雲神様の箱 (2)
さっきまで鼻先が触れ合いそうなほど近い場所にあった
遠ざかっていくのを目で追いつつ、咄嗟に両手を浮かせて、頬を包み込んだ。いつのまにか、顔が熱くて仕方がなくなっていた。
「いまのはなんだったんだ」
よくわからないまま翻弄された気分で、とても癪だった。
それに、尋ねはしたが、ふしぎなことに、さっきほどくわしく知りたいとはもう思えなかった。
雄日子は、自分の腕で頭の下に枕をつくって、小さなあくびをしている。
「眠気が飛んだろう?」
「ばかやろう」
「口が悪いな。しっかり守ってくれよ。――おやすみ」
すぐに、敷布の上に横たわった雄日子のまぶたが下りていく。もう目を開けるつもりはないようで、すぐに、すう、すう……とゆっくりとした息の音がきこえてくる。
まぶたを閉じてからわりにすぐだったので、セイレンは驚いた。
(寝るの、早いな)
セイレンの膝元で、雄日子は眠っていた。
眠る雄日子のそばにいるのも、雄日子の寝顔を見下ろすのも、ふしぎな気分だった。
思えば、いつもセイレンは雄日子を見上げていたのだ。
(眠気が飛んだろうって――ああ、目が覚めたよ。おまえが妙な真似をするから)
なぜか、「おまえは子供だな」と散々からかわれたような気分だ。
(なんだよ、もう――)
視線の先では、雄日子がまぶたを閉じている。眠っているから真顔をしているが、そういえば、雄日子の真顔を見るのは久しぶりな気がした。
(この人はいつも笑っているから――)
雄日子は普段、微笑んでいることが多かった。
(もしかして、この人がほっとしているときの顔って、笑顔じゃなくて真顔なのかな)
ぼんやりと雄日子の寝顔を見下ろしながら、もっと重要なことに気づいた。
雄日子はとても用心深い男だ。セイレンをそばに置くのに、逆らえないように邪術で操ろうとしたほど。
でもいま、雄日子はセイレンの膝元で掛け布にくるまれて、すう、すうと寝息を立てている。とても無防備な状態だ。
(わたしのことを信じていないと、この人は眠らないだろうに――ちゃんと、信じてくれているんだ)
そう思うなり、涙が込み上げそうになった。
ふとよみがえったのは、故郷の里での出来事だ。
山の湖で殺されかけたとき――一族の男たちからも、血がつながった身内からも、「双子の姉のために死ね」と、命じられた。
いまは、「僕を守れ」と命じられている。
同じように無理強いされることであっても、「消えろ」といわれるのと、「ここにいて、助けてくれ」といわれるのとは、ここまで違うものなのか。
(あんな里――わたしはここにいて、ここにいるやつらと暮らしたい。雄日子はたぶんすごいやつだから、わたしも藍十たちみたいに、この男を守りたい。ここに来てよかったんだ)
そんなふうに思うと、眠気はさらに遠のいていった。
寝息に合わせて上下する胸元や、閉じた目元を見つめ続けて、セイレンは吹き矢を手にしたままじっと座っていた。
ふと、足音を聞きつける。館に近づいてくるようで、庭の土を踏み、館の入口に続く
足音が消えた後、そうっと薦が揺れ動くので、セイレンは吹き矢を口元にかまえて相手がくるのを待った。
薦は、わずかに隙間があいただけだった。
「セイレン、起きてるか。藍十だ」
眠る雄日子を起こしてはいけないと、セイレンは立ちあがって薦に近づいた。
「ああ、起きてるよ」
「入ってもいいか」
「どうぞ」
「本当か?」
「どうしたんだ。入れよ」
「――いや、その、服は着てるよな」
「はあ? ちんたらしてないで、さっさと入って来いよ。守りの交代だろ?」
みずから薦に手をかけて、開けてやる。
藍十は闇を背にして立っていたが、館の入口の両側に松明が焚かれていたので、ちょうど藍十がいる場所だけてらてらと明るく照らされている。
藍十はなかなか目を合わせようとせず、まずセイレンの後ろを覗いた。
寝具に横たわって眠る主の寝姿を見届けると、藍十は手のひらで額を押さえてうなだれた。
「おれってば、なんていう妄想を……」
「いったいなんだ。さっきから、雄日子もおまえもよくわからない話ばかりをして――」
藍十は「そりゃあ……」と口ごもってから、わざとらしい咳をした。
「いやいや、あえて話すようなことじゃない。――セイレン、雄日子様の守りを代わるよ。悪いな、先に少し横にならせてもらった。おまえも休め」
「助かるよ」
ようやくか、とセイレンは息をついた。
「それで、どこで寝ればいい。おまえはいままでどこにいたんだ」
「向こうの館だよ。おれたち、武人にあてられた館だ。セイレンはここを――雄日子様の館を使わせてもらってもいいんじゃないかな。向こうは、入るだけ入って雑魚寝をしているから満杯だし、なにかあったときに手を貸してもらえるとありがたいし。もうすぐ、角鹿様とおやっさんもここにくるはずだよ。さっき見たら、まだ二人で話していたから……」
「混んでるほうにいくよ。わたしは角鹿が苦手なんだ。一緒にいたくない」
「角鹿様が? 任せるよ」
藍十はぷっと笑った。
「じゃあ、おやすみ」と手と手をぱちんと合わせて、薦のすきまをくぐって階を下りていく。
でも、庭の土を踏むことはできなかった。
はっと顔を上げて、周りを見回す。
下りた段をまた登って、藍十の隣へ戻る。雄日子が眠る館は床が高くつくられていたので、地べたに立つより、遠い場所まで見通すことができた。
雄日子が寝所として使う館の周りには広い庭があり、暗闇があった。その向こうに、松明の灯かりが点々と見える。
灯かりがきれいに二つずつ並んでいるところが五つほどあったが、それは、扉の両脇に置かれた松明の灯かりだ。その灯かりの数だけ扉があり、その扉を入口とする大きな館が建っている。
扉の場所を示して輝く火明かりとは別に、すこし大きな火灯かりが見える。方角からすると、宮の入口、宮門のある場所だ。
「くさい」
「くさい? なんのことだよ」
真夜中とはいえ、
セイレンは鼻を動かした。
「藍十、おかしい。くさい。人が大勢いる。門の外だ。人くさい」
「人くさい? 門の外だと?」
藍十は目を細めて、真夜中の闇に耳を澄ました。
夜を好む虫や鳥の声が、ときおり、きい、けえんと響いている。
そのとき、ばさばさっという羽音をきく。はっと顔を上げた藍十の目が向いた先で、夜空にはばたいていく鳥の群れがあった。地上で休んでいたところを、なにかに驚いて空へと逃げ出したのだ。
「鳥が――獣に驚かされたか、それとも、なにかがいるのか――。用心に越したことはないな。――おやっさんを呼んでくる。セイレン、雄日子様を起こしてくれ」
「わかった」
階を登り、館の中に駆けこんだ。
「雄日子、宮門の外の様子がおかしい。一応、支度を――」
呼びかけるより先に、雄日子は起きあがって剣を手にしていた。
「わかった」
セイレンが雄日子と二人で館の外に出る頃には、すでに、前の庭を横切って駆けてくる赤大と角鹿、藍十の姿があった。その向こうでは、雑魚寝をしていた館から、人影がわらわらと飛び出してくる。
「藍十、
見慣れた顔がないので尋ねると、駆けてきた藍十は、息を整えながらいう。
「宮門だ。様子を見にいった。もしも奇妙なことが起きていたなら、もうすぐ……」
藍十は宮門の方角を気にしていた。いや、藍十だけでなく赤大や雄日子も、まばたきもせずに同じ方角を向いている。
夜の空に、白い煙が立った。夜の闇に白の染め具で一筋の線を描いたようで、細い煙がまっすぐ上へとのぼっていく。
「あれは……」
「
大勢が駆ける足音が響いていた。館を飛び出した仲間の武人が、主のもとを目指して走ってくる。
そこに、ひゅんっと音が鳴る。弦がしなる音で、軽いものが土に突き刺さる音もする。
「弓矢だ。雄日子様を奥へ――」
赤大は、みずからが盾になって雄日子を館側へと押しやった。
「走れ! 狙われるぞ、早くこい! なんてこった。この宮の奴もぐるなんだ。刺客、追手どころじゃねえ。ここへ招かれたのが、そもそも罠だったんだ。――おやっさん、応戦する」
「ああ、藍十。火を使え」
藍十はすぐさま松明のそばに駆け、帯に下がる小袋から小石のようなものを取り出して火にかざす。すると、面白いように火がついて、燃え始めた。
「――油?」
セイレンにこたえたのは、赤大。
「松やにだ。木の蜜で、油と同じように使える。――藍十、館を燃やして炎の壁にしろ。退路をつくるなら、館の向こう側だ。藍十、おまえは雄日子様をお連れして先に出ろ。ここは私がやる」
「わかった」
藍十が、火が燃え移った松やにを、雄日子が使っていた館の中に放り投げる。
赤大は次にセイレンを向いた。
「セイレン、おまえも藍十といけ」
「わたしも? いいのか」
尋ね返したセイレンを、赤大は真顔で見つめている。
赤大の目は、セイレンを睨みつけるようで、藍十や日鷹に向けた厳しい目と同じだった。
「いいのか、じゃない。おまえも雄日子様の守り人だろう? 命をなげうっても雄日子様を守れ。任せたぞ」
いうだけいうと、赤大はセイレンに背を向ける。そこには、ときおり飛んでくる矢から身を庇いつつ、高島の武人が集まってきている。数は、百人。
赤大は、部下に命令を下した。
「雄日子様に矢を向けるなど、恥を知らぬ連中だ。火を使って応戦して、この宮を灰にしてやれ。焼き討ちにしろ。急ぎ、陣を組め。双羽の陣だ」
「はっ」
赤大の言葉が終わるなり、武人たちはばらばらと動き始める。ある者は大弓を手に館の前へいき、ある者は後方へ下がり――。
百人の動きは、それぞれがばらばらで、どれも素早かった。
セイレンは、なかば見惚れるように立っていた。
(みんなの動きが、流れるようできれい――。わたしは、こいつらの仲間……なんだ?)
赤大から命じられたり、自分を取り巻く仲間の動きを目にしたりするのが、ふと頭が火照るほど恍惚としたり、気が遠くなったりするようで――。
ぼんやりしていると、叱声が飛んだ。藍十だ。
「セイレン、なにしてんだ、いくぞ。こいつらを壁にして、そのまま闇に紛れる」
藍十は雄日子のそばで壁になるように立っていた。
そうだ。ぼんやりしている暇なんかない。
わたしも、こいつらみたいに動かなくちゃ――。
セイレンはうなずき、藍十の動きを真似ながら後についた。
赤く燃えはじめた館の裏へ回って、王宮を囲う木壁をよじ登る。
「セイレン、おまえは身が軽いだろ。先にいって周りを見張れ。おれは雄日子様が登るのを助ける」
「わかった」
木壁は、男の背丈ほどあった。でも、セイレンにとってはそれほど高いものではない。
思い切り飛びあがって縁をつかみ、脚を跳ねあげて木壁の頂きを飛び越える。
壁の向こう側には道があった。昼間にセイレンたちが進んできた道だ。
すぐに雄日子が木壁を乗り越えてきて、そのすぐ後に藍十もひょいと飛び越えてくる。
「この道はあぶない。森に紛れます。いきましょう、雄日子様」
藍十はそういい、みずから先頭に立って駆けだした。
「セイレン、おれとおまえで雄日子様を囲んで進む。おまえは背後を見張れ」
「わかった」
三人で思い切り駆けたので、賀茂の王宮はすぐに背後に遠ざかる。
藍十が放った火は燃え広がり、暗い色の天をあかあかと照らしていた。
あそこに、まだ日鷹や赤大たちがいるのか――。
そう思うと、不安になった。
「藍十、赤大たちはどうなるんだ。あいつらはちゃんと逃げられるのか」
「知るか。おやっさんたちのことなんか考えるな」
「どうして――赤大はあなたの師匠だろう? 日鷹だって……」
いい返すと、藍十は鬱陶しそうに「黙れ」という。
「おれたちは、雄日子様の守り人だ。役目は、雄日子様ただお一人を守ること。ほかの誰がどうなろうが知るもんか。それに、おやっさんもほかの奴らも、どうにかして生き延びるから、いいかげん無駄口をやめろ。気が散る」
いつかと同じように、藍十は鋭い気配を帯びていた。
「戦の気配があると笑えなくなるんだ」と、前に自分でいっていたとおりに――。
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