荒神の試し (2)
風に、奇妙な匂いが混じり始める。漂うのは、つんと鼻に残る香りと、肌にまとわりつくような、まろやかで甘い香り――。
「ふしぎな匂いがするな。酒の仕込み場にでも迷いこんだようだ」
「あなたは、本当に――! 身体は本当に平気なんだな? あなたの足についている呪いは、どうやらあなたを、この山で一番毒が強い場所に向かわせたいみたいだよ。きっと、山頂にいくんだ」
「〈待っている山〉というのは、山頂へいくほど毒が強くなるのか?」
「この山を人が住めない毒の山にしているのは、この山に染みる水なんだ。水源は山の頂きの湖の近くにある。だから、土雲の一族は、頂きの泉のそばにとくべつな木を植えて、育てる。山に染みる毒の水をすこしずつ和らげて、消していくんだ」
「とくべつな木か――。僕の宮にも有能な薬師がいるが……山ごとつくりかえるような壮大なことはしない。なるほど、そなたらの一族は、山を意のままにつくりかえる知恵をたずさえているのだな。霊山に住む大地の神の裔、か」
「もう――! あなたは本当にのんきだね! ……水音がする。湖か、泉が近くにあるよ。きっと、いるよ、あいつが……」
雄日子の背中の上から、セイレンは上のほうをじっと見つめた。
やがて、崖の土の色味がかわっていく。ごつごつとした岩ばかりになり、岩と岩の隙間に白や瑠璃色、そして、
崖に生える草木も、まばらになる。見つけたとしても、草木の葉の色は見慣れた緑ではなく紫色。葉や茎、花の形も、糾の森で見かけたものとはちがっていた。
さらさら、ぴちゃん――。水音も、大きくきこえるようになった。
「崖の上に出るぞ」
螺旋を描いて崖のそばをのぼっていた風が、ふわりと膨らんでまるくなる。
その風に乗る雄日子の足は、横に膨らんだ風の上を弾みながら、ゆっくり地面に下りていった。
山の頂きは岩場になっていて、ほかには青い空しか見えるものがなかった。
木は一本も生えておらず、草もない。土もほとんどなく、ごつごつとした岩肌がむき出しになっていて、岩場は丸裸。
でも、美しかった。
岩は、一面が透き通るような白色と、黄土色をしている。
その向こうに大きな池があり、ゆったりと水をたたえていた。水の色は、桜の花の色。日の光を浴びるたびに、水面が花びらで覆われたような見間違いをさせるほどで、さっと濃くいろづく。
水際の地面は純白なもので囲まれていて、きらきらと輝いている。崖の上の景色は、まるごと光り輝いているように見えた。
いつのまにか、雄日子の足は止まっていた。絶えず足元を吹いていた風もおさまっていた。
これまで、高い崖をのぼったり、森の中を疾風の速さで進んだりしてばかりだったので、こうして静かに、動かない景色を前にするのは、風や息までが止まったようで奇妙だった。
ふたたび、雄日子の足が動き始める。呪いで無理やり動かされているのではなく、雄日子は、みずからの意志で正面に見える池に近づこうとしていた。
「ここは……。あの美しい湖は、いったい――」
「雄日子、だめだ。あの池に近づくな。あの池は――」
雄日子の足は一度止まったが、結局、歩き続けた。
「おまえこそ、いいかげんに僕の背中から下りろ。僕の足にかかっていた呪いは解けたようだから、おまえの足で歩いても僕に追いつけるだろう?」
「な――」
慌てて背中から下りると、すぐさま雄日子の腕を掴んで、引っ張った。
「あなたのいうとおりに、下りた。だから、あなたもわたしのいうことを聞け! あの池に近づいちゃだめだ。水しぶきが一滴でも肌にかかったら――。あの水には、絶対にさわってはだめだ!」
「あの池の水に触れたら、どうなるんだ」
雄日子はようやく足を止め、セイレンを振り返って見下ろしている。その顔を見上げて、セイレンは文句をいった。
「たいしたことが起きないなら、さわってやろうって顔をしてるね……。悪いけど、本当にさわってはだめだ。わたしの一族が住む山にも、あの色をした湖があるんだが、そこは、人が罰される場所に使われているよ」
「罰される場所?」
「あの水に触れると、人や獣の身体は溶ける。落ちたら、人も獣も苦しみながら死ぬ。その骸を、湖に棲んでいる山の神が食らうんだ」
「山の神が、骸を食らう?」
「山魚様っていう、魚の姿をした神だ。湖には、毒の香りで気を失った鳥がよく落ちる。そういう鳥や、迷い込んだ獣や、罰される人を、その魚は喰うんだ」
「それが、山の神なのか? 骸を喰うなど、魔物か
「知らないよ。山魚様は大地の神に仕える山の神だって、うちの里じゃ――」
「つまり、それ以上の理由は伝わっていないのだな」
雄日子の目が、桜色の水をたたえる池を向く。
そよと風が吹いて、その頬に黒髪がなびく。
セイレンの髪も、そよ風をはらんですこしふくらんだ。
「いい風だ。ただ、匂いがきついな」
雄日子が苦笑するのを、セイレンは横目でにらんだ。
「匂いの強さは、ここにある毒の強さだ。ふつうの人だったら、とっくに喉が腐って死んでる場所に来てるんだよ? それなのに、あなたは――。ねえ、聞きたかったんだけど、あなたはどうしてここにいられるんだ? 石媛がもっていた珠の話をしていたけど、もしかして石媛は、あなたにその珠を渡した?」
「さあ、どうだろうな。そう怖い顔をするな」
「ちゃんと答えてよ。土雲にとっちゃ大事なことなんだ。わたしにとっても……! あなたが山に来た日、石媛がその珠を失くして、わたしはその罪をかぶって殺されかけた。なのに、石媛はなんにもいわなかったよ。あなたのことだって……」
きゅうに、石媛の泣き顔を思い出した。
ごめんなさい、セイレン。あなたが私の代わりに罰を受けることになるなんて、思わなかったの――。
そういって、石媛はすすり泣いた。
石媛の罪をセイレンにかぶせることを、土雲の里の人は誰ひとりためらわなかった。
隣人も、幼馴染たちも、血がつながった母も。祖母などは、セイレンに罪をかぶせて石媛を守るべしと、みずから里人に命じた。
里の中で、セイレンが罪をかぶるのはおかしいと泣いたのは石媛だけだったので、石媛の涙を見たとき、セイレンはすこしほっとしたのだ。
でも、腹も立った。
石媛は、雄日子の守り人になるべく里を追い出されることになったセイレンを、うらやましがったからだ。
いいなあ、あなたは山を下りられて――。
怒りが、ふつふつと込み上げた。
(どうして気がつかなかったんだろう――。石媛は、山を下りたかったんだ。この男に会いにいきたかったんだ。きっと、石媛は……)
目の前で立つ雄日子は、微笑している。ふだんどおりの穏やかな笑顔だ。
胸のうちの憤りを視線に込めて睨んでも、雄日子の笑顔は崩れない。
「ねえ、石媛となにがあったの? 石媛はわたしの双子の姉だ。血がつながった奴らのなかで、わたしが、ただひとり信じていた相手だ。でも、石媛は、あなたとのことはなにもいわなかった。石媛とあなたはどういう関係なの?」
きっと――考えているとおりなのだ。
なくなった土雲媛の珠は、雄日子の身体の中に入っているにちがいない。
そうでなければ、雄日子が〈待っている山〉に登れるはずがないのだ。
雄日子は、くすっと笑った。
「なにもないとしかいえないな。おまえの姉姫は、僕を見て、大地の神の幻が見えたといったのだ。それから、大地の神の加護が僕にあるようにと、僕に――」
そのときだった。ばしゃあっ! 大きな水音が鳴り、背後で巨大な水柱があがる。
咄嗟に、セイレンは雄日子の手を引いてあとずさりをした。
「水を浴びるな。肌が溶けるぞ!」
桜色の水粒が宙に浮いて、美しい虹をつくっている。その下に、巨大な魚が水面から顔を出していた。
「山魚様だ!」
山魚様と呼ばれる巨大な魚は、硬いうろこで覆われている。
うろこは純白に瑠璃色と桜色が混じった宝貝のような色をしていて、すこし角度がかわるたびに色がかわるので、白い身体は虹をまとっているように見えた。
ばしゃん――。大きな水音を立てて、山魚様はすぐに水の底にもぐっていく。
水面が静まる気配はなく、桜色の池には波が立ち、水粒が舞い、うろこと同じ色をした尾びれや白い角が、ときおり水面に現れた。
「こっちへ!」
池から遠ざかろうと、雄日子の手を引いた。ぎりぎりの場所まで離れてから、水の上と底をいったりきたりする巨大魚の姿を、茫然と見つめた。
「みんなが、〈山魚様の儀〉があるたびに、山魚様が弱ってきたっていってたけど――。これが、弱まる前の――〈待っている山〉にはじめて足を踏み入れた奴が見る山魚様の姿なんだ――」
山魚様と呼ばれる巨大な魚は、ひどく暴れていた。
まるで、縄張りに近づいた敵を警戒する獣のようで、風向きが変わるたびに、桜色の水粒がセイレンたちのほうに飛んでくる。
雄日子が、ぽつりとこぼした。
「これが、おまえたちの神か。ただの気性の荒い魚に見えるが」
「あのねえ」
「それより、僕は、どうしてここに連れてこられたのだろうか。ここで、おまえたちの神に会えばよかったのだろうか」
「会えばって――あなたね、簡単なことみたいにいってるけど、普通の人にはできないことなんだよ? 〈待っている山〉の頂きに登るなんて、土雲の一族で、しかも、その中でも身体が頑丈じゃないとできないことなんだから――!」
「そうだろうが――。でも、僕は、ここに来ればなにかが起きると思っていた。でも、ここに着いてすぐに足の呪いは解けたし、この山から下りる道を探してみせろと、そういうことなのだろうか」
雄日子は淡々といい、そっとあたりを見回す。
二人は崖の上に広がる岩場にいたが、岩場の裏には、人が下りていけそうな坂道が続いている。
「帰り道になりそうな道筋も、ある――。ただ、帰ればいいのか?」
ばしゃん。ばしゃん。
激しい水音を立てながら、山魚様はまだ暴れていた。水面から顔を上げたり、もぐったりを繰り返している。
いつのまにか。水音が落ち着いていた。ぱしゃん、すん――と、まるで水の太鼓を叩くように水音が軽やかになり、同じ速さで繰り返される。
「様子が、おかしい。なに――?」
水音は、楽器が奏でる美しい拍子のようだった。
ふっと蘇ったのは、土雲の里でおこなわれる山頂の儀式、〈山魚様の儀〉。そこでは
いったいなにが起きたのだと、湖の方角に目を戻す。
桜色の湖の中を、山魚様は弧を描くようにしてぐるぐると回っていた。
その桜色の湖は大きかったが、頂きに広がる白い岩場の中にあると、やたらと小さく見える。
そして、白い岩場は、どこまでも続く虚空に見えた。その中央にある湖は桜色をしたふしぎな雲に見え、その中を泳ぐ山魚様は、雲をとおって青空が広がる天上と地上を行き来する白い月に見えた。
これは、幻だ――。
いや、見間違いだ――。
そんなふうに思って目が驚くほど、地面に立っていることを忘れていく気分だ。ふしぎな空の上に浮いている気分で、いったい自分がどこにいるのかが、わからなくなる。
雄日子の吐息が、耳に降ってくる。
「ここは――?」
そのまま二人で、山頂の美しい光景をぼんやりと眺めた。
あるとき、大地の彼方から地響きに似た奇妙な音をきいた。
はじめは、太鼓の音かと思った。
細かく震えながら拍子をとるような揺れは心地よく、山魚様が奏でる美しい水音に似ていた。
その揺れに言葉が乗っていると気づいたのは、しばらく経ってからだった。
我が子。我が風箱をたずさえたいとしい子、土雲の
よう来た。
この地を、清めよ。我の代わりに、この大地を仕上げておくれ。
「えっ?」
耳を疑った。でも、たしかに言葉をきいた。
声は、洞窟の中で反響しているような奇妙な響き方をしていて、どこから来る声かわからなかった。
ほう――。
なくなった土雲の珠は、見つかったのだな。よかった。
夫と、二人できてくれたのか。
聖なる祝言に、
二人で、この地をつくりあげておくれ。
「夫?」
咄嗟に、雄日子を振り仰ぐ。
雄日子は、ぼんやりと目の前の光景を眺めていた。
その横顔を見たとき、セイレンは痛烈に感じた。きこえてくるふしぎな声の主は、自分を別の誰かと勘違いしているのだ。
「ちがう――わたしは、土雲媛じゃない」
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