雲神様の箱 (3)

 人の気配のない夜の道に、三人の足音が鈍く響いた。


 藍十あいとおは周りに目を光らせていたが、しだいに走る速さをゆるめていき、立ち止まった。


「ここから森に逃げ込みましょう。いま、街道の周りの土には苔が覆っているので、踏んでしまえば足跡がつきます。でも、ここなら、その苔が生えたぬかるみが一番狭くなっているはずです。跳ぼうとすれば、足跡をつけずに跳べます」


(苔――?)


 炎の赤い光が射す背後は明るかったが、その分足元は暗かった。明かりの影になっていたので、森の奥も暗く、走りながら地面に生えている草まで見分けるのは難しい。


 藍十にいわれてはじめて、セイレンは闇に沈んだ森の地面に目を凝らしてみたが、たしかに地面は真っ黒く見えて、よく見ればそこだけ草が生えていないとわかる。


「おれが先に跳んで、幅を調べます」


 いうなり、藍十は力強い跳躍で街道から森へ向かって跳び、ふわりと着地した。かさりと草が踏まれた音がして、そのあと、藍十はうずくまり、丁寧に足元を調べた。そして、ある場所に自分の手のひらを置いた。


「ここが目印です。ここから森側には、円葉草が群れています。ここから先なら、踏んでも足跡がつきません。ここまで跳んでください」


 説明を終えると、立ちあがって雄日子へ向かって腕を差し出す。


「どうぞ。万が一の時は、おれが支えます。跳んでください」


「わかった」


 雄日子はうなずき、すぐに土を蹴って藍十のそばまで跳んでいく。次に藍十はセイレンを呼んだ。


「セイレン、おまえも来い。おれの手を使っていいから、絶対に苔に足をつけるな」


「わかった――」


 藍十が立っている場所は、街道からそう離れていなかった。でも、藍十が手を貸そうというように、ひと跳びで跳ぶにはうまくいくかどうかが不安になる距離だ。


 でも、セイレンは跳躍に自信があった。むしろ不安だったのは、藍十が「足跡をつけるな」といった意味がわからなかったことや、赤大や日鷹たちを置き去りにするような真似をして、逃げていることだ。


 いま、いったいなにが起きているのか。


 「雄日子様を守れ」と何度もいわれたが、その意味はいったいなんなのか。


 いったいどうすれば、雄日子を守れるのか。


 いまはただ、闇雲に雄日子の盾になるしかできない気がして――。


 結局、あっさりと藍十のそばまで跳ぶことができたので、藍十の手を借りることはなかった。


「いいぞ、セイレン。いくぞ」


 藍十はすぐに森の奥へ走り込もうとした。しかし、その足を止めて、人差し指を口もとに立てた。


「しっ」


 静かにしろとの合図だ。


 さらさら、さや――。暗い森の中には、風に吹かれて揺れる木々の葉の音や、夜に鳴く虫やとかげの鳴き声が小さく響いている。


 虫の声は多少控えめだった。いや、とても静かだった。


 そうかと思えば、ばさばさばさっと、後ろのほうから大きな羽音がきこえる。それは、賀茂の王宮――これまで三人が駆けてきた方角だった。


「ちっ」


 遠ざかった賀茂の宮は、赤い炎で飾られている。


 ときおりびゅうと吹く風の音に、別の足音が混じり始めていた。大きなものが土を蹴る音――馬の蹄の音だ。


 藍十は一度、目をつむった。


「馬の駆け音が――二頭、いや、三頭。人の足音は……十以上。小勢一つ分といったところ。追手か――。おれたちが外に逃げると踏んで、待ち伏せてやがったんだ。いや、ちがうな。見張られてた?」


 藍十は、それ以上森の奥へいくのをやめてしまった。


「おれが道に戻って食いとめる。セイレン、おまえは雄日子様を連れて森の奥へ逃げろ。いまなら足音を立ててもどうにかなるから、全速力で駆けろ。森の奥までいったら、できるだけ身をひそめて朝まで隠れろ。明るくなったら、赤大か日鷹が探しに来るから、それまで動くな――」


「わたしが雄日子と? おまえがいけ。ここは、わたしが食いとめる!」


「なにをいってんだ、セイレン。こんなときに逆らうな!」


 藍十は怒った。でも、セイレンも頭に血がのぼっていた。


「おかしいことをいってるのはおまえのほうだ! わたしよりおまえのほうが雄日子を守るのに慣れてるんだろう? 足跡をつけるなとか、踏んでもいい地面がどれとか、わたしは藍十みたいにはわからないよ。おまえが雄日子といけ!」


 癖のように、風向きを探した。


 頬を撫でていく夜風の向きをたしかめると、セイレンの声が冷えた。


「ここは、奴らの風上だ。土雲つちぐもの一族を風上に置くなど、殺してくれといっているようなものだ」


 風は、セイレンたちがいるほうから、賀茂の王宮の方角へ向かって吹いていた。


 セイレンはもう一度跳んで、街道へ戻ってしまった。


 道の真ん中に両足をひらいて立つと、腕に巻いた武具帯を解き、中から薬の包みを一つつまみとる。それを、胸元に近づけた。


 セイレンの胸元には、首飾りがさがっている。紐でくくられた、箱の形をした石。土雲の一族が使う秘具で、〈雲神様の箱〉と呼ばれている。


 慣れた手つきで薬包みの中身を〈雲神様の箱〉の中に入れてしまうと、セイレンはそれを人差し指と親指でつまんで、口元へ運ぶ。


 それは、土雲の一族では、人に向かってやってはいけないと教わる仕草だ。その仕草そのものが、「おまえを殺してやる」という意味をもつからだ。


「藍十、すこし進んで、わたしがいる場所から離れろ。それから、絶対にわたしがいる場所よりも風下にいくな。もしも急に風の向きが変わったら、地面に伏せろ」


「……わかった――」


 藍十はそれ以上いわなかった。


「いきましょう、雄日子様。セイレンがなにかを仕掛けるようです」


 藍十は、追手から雄日子を守る盾として雄日子の前に陣取っていた。でも、雄日子は藍十をよけて前へ出ようとする。


「どいてくれ、藍十。僕はセイレンが戦うところを見たい」


「しかし――」


「見せてくれ」


 雄日子は譲ろうとせず、かろうじて伸ばした藍十の腕越しに、街道の真ん中でたった一人で立ち、敵を待ちうけるセイレンを見つめ続けた。


 その頃、セイレンの耳には、背後のやり取りはもう入っていなかった。


 すう、と息を吸う。


 それは、最後の支度だ。目を細めて、鼻や耳、肌、すべての感覚を研ぎ澄ます。


 腕をかすめていく夜半の風――それは、春の夜にふさわしくすこし湿っている。森にただよう木の葉の香り――別段珍しい香りは混じっておらず、とくに薬の調合を気にかける場所ではない。いや、いま〈雲神様の箱〉の中にある薬は、一族が扱う薬のなかでも最も強い力をもつもの。これを狂わせるような強い薬など、〈待っている山〉の下の森にはないはずだ。


 なにも気にかけることはない。大丈夫だ。


 セイレンは、唇の端をにやりと吊り上げた。


 しだいに、荒々しい足音が近づいてくる。


 街道の奥には、赤く染まった賀茂の宮が見えていた。夜空も森も赤い光を浴びていたが、とくに赤く見えたのは、賀茂の宮まで遮るものがない道の上だった。

 

 赤い光の中に、黒い馬影が浮かび上がる。


 馬影は三つあって、馬上にまたがる武人は剣を抜いていた。


 先駆けをする騎兵を追って、二十人ほどが追いかけてくる。


 大勢が地面を駆ける足音が、どろどろどろ……と地響きのように響きはじめて、距離が狭まるたびに大きくなる。


 列の先頭で、剣を掲げた武人が大声を上げた。


「雄日子を見つけた。守りは二人、男は一人だけだ。狙いは雄日子ただ一人。首をとれ!」


 砂煙をあげて近づいてくる武人の群れに向かい合っても、セイレンに脅えはなかった。心も静かだ。


 〈雲神様の箱〉をどう使うか。


 土雲の一族最高の薬を、どう夜風に乗せるか。


 雄日子を追ってきた男たちをどう殺すか――。それしか、頭になかった。


 背後から、ひゅっと鋭い風が吹いた。そのとき。


(いまだ)


 セイレンは〈雲神様の箱〉に口をつけ、鋭く息を吹き込む。石細工の中に無数にあけられた細い穴をとおって、吹かれた息は石の箱の中で薬と混ざり、別の穴をとおって外に出ていく。


 目には見えない霧になって夜風に散ったその薬は、風と同じ速さで武人の群れに襲いかかった。


 馬上で剣を掲げていた武人は白目をむき、その場で後ろへ倒れていく。落馬して、どさっと土の上に転げ落ち、馬がいななく。すぐ後ろを追っていた武人が、掲げていた剣を下ろした。


「どうなさった――」


 その武人も、前のめりになって地面に落ちていく。その背後にいた騎兵も、同じように落馬した。


 先駆をした騎馬兵が次々と倒れていくので、背後を追い掛ける歩兵は足をとめた。


「敵襲か、弓か?」


 地響きのような駆け音が急におさまり、歩兵は刺客が潜んでいそうな暗がりに目を光らせはじめる。でも、そう長い間ではない。


 すぐに、一人、また一人と白目をむいて倒れていき、道の上に折り重なった。


 あっという間の出来事だった。


 十も数えないうちに、指揮官も歩兵も次々に倒れていき、小勢の中で残ったのは、列の最後のほうにいた二人だけになった。


「どうなってるんだ、呪いか?」


 二人の武人は腰が引けたようにそれ以上進もうとせず、後ずさりをはじめた。


「退くんだ。大臣にお知らせせねば――」


「逃がすか」


 藍十は追いかけようとした。でも、セイレンが止める。


「薬の力を消すまで、ここから先へいってはだめだ。わたしがする」


 〈雲神様の箱〉から手を放すと、セイレンは腰から吹き矢を引き抜いて、二人の男の背中を目がけて、ひゅっ、ひゅっと素早く吹いた。


 細い吹き矢が命中すると、すぐに男たちはその場で膝をつき、がくんと頭を垂れる。


 そこまで終わると、セイレンはもう一度〈雲神様の箱〉を手にとって、中の薬を入れ替えた。


 ふたたび口に当てて、ふうっと息を吹きいれる。


 二つ目の薬を夜風に乗せてから、セイレンは後ろにいた藍十と雄日子を振り返った。


「済んだよ。追手はみんな死んだ」


「あ、ああ――」


 藍十は、月の青白い光を浴びて茫然と立っていた。


 さっきまではとても頼もしかったのに、急に力が抜けたような顔をするので、セイレンは笑った。


「どうしたんだ、藍十。化け物にでも出会ったような顔をしているぞ。なにか恐ろしいものでも見たのか?」


 なぜ藍十がそんなに脅えているのか、セイレンはわからなかった。


 それで、藍十が見ていたものを見ようと、自分も振り返ってみた。すると、そこには、薄気味の悪い光景があった。


 赤い炎に照らされた夜道の上に、武人が大勢倒れて、黒い影になっている。


 ある者は膝をつき、ある者は誰かの上に覆いかぶさり――。数にして、二十を超える。


 倒れているのは、人だけではなかった。武人を乗せて駆けていた馬すら、その巨体を地面に横たえて震えている。


 それは、とても奇妙な光景だった。


 まるで、恐ろしい力をもつ神が、その一団の上をとおって酷い悪さをした後のような――。


 セイレンは、目をしばたかせた。


 急に怖くなった。膝が、かくかくと震えはじめた。


(わたしは、いま、間違えたか? どうしても追い払わなければいけない相手がきたとき、〈雲神様の箱〉を使うのは土雲の一族の決まりだ。使ったのは、山魚様やまうおさまのうろこの薬。教えてもらったとおりにやったから、間違いはしていないはずだ。でも――)


 セイレンは、幼い頃から教えられていたとおりのことをしただけだった。


 殺したいほどの相手にこれまで出会ったことがなかったので、同じことを誰かにしたことはなかったけれど、「今だ」と思ったいま、おこなうのにためらいはなかった。


 道の上に山をつくる亡骸を見つめて、藍十がぽつりといった。


「この数の追手を一瞬で片づけるなんて――これが、土雲の一族――。凄い」


「えっ」


 畏怖とともに「土雲の一族」と故郷の名を出されるので、驚いた。


 そんなに珍しい真似をした覚えはなかった。


 ただ、一族で、幼い頃から聞かされたとおりのことをやっただけで――。


 急に、気が遠くなった。


 一族の掟のことも思い出した。


 土雲の一族には掟がたくさんあって、一族の者は必ずそれを守らなければいけない。


 その中の一つが、「一族の技を、一族以外の者に見せてはいけない」だ。


 気が遠のいていく気がした。とてもまずいことをしでかした気がして、たまらなかった。


(――そうか、〈雲神様の箱〉は、山の下の人に見せてはいけなかったんだ。わたしたちの身体は強いから、わたしたちの毒は〈待っている山〉の下で暮らす人にとっては猛毒なんだ。人が一息で死ぬようなものを、わたしはこんなに簡単に扱って……)


 喉が詰まって、息が思うようにできなくなった。


 目元が熱くなり、胸の中で先に慟哭がはじまったのではないかというほど、身体の内側が疼き始めた。


(どうしよう、とんでもないことをした。だから、わたしは、不吉なんだ。だから――)



 おまえは不吉な災いの子。

 災いをもたらす子――。



 双子の妹だから不吉だと、これまで酷い扱いを受けてきた記憶がよみがえった。


 「そんなことはない。おまえたちのほうこそ災いだ!」と、これまで声高に抗っていた理由が、思い出せなくなった。


 仕方がない。だって、わたしはこんなにも不吉なんだもの――と。


 こみあげた熱い涙で、目の前の景色が潤み始めた。


 そのとき。ぽんと肩に乗った大きな手のひらがある。


 振り向くと、そばに雄日子が立っていた。


「どうしたんだ、顔色が悪いぞ?」


 雄日子は、穏やかに微笑んでいる。


 その優しい笑顔に、助けられたと思った。


 でも、尋ねられた言葉には納得がいかなかった。


 なにがあったかは、目の前の恐ろしい光景を見ればわかるはずだ。


 涙を浮かべた目で、じっと見つめ返す。


 雄日子の顔に浮かんだ優しい笑みは、崩れなかった。


「おまえは、僕を守ったのではないか。おまえのおかげで、僕も藍十も傷つかなかった。多勢に無勢といわれても仕方のないこのようなときに僕を守るなど、おまえは英雄と呼ばれる女になったんだ。――助けてくれてありがとう」


 礼をいわれたが、果たして、礼をいわれるようなことをしたのか。


 それも納得がいかなかったが、雄日子にまっすぐ見つめられると、唇が震えるだけで、問いは声にならなかった。


 雄日子は、ぷっと笑った。


「なんだ、おどおどして。僕は、威勢のいいセイレンが好きなのだ。どうすれば前のおまえに戻る? ――そうだ。僕の妻にしてやろうか。それでおまえの気が晴れるなら、たやすいことだ。夫のためにすることなら、どんなことであれ罪の意識は薄れよう?」


 雄日子はのんびりと笑っている。


 でも、セイレンはその言葉の意味をよく知らなかった。


「罪? 夫? ――妻ってなんだ」


 尋ねると、雄日子は「おまえはそんなことも知らんのか」と呆れて、目を細めた。


「妻というのは、男にとっての特別な女のことだ。もしもおまえが僕の妻になったら、今よりもっと僕の特別な相手になる」


 なんとなく、妙な話だと、セイレンは眉をひそめた。


 前に、出雲の邪術師という男に、身体がおかしくなる呪いをかけられたときのことを思い出した。


「なんだ、それは……またわたしに呪いをかけるのか」


「妻が、呪いか。そんなふうにいう娘など、おまえくらいだ。でも、割に的を射ているのかもな。そうだな、たしかに、妻とは、人の世にある呪いのようなものかもしれない。でも、それが呪いの一つだとしても、夫婦になる奴らはおまえの里にもいただろう? それも知らんのか」


 雄日子は苦笑している。


「まあいい。心が決まったらいつでも来い。――さて、いまのうちにここを離れて森に潜もう。赤大たちも、手が空けば僕たちを探しにくるだろうし」


 そういって、みずから森の奥へ入っていこうとする。


 藍十は慌てて追い掛け、先導を務めるべく雄日子の前に回った。


 いまのように余裕のない逃避行のさなかに、無駄口を叩くようなことはあってはならないと、藍十はよく知っていた。


 でも、独り言に似た問いかけを雄日子へするのは、止められなかった。


「雄日子様、いまの話は本当ですか。セイレンを妻に――? なんというか、雄日子様は心が広すぎると思うのですが――」




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