった。


 角鹿の細い目を横目で見つつ、雄日子は冷笑した。


「我が君、か。あの時、おまえと僕は十だったか? おまえの眼力には敬服するよ。おまえがあの時に僕にした縛めにもな」


 皮肉をいったつもりだった。角鹿は静かに頭を下げる。


「恐れ入ります」

 

 そうやって、かえって丁寧な返しをされるのは、すくなからず苛立つものだ。いや、相手が角鹿でなければ雄日子はきっとここまで腹が立たなかった。


 館を去る間際に、雄日子は角鹿を振り返って睨みつけた。


「おまえは僕にとって必要な男だ。誰からも身構えていろと、つねに教えてくれるのだからな」


 文句をいっても、角鹿がいい返すことはなかった。ただ黙って頭を下げるだけだ。その態度も、雄日子は気に食わなかった。


(この、狐め)



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