神婚の儀

 神の土穴の入口をくぐって中に入ると、むわりとした湿り気を感じた。


 逢引に来いとその神はいったが、暗くて湿っぽい祠の中は、逢引の場というよりは罪人とがびとを閉じ込める岩屋。自分は罪人だ――そんなふうにしか、石媛は思えなかった。


 前と同じ岩の上に、青年が腰を下ろしていた。両足を大きく開いて、腿の上に頬杖をついている。


「来たか、稚媛わかひめ。その女は?」


 青年は石媛のうしろに控えるフナツを気にした。ぎょろりとした黒い瞳を動かして、ふんと笑う。


「侍女は、めしいか。――稚媛、こっちへおいで」


 実をいえば、その青年のもとへ近づくのは、耐えきれないほどいやだった。この青年がこれまで仕えてきた神の変化だとは思えず、近づくのがひたすら怖い相手だとしか思えなかった。


 でも、そむくわけにはいかない。じっと見つめる黒目に吸い寄せられるように、ゆっくり、一歩ずつ石媛の足は青年のもとへ近づいていった。


 そばまでいくと、青年は石媛の手首をとって、自分の腿の上に腰を下ろさせる。わざわざ触れ合うように座らされるので、頬のそばには青年の頬が、胴には青年の胴が寄り添った。


 ふうん――と、青年は石媛の顔を眺めている。息が届くほど近い場所からだ。宝の善し悪しをたしかめるようなぶしつけな視線が気味悪くて、石媛はぴくりとも顔を動かせなかった。


「脅えているな。まあ、それもまた良し」


 笑い声がきこえて、背中に温かいものが触れる。それが青年の腕で、背中に触れた手のひらが背中を撫でていると気づくと、石媛はやはり怖くなった。


 若い男のそばに、こんなふうに寄ることなどはじめてだ。そばには誰もいない。すこしうしろにフナツが付き添っているが、フナツはめしいだ。この状況が見えているかどうか――。


 こんなに暗くて寂しい場所で、若い男の腿の上に座らされ、身体をさわられている。


 息が止まりそうなほど怖いのに、青年は愉快げに笑っている。背中を撫でたかと思えば、顔を近づけてきて、耳のそばに鼻先が寄る。


 気味が悪くて悲鳴をあげそうになると、またくすりと笑い声がきこえる。


 そうか、この男は楽しんでいるのだ。自分が脅えるのを見て喜んでいるのだ――。


 それに気づくと、恐怖がふくらんだ。脅えた娘を見てどうして笑えるのか、本当にわからない。わからないと思うと、これから先に起こることがどうしようもなく怖くなる。


 このあと、どうなってしまうのだろう。なにが起きるのだろう。


 拒んだり身をよじったりすることも、いまは許されないのに。そう思うと、涙がこぼれた。


 目の裏に、いつか森で出会った青年の姿が浮かんだ。背の高い青年で、若々しい緑に包まれた森の小道で、明るい陽ざしのもと、その青年は自分を見つけて微笑んだ。


 その人は、雄日子と名乗った。


 その人のことを思い出していると、涙がとめどなく溢れて頬を伝う。


 爽やかな陽ざしのもとで出会ったその人ではなく、暗闇の中で奇妙な青年に抱かれていると思うと、自分がひどくかわいそうになった。


 生きたままつらい思いをするのと、死んでしまうのはどちらが楽だろう――。そんなふうに思うと、もう涙は止まらなかった。


 ふう――と、長いため息がきこえた。いつのまにか、頬にかかっていた息が消えていた。


「やめよう。脅えた女はともかく、泣いた女は興ざめだ」


 はっと我にかえった。「くれぐれも失礼のないよう――」と念を押した祖母の顔が目の裏にちらつく。


「申し訳ございません。私、無礼な真似を――」


 脅えるのは良いのに、泣くのはどうしていけないのだろうか。疑問には思ったが、咄嗟に指で目元をぬぐった。


 青年の顔は遠ざかっていたが、まだ腕は背中にある。腿の上に座る石媛を見るのに目を細めて、青年は苦笑した。


「急ぐこともない。また来い」


「はい――」


 青年は石媛を咎めたわけではなかった。それに、今日のところは戻ってもよいと許した。


 逃げられたのだ――どうにか。安堵すると、はじめて、石媛は青年の周りに漂う香りに気づいた。


 甘い葡萄のような、干したばかりの薬草のような、甘くて、重くて、その匂いがすんと鼻にとおったかとおもえば、その瞬間に消えていく――。


 それは、〈待っている山〉の頂きにある湖の香りと同じだった。






 震える足で、ほのかな光を頼りに祠の外を目指した。


 岩室の暗がりを抜けて明るい場所へ戻ってくると、ようやく石媛はフナツが一緒にいたことを思い出した。


 フナツは、齢が母親と同じくらいで、三十をすこし越えている。ひょろっとしていて、笑ったり大きな声を出したりすることはなく、いつも無言でうつむいている。


 いまも一緒に岩室に入っていたはずだが、一言も発することなくじっとしていた。外に出てからも、「大丈夫ですか」と声をかけて気遣ったりすることもない。


「フナツ、あなたはそばにいるだけで、なにもしてくれないのね。私、いまね、とっても怖い思いをしてきたの。もう、怖くて――」


 フナツが頼りなく感じた。前に世話をしてくれた下女はもっとはきはきとしていて、石媛が困ったり不安がったりすれば、先を読んで助けるような機転ももっていた。


 怖かったことを思い出すと、頬に涙のあとがついているのを思い出す。顔を洗いたいから水をもってきてちょうだいと頼もうとしていると、フナツは薄い唇をひらいて、ぼそりといった。


「おそれながら、セイレン様がそのようなことを私にいったことはありませんでした」


「え――?」


「セイレン様です。私は、セイレン様が幼い頃よりお世話をおおせつかっていましたから」


 盲の目で虚空を見ながら、フナツはぼそぼそと続けた。


「セイレン様は、私がどういう立場の女かということを幼い頃からわかっておられました。私の目はなにも見ません。でも、セイレン様が泣いた声や、男の低い声がセイレン様を叱りつけたり腕を掴んだりして、乱暴をされている物音を聞いていると、私にはまだ見ぬセイレン様が苦しんでおられる姿が視えて、涙が浮かびました。でも、私のような者がほかの方々に逆らってセイレン様を守るなど、許されないことです。私はずっとおそばにいるしかできませんでした。でも、セイレン様は私を責めず、優しくしてくださいました。――ですから、石媛様、私はあなたにもなにもできません。おそばにいるだけです」


 弱々しい小声だったが、それは拒絶だ。


 あなたはセイレンよりも弱い。あなたはセイレンよりも愚かだ。そう責められた気もした。


「な――」


 いずれ土雲媛となる自分にたてつく者など、石媛は知らなかった。


 とはいえ、腹が立ったけれど、フナツを叱るわけにはいかなかった。


 双子の妹のセイレンが乱暴をされて泣いていたなど、そんなことが起きていたのかと驚いて悔しくなる半面、どうして気づかなかったのだろうと自分を責めた。セイレンとフナツは、災いの子と一族の厄介者だ。里者からひどい仕打ちを受けたこともあったろうに。


 いまも、セイレンは自分の身代わりとなって里を追い出されている。別れ際にも、喧嘩をしたままだ。その時、セイレンは泣く間際の顔をして自分を責めた。


『わたしはこれまで、山を下りたいと思ったことなんかなかった。あんたは馬鹿だ。あんたも、かあさまも、婆様も、みんな土雲媛は馬鹿ばっかりだ』


 双子の妹が里を去ってからというもの、石媛は何度となくセイレンに謝罪をした。


(あなたのいうとおりよ。すくなくとも私は馬鹿だ。大馬鹿だ。ごめんなさい)


 でも、込み上げる想いは「ごめんなさい」だけではなかった。「セイレンはいいなあ」と、双子の妹を妬みもした。


 あの日――石媛が雄日子という名の青年に出会った時、石媛は神様に出会ったと思った。


 人の姿をしているけれど、本当に人――? 


 つい呆けて見てしまうほど、その人の姿はやたらと森の景色に馴染んでいて、人なのか森の一部なのかがわからなかった。


 きれいな人――。男の人……? 森の神様? それとも、山の神様……。


 幻に出会った気分で、目が合ってくすりと笑われた瞬間に、石媛は心を奪われてしまった。


 その人と一緒にいけるなら、すべてが終わってもいい――そう思って大切な宝珠を渡したが、山を下りてその人のもとへ向かったのは自分ではなく、双子の妹のセイレン。


 だから、セイレンが山を下りていく時、石媛はセイレンが心底うらやましかったし、悔しかった。


(セイレンは雄日子様のところにいるんだ。――いいなあ、セイレンは。私もそこにいきたい……)


 館へ戻ると、石媛は壁に背中を預けて膝をかかえる。隅っこで小さくなりながら記憶の中の雄日子を思い出すのが、いまは一番の楽しみだった。


「ねえ、フナツ。きいてくれる?」


 館の中にはフナツも一緒にいたが、お喋りをするわけでもなく、ただそこにいるだけだ。声をかけるとうつむいていた顔をすこし上げたが、表情は変わらない。


 でも、石媛は十分満足だった。ただ、誰かに胸の内をきいてほしかった。聖なる媛として育てられたゆえになかなか口にすることができなかった、苦しい胸の内を。


「私ね、セイレンのことがずっとうらやましかったの。いまも、本当にうらやましいの。土雲媛になるために神様を夫にするより、自由に山を下りていけるほうがずっとうらやましいわ。私は土雲媛じゃなくて、災いの子になりたかった――ううん、そうじゃないわね――。生まれた順番がすこし変わるだけでこんなに違うって、なんだか、おかしいよね……」



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