雲神様の箱 (1)

 山のふもとに広がる草原を抜けてしばらくいくと、田畑が目立つようになり、やがて、茅葺屋根の集落が姿を現す。


 賀茂かもの王からの使者が案内したのは、その先。


「宮殿は、森の中にございます」


 森の一角に、大きな屋根が覗いていた。その場所へと整えられた立派な道に沿って進んでいくと、真正面に王宮があらわれる。宮殿は、大きさそのものも、屋根の形も、セイレンの記憶にある高島の宮殿とは違っていた。


「なあ、藍十あいとお。王宮っていっても、けっこう見た目はばらばらなんだな。雄日子おひこが住んでた館とは屋根の形がすこし違うし、屋根だけじゃなくて、門も、道も――」


「そりゃあ、建てたやつが違ったら形も変わるだろ」


「――そんなもんなんだ? ここは、賀茂っていう国で一番偉い男が住んでいる宮、なんだっけ」


「ああ、そうだ。主の名は乙訓おとくに


 藍十の答えは、いつになくぶっきらぼう。顔は前を向いたままで、話しているのに目も合わせようとしない。


「――怖い顔だな」


「考えてるんだ。もしも、この宮で賊に襲われることになったら、賊がどこから来るかとか、どこから外へ逃げられるか、とか――。まず頭に入れておかないと……」


「……なるほど。狩りのときもそうだ。獣が逃げ込むならどこかとか、不意打ちを食らわせるならどこに潜んでいればいいかとか、そういうことは、仕掛ける前にたしかめておくよ」


「話が早いな。――館の位置はだいたい覚えた。いこう、セイレン。日鷹ひたかと交代しないと」


「交代?」


「日鷹も、宮の配置を覚えるから――。そのあいだは、おれが雄日子様をおそばで守る」


 日鷹の姿を探してみると、日鷹はすこし離れた場所にいた。


 賀茂の王宮に辿りつくと、雄日子は、休み処として館を案内されている。


 日鷹はその館の真ん前にいて、きざはしに腰かけていた。


 藍十が日鷹のほうを向いたとき、日鷹も藍十を見ていて、目が合うと、唇の端をあげて笑う。


 すれ違う時に二人が交わした会話は、短かった。


「もうじき、雄日子様は賀茂王がひらく宴に呼ばれることになっている。そっちは任せた。俺は外にいる」


「わかった」


 藍十も日鷹も、互いに近寄りはしたが、足を止めることなく別々の方向へ歩くので、すぐに遠ざかる。


 藍十は、雄日子が休んでいる館の前――ちょうど、さっきまで日鷹がいたところに腰を下ろすので、セイレンは感想をいった。


「同じ場所に、同じように座って――いつのまにか、日鷹と藍十が入れ替わったみたいだね」


「ここが一番、周りがよく見える場所だからだ。一番いい場所で雄日子様を守ろうとしたら、誰がやってもたいてい同じ場所で守ることになるよ」


「ふうん――。こういうのはいつものことなのか? 慣れているみたいだな」


「ああ、いつものことだ。慣れているよ。――襲われるのも、裏切られるのもな」


「裏切られるのも?」


「ああ、そうだ。雄日子様を狙うやつらは、汚い手を使うやつが多いんだ。だから、どれだけ警戒しても、しすぎることはないんだ」


 藍十は、ほとんどセイレンと顔を合わせなかった。鋭い気配を帯びていて、いつもの気さくな印象は消えている。


「なんだか、藍十――人が変わったみたいだね」


 セイレンが苦笑すると、藍十はようやく顔を上げて、セイレンと目を合わせた。それから、困ったように笑った。


「ああ、日鷹にもよくいわれるよ。ぴりぴりしてるだろ? おれ、戦の気配があるところでは、ほとんど笑えなくなるんだ」


「そんな感じだね。それだけ、雄日子の守り人っていうのがたいへんな役目なんだろうな。――手伝うよ。二人で見ていれば、それだけ隙は減るだろう」


 セイレンも、藍十の隣に腰を下ろすことにした。






 やがて、宴というものがはじまった。


「我が主の館はこちらでございます」


 案内役になった男に先駆をされて、雄日子と角鹿つぬが、そして、赤大と、その後ろに藍十、セイレンがついた。


 時は夕刻。夕焼けの茜空を背にした賀茂の宮は、葡萄色の帳に包まれはじめて、大きな屋根は淡い影になっている。


 先に夜が訪れた東の方角から吹いてくる風は冷たく、庭を横切っていくセイレンたちの足元をするりと通り抜けていく。


 案内された館で待っていたのは、乙訓という名の初老の爺だった。


「高島の太子、雄日子様。ようこそいらっしゃいました。さあ、どうぞ中へ」


 賀茂の主、乙訓は、みずから立ち上がって雄日子を招き入れる。


 そして、雄日子を館の奥の席に座らせると、自分はその前であぐらをかき、頭を下げた。


「はじめてお目にかかります。賀茂豪族の主、乙訓おとくにと申します」


「高島と高向の太子、雄日子です。手厚い出迎えに感謝します」


 雄日子は乙訓にうなずき、話を続けた。


「それにしても、よく僕が旅をしているとお気づきになりましたね。お忍びの旅のつもりでしたので、僕がくにを出たことは、高島の者以外は知らないと思っていました。遠くのことを見ることができる呪術でも使えれば、別でしょうが――」


 ゆっくりと尋ねる雄日子へ、乙訓という爺は、はははと軽快に笑った。


「呪術など、私には使えません。実は私は、河内かわち馬飼うまかい荒籠あらこと仲良くさせていただいています。あなたの話は、彼から聞いたのです」


「荒籠から――?」


「ええ。彼は、商いを助けて諸国を行き来している男だから、賀茂へ訪れるときには必ずこの宮に寄って異国の話を聞かせろと、きつくいってあるのです。あの男から諸国の珍しい話をきくのが、私にとってのなによりの楽しみでしてね」


「なるほど――では、僕のこと以外では、たとえばどんなお話をなさるのですか」


「なかでも、飛鳥の話をきくのは、楽しいですな」


「ほう、飛鳥――大王おおきみが居ます都ですね」


「ええ。いまや、腐りきっていますがね。その腐り具合をきくのは、とても面白い」


「腐り具合とは、それはまた……。ここが王都から遠く離れた地とはいえ、大王のことを悪くいってはいけませんよ」


「なにをおっしゃいます。飛鳥の悪い噂なら、あなた様もご存じでしょう。平群真鳥へぐりのまとりという男が、宮廷を牛耳っているようです。大臣の位を使って、大王とその母君、春日姫に取り入っている男です。――あなたは、その男をご存じですか」


「――名前だけは」


「わしは、よく知っていますよ。雄略武王に気に入られて宮廷に入った男ですが、逆らってはいけない相手を見定める力だけに長けた腰抜けで、新しい策を思いつく能などない、どうしようもない小物です。あんな男に、大国の政治がつとまるものか」


 乙訓は忌々しげにいった。


「もはや、飛鳥は腐っている。このままでは、かつて雄略武王が築きあげたこの国の基盤が滅びゆくだけだ。――あの大臣を倒して、あなた様が大王になるべきです。知っていますよ。あなた様が、高島と高向、そして、さまざまな地方豪族の後押しを受けて、大王の座を狙っていることを――。私にも、その手伝いをさせていただきたいのです」


 乙訓は笑っていた。その目を見つめながら、雄日子は苦笑して、ゆっくりこたえた。


「幼い頃のことです。僕は、一度だけ雄略武王に会ったことがあります。たしか、高向にいらっしゃったときだったと思います。そのときに見た、雄略武王の凛とした横顔はいまもよく覚えています。大王というのはとても強い男なのだと、子供ながらに恐れました。……僕を大王にしたいと願っている者がいることは、僕も知っています。でも、僕は、大王に逆らうつもりなどございませんし、むしろ、いまに争いを招くのではないかと、その者たちの存在を憂いているのです」


 雄日子は微笑んで、背後に控える角鹿を振り返った。


「乙訓様、大変申し訳ないが、僕は長旅で疲れており、休ませていただきたいのです。――角鹿、乙訓様のお相手を。僕に宿を貸してくれるこの方へ、感謝を伝えてくれ」


「はっ」


 角鹿が頭を下げて、乙訓に向かい合うのを見届けると、雄日子はセイレンにも声をかけた。


「セイレン、来い。夜伽をしろ」


「? はい」


 突然呼びかけられるので驚いたが、とりあえず返事をする。


 先に立ちあがった雄日子が、「では、来い」というので、続いて立ちあがって、後について部屋を出た。


 すれ違うときにセイレンの隣に座っていた藍十と目が合ったが、その目はこれでもかというほど丸まっていた。


 でも、セイレンも同じ思いだった。なぜ、自分だけが呼ばれるのか。いや、そもそも、雄日子と乙訓という男の話そのものが、セイレンにはちんぷんかんぷんだった。


 それに、わからない言葉もあった。


(夜伽ってなんだろう)


 聞いたことのない言葉だった。








 雄日子と一緒に、雄日子の寝所として使われることになった館へ向かう。


 すでに日が落ちているので暗かったが、小さな火皿が置かれていて、ちらちらと炎がくゆり、部屋の中を照らしていた。館の真ん中には、寝具の用意ができていた。


 館に入るなり、雄日子の足は板床に敷かれた寝具のところへ向かう。敷布は絹の袋の中に綿を入れた質の良いもので、火皿の明かりを強く受ける部分はかすかに輝いて見える。


 雄日子はさっそく寝転び、両の手足をぐいっと伸ばした。


「ああ、疲れた。山背やましろの山越えの後にこのようなことが起きるとは思わなかった。眠い――」


 眠りやすいように体勢を変えながら、雄日子はたたんであった布団を自分の身体にかけて、さっそく目を閉じる。


 一緒にこいといわれたものの、どうしたものかと、セイレンはひとまず雄日子の枕元に腰を下ろすことにした。


「わたしはここにいればいいか」


「ああ、そこでいい」


 雄日子は薄く目を開けて、そばに座るセイレンの顔を見上げた。


「なあ、セイレン、さっきの男をどう思った」


「さっきの男? 乙訓おとくにっていう爺さんのことか」


「ああ、そうだ。どう思った」


「どう思ったもなにも――あなたとあの男がいったいなんの話をしているのか、よくわからなかった」


「どういう意味だ」


「なんというか、話していることが、頭に入ってこなかった。わたしが知っている言葉を使って別の話をしているような――はじめから知らない言葉をきくような……」


「知っている言葉を使って別の話をしているような、知らない言葉をきくような、か。なるほど」


 雄日子はそういって、はははと軽快に笑った。


「そなたが正しいよ。あの乙訓という男は、本心を語っていなかった。僕にも、なかなか腹の内を読むのが難しい相手だった。ああいう男の相手は、僕よりも角鹿のほうが得意だからな、任せてきたのだ。いまの僕の役目は、角鹿の代わりに先に休んでおくことだ」


 それも、セイレンにはよくわからない話だ。


「どういう意味だ」


「人の中にも狸や狐がいるのを知っているか?」


「――知らない。そうなのか」


「ものの例えだ。口でいっていることと、腹で思っていることがばらばらな奴のことで、さっきの乙訓は、そういう狸や狐の類いだ。いわれた話をすぐに信じては、後で痛い目にあう。もっと簡単にいうと、あの男は嘘をいって、僕がどう出るかを試しているようだった、ということだ」


「ふうん……」


 あいづちをうってみるが、やっぱり、セイレンは雄日子の話がよくわからなかった。雄日子も話を続ける気はないようで、自分の腕を頭の下に組んで枕をつくると、目を閉じた。


「疲れたから、僕は眠る。おまえは夜通しここにいて、僕を守れ」


 セイレンは目をぱちくりとさせた。とても不条理なことをいわれたと思った。


「わたしは起きてろってこと?」


「そうだ」


「えーっ、なんで! わたしだって疲れたよ。眠いよ!」


 文句をいうと、雄日子はくっくっと笑って、細く目を開ける。


「もうすこししたら赤大か藍十がくるだろうから、そうしたら交代しろ」


 そこまで話が進むと、ようやくセイレンは、ああ、そういうことかと納得した。


 自分が知らなかっただけで、きっと役目分けがされていたのだ。


 さっき藍十と日鷹が、無言のうちに互いの役目を果たそうとしたように、角鹿は雄日子の代わりを任されたし、その角鹿の守りをするために、赤大と藍十は乙訓の寝所に残っている。


 つまり、セイレンは、夜の間に雄日子を守る、寝ずの番を振り分けられたのだ。


「――わかった。起きているから、寝ていいよ」


 それなら長居に備えようと、セイレンは足を崩して、男のようにあぐらをかいた。


 一人で雄日子を守るなら、賊の気配を感じたときにすぐ動けねばならないと、武具も手元に置き直す。


 支度を進めるセイレンを見上げて、雄日子はまだ目を開けていた。


「――おまえがいてよかったと思う。僕を殺そうとするのは男の武人だけでないからな。おまえがいると、そういう女が僕のもとに寄りにくくなる」


 セイレンは首をかしげた。


「そういうものなのか?」


「ああ、そうだ。だが、おまえはもうすこし色香があるほうがいいな。さっきも、乙訓という賀茂の主が驚いていた。たぶん、僕の好みの女がおまえかと驚いたんだな」


「好みの女? 色香?」


 それも、はじめてきいた言葉だ。


 意味のわからない話が続くと、いらだつものだ。セイレンは雄日子の顔を軽く睨んだ。


「わかるように話してくれないか。よくわからない話をされても、どうしていいのかわからない」


「わかるように話せ? ――おまえはおもしろい奴だな」


 雄日子は吹き出して、寝転んでいた上半身をゆっくりと起こす。それから、セイレンの顔にまっすぐ向いて、身を乗り出した。


「えっ」


 驚いて、セイレンは思わず身を引いた。雄日子と話すとき、たいてい雄日子は馬上にいたので、雄日子の顔を間近で見たことはほとんどない。


 いや――雄日子だけでなく、これまで、どんな相手とも、こんなに顔を近づけたことはなかった。


 雄日子は、セイレンの目の前が暗くなるほど近づいてくる。そのあいだはずっとセイレンの両目を見つめて、一度たりとも視線をはずさなかった。


 ふう――と、息の音がすぐそばできこえた。


 それほど、雄日子の顔が近くにある。


 温かな息が唇に触れるので、思わずセイレンは息を止めた。そのまま雄日子の息を吸い込むのが怖くなったのだ。


 それに気づいたのか、雄日子は、一度セイレンの唇を見下ろして笑う。


 鼻先が触れあいそうなほど近い場所で、雄日子はそっと唇をひらいた。


「色香っていうのは、こういうものだ。まだわからないなら、もうすこし詳しく教えてやろうか」


 声は囁くように静かだったのに、奇妙なほど耳の奥に響いてくる。


 雄日子の言葉の意味も、なぜこんなに近づいてくるのかも、セイレンはさっぱりわからなかった。でも、知らずのうちにセイレンは身を強張らせていて、雄日子を見つめ返す瞳も震えていた。


 セイレンの目の前で、雄日子はくすりと笑う。それから、姿勢を戻して、敷布の上に再び横たわっていった。


「うぶで、なかなかかわいい。――おやすみ」

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