荒神の試し (1)

「先に教えておくが、この山は暗部山くらぶやまといって、このあたりでは有名な霊山だ。山には神が棲むといい、近くに住む里者は、神の祟りを恐れて近づかないそうだ」


「藍十に聞いたよ。山に登ると、災いが起きるんだって――」


「ああ、そうだ。でも、僕の足は、その山に僕を連れていこうとしている。――どういうことだろうな。僕を神の山に登らせて、この山に棲む荒神に僕を殺させる? そうではないだろうな。僕を殺したいだけなら、僕の足で飛びあがって、地面に叩きつければ済む。そうではなくて、僕の足にかかった呪いは、僕をこの山の上に登らせて、なにかをさせたいんだ。――この山である理由はなんだろうな?」


 雄日子の声は淡々としていて、焦ったり脅えたりしているふうではなかった。セイレンはそれに呆れた。


「あなたは、本当に慌てない人だね。――牙王がいっていたけど、あなたの足を動かしている呪いは、とても強い力をもっているらしいよ。呪いをかけたまじない師が、自分の命をしろに使ったかもしれないって――」


「命――そうだろうな。僕の足を乗っ取る技があるなら、これまでも使えばよかったはずだ。それをやらなかったのは、できなかったか、やらなかったかだ。命がしろになると思えば、納得がいく。おそらく、この呪いは大和最高峰の技で、しかも、この呪いをかけた者が死を覚悟したということになる。一生に一度しか使えない技を、その者は使ったのかもしれないな。だから、気になるのは、そのまじない師が、なぜ、今僕にこの呪いをかけたかだ」


「その人に心当たりがある――っていう感じだね」


「大和最高の呪い師といったら、一人か、せいぜい二人に絞られるだろうからな」


「ふうん。それにしても、あなたは本当に慌てないね……」


「慌ててもいいことはないだろう? ――セイレン、森を抜ける。また上にあがるようだ」


「上?」


 雄日子の声につられて進む方向を見ると、セイレンと雄日子の周りに溢れていた緑の光が、少し先のほうで薄れている。


 緑色の葉に遮られることのない明るい日射しがさしていて、その向こうには切り立った崖が見えた。


 雄日子の身体を浮かせる風は、すこしずつ上へ、上へと傾いていた。


「風が、坂道になってる――」


 ふと、雄日子の肩がぴくりと揺れた。


「この先は禁足地だ」


「禁足地?」


「ほら、セイレン――道の先に、道を挟んで石が置いてあるだろう。あれはきっと、その先へいかないようにという目印だ」


「石? どれ――」


 目を凝らしてみると、雄日子がいった木々の果てあたりに、道の両側に石が置かれているのが見える。石は人の頭ほどの大きさで、二つあった。ちょうど額に鉢巻きをするように、草縄の輪っかがかかっている。


「しめ縄だ」


「しめ縄?」


「人がいってはいけない場所を示す目印だ。つまり、あの先が神の居場所ということで、この山が霊山と呼ばれている由縁だ」


「たかが石と干し草で、そんなたいそうなものになるの?」


「納得がいかないか」


「だって……あなたのいいかただって、禁足地を恐れているふうじゃないよ」


「おまえはなかなか勘が鋭い」


 雄日子がぷっと吹き出す。その後ろで、セイレンはつむじを曲げた。


「なんで、わたしが笑われなくちゃいけないんだ」


「笑ったわけじゃない。気にするな」


「気にするなって――」


 雄日子におぶさりながら、唇を尖らせた。でも、すぐにはっと姿勢を起こして、雄日子の肩の上で目をみひらく。


「いま、なにかが――」


 風の上を歩く雄日子に乗っているせいで、周りの風景は、馬に乗って駆けるときよりずっと目まぐるしくかわっていく。


 追い越したばかりの樫の木が、まばたきの後には背後に遠ざかり、森に溢れる日の光も強くなっていく。森の出口に近づいている証だった。


 雄日子の背中の上から、周りを見渡した。


「なんだ、この気味悪い感じ。なにかがある気がするんだ。どこだ……」


「なにかとはなんだ? ――もうすぐ森を抜けるが」


「森を抜ける……」


 顔を前に向けた。


 暗い場所から明るい場所を見たときに見える光の輪が、明るくなっていく。その向こうには、岩肌がむき出しになった崖が見えた。


 崖は、山の一部が崩落したように切り立っていて、木々は生えておらず、土の面が見えている。


 崖の上には、森が続いていた。雄日子の足を乗せる風が、上のほうへ向かって坂になっていく。


「――この呪いは、僕を山の上に連れていきたいらしい……」


「山の上――」


 崖の上へと目を向けたとき、セイレンの身体の芯あたりが、ぞわりと震えた。


「進んじゃだめだ、雄日子。あの崖の上は、人がいってはいけない場所だ」


「そなたまで、この山が禁足地だというのか?」


「ちがう! あの先は――」


 雄日子の首に回した腕で、ぎゅっとしがみつく。


 禁足地だという道の先には、頂上へ向かってせり立つ崖があった。その崖に沿って、ぽっかりとあいた空洞がある。


 雄日子の足の下につむじ風が生まれて、それに乗って舞い上がり、崖に沿ってのぼっていく。


 崖の上からは細い滝が落ちていて、水しぶきが散っている。その水しぶきの色を、セイレンの目は食い入るように見つめた。色だけではなく、匂いや、水がかかっている場所に生えている苔や草、それに、土の色も――。


 森の緑の匂いの中に、ふあんと甘く、重い香りが混じりはじめる。


 一息吸うだけで身体が脅えるほど、その香りはセイレンが覚えているものとよく似ていた。


「やっぱり――ここは……〈待っている山〉だ!」


「〈待っている山〉? この山を知っているのか」


「あなたは悠長なんだよ! どうしよう――。この先にいかせるわけには――あなたの足をどうやって止めよう……」


 雄日子の首の後ろで、セイレンは声を震えさせた。


「まじないがかかっているのは、足だけ? なら、足を斬れば――。足がなくなったほうが、この先に進んで命を落とすよりはましだろうし……」


「僕の足を斬る? やめてくれ。それはひどい冗談だ」


「わたしは真剣だ! この山が〈待っている山〉だとしたら、あなたは、この先に進んだら死んでしまうんだ! 山の頂きまではまだ遠いのに、もう水に匂いがあるし、土に色がついている。頂きにいったら、どうなっているか――。それに、きっと……あいつが棲んでいるにちがいない。こんなところをあなたがいったら――」


「水の匂い、土の色――」


 雄日子はゆっくりと反芻した。それから――。


「つまり、それは、おまえの里と同じということか」


「えっ」


「おまえが生まれた山里は、山のふもとで暮らす里者たちが入ることのできない霊山だといっていただろう? それに、おまえは前に、僕に話しただろう? おまえの一族が住むのは、古の昔に大地をつくった神が力を使うのを忘れた場所で、その地を、神の代わりに清めているのだと――。山そのものが薬……いや、毒なのだと――」


「そう、だけど――」


 セイレンは、驚いた。


「――よくそこまで覚えていたね? それに、あなたは、本当に勘がいい人だね。なんていうか、心の中を覗かれた気分だよ」


「心の中を覗く、か。残念ながら、僕にはできない。そんなことができるならよいのだけどなあ」


 雄日子はくすくすと笑っている。そんなふうに慌てないでいるのが、セイレンはとても怖かった。


「こんな話をしている場合じゃ……」


 雄日子の足は崖を登り切り、一段上に茂る森の中を進みはじめていた。


 上の森の景色は、ふもとの景観とはすこしちがった。


 ふもとに群れていた樫の木は背が低くなり、幹が細くなっている。


 代わりに、炭のように黒い色の樹皮をまとう大木が、一本、また一本と姿を現す。木の幹は太く、表皮がごつごつとしていて、幹から伸びる太い枝はぐにゃりと曲がっている。葉の色は、紫がかっていた。


 そこでも、雄日子の足は、地表すれすれの高さを吹く風の上を歩いていた。


 けもの道はあるが、禁足地の入口まで続いていた道よりもずっと狭い。


 セイレンは雄日子の首から片手を放して、腰を探った。そこには、吹き矢と並んで、玉の小刀が下がっている。


「止まってくれ、雄日子。ここは〈待っている山〉で、しかも、まだ土雲の一族が関わっていない場所だ。わたしたちの一族だって、身体が強い奴しか入れない場所なんだ。こんなところにあなたが入ったら、すぐに息ができなくなってしまう……。やっぱりもう、足を斬るしか――」


「おいおい、やめてくれ、そんな小さな刃で――。いったい何度つついて僕の足を削り落とす気だ」


 セイレンの身動きに気づいて、雄日子はセイレンの腰に回していた手でその腕を掴んでしまった。


「でも、この先にあなたがいったら、あなたが死んでしまう……!」


「なら、教えてくれ、セイレン。おまえは前に、おまえの一族は〈待っている山〉を清めたら、別の〈待っている山〉を探して、そこに移り住むのだと、そういっていたな」


 それは、そのとおりだった。


 土雲の一族は、大地の神の裔。大地の神が清め忘れた、人が入ることのできない毒の地を、受け継がれた知恵と技で清めて、人が住める場所にする。


 そして、清め終わったら、新しい〈待っている山〉を探して里を移すのだ。


「そうだけど……本当に、よく覚えてるね。それ、あなたに一度しか話してないよね?」


「まあな。僕は物覚えがいいほうだ。では、おまえの一族が新しい山を見つけたとき、一族の中の誰かは、その清め始める前の〈待っている山〉――つまり、一番毒が強い場所へとでかけていくのだろう?」


「わたしはまだ新しい山に移ったことがないから、わからないけど――、たぶんそうだと思う。〈待っている山〉なら、頂きに水源の湖があって、そこは里の中でも身体が強い者しか近づいてはいけないんだ。だから、きっと新しい山を見つけたら、湖に近づけるような身体が強い連中が先にいって、里を造りはじめるんだと思う」


「では聞くが、おまえの姉上や母君、祖母君はいついくのだ。はじめか? それとも、先にいった連中が里を整えた後か?」


「えっ?」


「おまえは一族の長の血筋なのだろう? 一族の長は、その山の頂きの湖にいける身体をもっているのか?」


「それは、先にいくと思うよ。里をつくるべきかどうかを見極めるだろうし、〈待っている山〉の神――山魚様やまうおさまにも、先だってあいさつをするだろうし……」


「それは、血筋によるものか。おまえの身体は強いほうか?」


「わたしは、かなり強いほうだよ。湖でおこなわれる神事にも出かけたし、強い薬を扱うこともできたし――」


「では、姉君はどうだ」


「姉君?」


「おまえの姉君だよ。長の血筋をひく姫君なのだろう? その娘の身体は強いほうか」


「……山頂の儀には出かけているし、強いほうだと思うけど――」


「では、その夫となる男はどうだ」


「えっ?」


「一族の主となる娘とともに、跡取りを育てる男だ。もちろん、毒に強い身体をもっている男が選ばれるのだろう?」


「それは――」


 どうにか答えながら、セイレンは、頭の中が散らかってしまったと思った。


 次から次へと、雄日子は考えもしなかった問いばかりをしてくる。


 雄日子の進みは相変わらず駆けるような速さで、左右に見える森の木々は、勢いよく後ろに遠ざかっていく。目が回るようだった。


「一族の主――土雲媛つちぐもひめになる娘の夫は、一族の男であれば誰でも大丈夫だ。石媛――わたしの姉は、生まれたときから特別な宝珠をひとつ大切に育てていて、それを、選ばれた男が飲み込めば、石媛と同じ身体になれるんだ。だから、たとえ身体が弱い血筋の男でも、その宝珠を石媛から与えられれば、石媛と一緒になれる――」


「そうか。僕がきいた話と同じだ」


 くすり――雄日子の首越しに、笑い声が聞こえた。セイレンの背筋がすっと冷たくなるような、奇妙な笑い声だった。


「雄日子?」


「大丈夫だ、セイレン。このままいこう。僕はたぶん、平気だ」


「どうして――。それに、ねえ……あなたは、石媛の宝珠の話を誰からきいたの? わたし、話してないよね……?」


 腕を回している雄日子の首が、急に人のものではなくなった気がした。


 柱かなにかに抱きついている気分で、これまで目の前にあった幻が、とつぜん消え去ったような――。


 雄日子の足は風に乗って、森の木々の隙間を縫ってすいすいと進んでいく。


 ときには、腰の高さもある岩を登らなければ先に進めない坂道にも出くわしたが、雄日子の足元を吹く風はひゅうとつむじを描いて、雄日子の足を難なく舞い上がらせる。


「その話なら、おまえの姉君が教えてくれた」


「石媛が?」


「ああ。あの日、おまえの里で僕が会ったのは、おまえの姉君だけだ」


 まばたきをするたびに、暗い湖の光景がちらついた。


 雄日子が土雲の里を登って、石媛と出会ったという日の二日後。セイレンは山頂の湖で手の自由を奪われ、吹き矢を射られそうになった。


 石媛がおかした罪を、石媛のかわりに償うためで、その罪というのは、石媛がつくりあげた大切な宝珠を失くしてしまった、ということ。


「ねえ、雄日子――どんなふうに石媛から宝珠の話を聞いたの? 石媛は、ちょうどその日に、その宝珠を失くしているんだ」


 ははは、と雄日子は軽快に笑った。


「失くしたのではないだろう。おまえの姉君は正しい使い方をしただけだ」


「正しい使い方って――なによ」


 宝珠の話は、そこまでだった。


 雄日子の目は前を向き、凛とした声を出した。


「セイレン。また上にあがるぞ。次は高い。しっかりつかまっていろ」


「ええ?」


 そのとき、目の前には巨大な壁がせり立っていた。これまでに登った崖の何倍も高く、土はところどころが瑠璃色や白に見える。


 雄日子の足の下に生まれたつむじ風に乗って勢いよく舞い上がりながら、美しい色をした土のそばをとおるたびに、すんと鼻の奥に響くような甘い匂いを感じた。


「瑠璃土と白土――この崖の上にいったら、毒の風が吹いているぞ! 雄日子!」


 土の色が美しいのは、そこに毒がある証。美しい花びらを広げて虫を誘い込む花のように、人の目をひとときは楽しませるが、その土にあるのは、花の蜜ではなくて、踏んだ素足をただれさせてしまう毒だ。


 セイレンは叫んだが、雄日子は冷静だ。


 浮き上がっていくあいだも、セイレンが落ちないようにおぶり直しながら、まっすぐに上を向いている。


「平気だ、セイレン。胸も喉も、どこもおかしくない。僕の身体は、おまえと似ているようだよ」


 「どうして!」と叫びたい気分だった。


 でも、同時に、土雲の一族であっても選ばれた人しか入ることができない場所に向かっているのに、雄日子が慌てたり焦ったりしない理由にも、気づいた気がした。


(わたしの身体と似ているって、どうして。――石媛、まさか、あんた……)


 気が遠くなった。

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