毒と蜂蜜 (2)

 それからは、無言のまま歩き続けた。


 山道をくだるにつれて、森の木々の背が高くなっていく。


 天を刺すように伸びる杉林のあいだを縫って続く道を歩いている時。ふと、鼻が妙な匂いを感じ取った。


「止まれ、藍十あいとお


 ぴたりと足を止めて、藍十の袖を掴み、藍十の動きも止める。


「妙な匂いがする」


「妙な匂い?」


「毒かも――」


「毒ぅ?」


「たぶん――。たしかめたい。見てくる」


「おれもいくよ。――おやっさん、セイレンがなにか見つけたらしい。列を抜ける」


「わかった。なにかあれば――」


「わかってるよ。ゆっくり進んでてくれ」


 赤大あかおおとのやり取りが終わるのを待って、セイレンと藍十は軍列を離れて、山道を逸れ、森の奥へと分け入った。


 行く手に茂る木の葉や枝をよけながら、セイレンは森の香りの中に、匂いを探した。


 もともと森には、重い匂いと軽い匂いが混ざっている。重い匂いは土や朽ちた葉、苔のあたりから、軽い匂いは、葉の周りに多く漂っていた。

 

 森や湖は、そんなふうにいろいろな匂いが混ざる場所だったが、セイレンが感じた妙な匂いは、森に溢れるにおいとはまったく別のものだ。


 かぎわけると、ぎゅっと詰まった重い香りと、薄くてあっさりした軽い香りがあった。


 たとえば、澄んだ川の水のなかに、闇の色をした奇妙な露が一滴だけ落ちているような――。


 見つけてしまえば、とても異質で、目立っている。それに、ずっと同じ場所にある。


 それは、とても奇妙なことだった。


「ふつうなら風に吹かれて揺らいだり、薄まったりするはずなのに、なぜ消えていかない? 藍十、気をつけろ。近くに、毒を焚いているやつがいるかも……」


「毒を焚いている奴? それって――」


「――わからない。でも、妙なのがそのへんにいる」


 腕に巻いた武具帯に手を伸ばした。覆いを外して、いつでも吹き矢を射られるように――。


 藍十も、周りの様子を窺いはじめた。


「本当だ。なにかいるな」


 二人の周りには、杉の森が広がっている。


 細くて背が高い木立がぽつぽつと立ち、幹と幹のあいだの地面を覆うように草がぎっしり生えているが、見通しはいい。


 人や、恐ろしい獣がいれば、身を隠せるような場所は細い木立の幹だけだ。


 でも、見渡すかぎり、その森に人や獣の姿はない。


 藍十は気を抜かなかった。セイレンの耳もとで、早口でいった。


「小さいのか、茂みに隠れてんのか――なにかいるぞ。見られてる……視線を感じる」


 セイレンも、同じ意見だった。


 山で狩りをするとき、こちらがまだ見つけていない相手から狙われた時に似た、姿の見えない殺意を感じた。


「そうだな、藍十。それにしても、気配が妙だ。人や獣にしては静かすぎる」


 そのとき。かさりと音が鳴る。前のほうに立つ梢の向こう側で、草が揺れている。


(あそこだ)


 藍十と目を合わせて、セイレンは腰に下がっていた吹き矢を口にかまえ、藍十は剣を抜き、いつでもふるえるように姿勢を整える。


 しかし、かさりと草を揺らしたものの姿をたしかめると、藍十は手を強張らせる。セイレンも、目を見開いた。


 それは、くるぶしくらいまでの背丈しかない、草の影にも隠れる小さなもので、兎に似ていた。


 でも、色は違う。それは、顔も毛も目も鼻も見当たらないほど真っ黒で、身体がどろどろと蠢いている。獣というよりは、影。靄だった。


「化け物だ。――牙王がおう! 来い! 牙王!」


「ばか。声を大きくするな。――そこの妙なのが戸惑ってる。なんだ、あいつ――」


 はっと口を開けて、叫んだ。


「来るぞ、藍十!」


 咄嗟に吹き矢を口に当てた。その前に、藍十が一歩を踏み出していた。


「叩っ斬る」


 一瞬の出来事だった。


 森の奥で見つけた小さな黒い獣が、顔も目もないくせにセイレンと藍十のほうを向いて威嚇をして、だっと駆け出してきた。


 獣のように緑の草の上を素早く跳ねながら、先に矢を向けたセイレン目がけて飛びかかろうとしたが、セイレンを庇うように藍十が身を盾にすると、どちらへ向かうべきかと躊躇するように、わずかに速さが落ちた。


 その隙を、藍十は見逃さない。


 小さな獣目がけて、真っ向から剣をふるう。


 がしんと、硬い物同士がぶつかり合う音がして、すぐに、セイレンの前で視界を塞いでいた藍十の姿が消える。藍十はさらに一歩踏み出して、草の上に剣を突き立てていた。


 藍十の剣の先は、真っ黒い小さな獣を貫いて地面に刺さっている。


 間近で見ても、その獣は奇妙で、黒く見えるものの、陽炎をまとうようにぐにゃりと蠢いている。


 獣の表面におびただしい数の虫が蠢いているようにも見えて、不気味だった。


 でも、その揺らぎはしだいに弱まっていく。剣に貫かれて、揺らぎもろとも力を失いつつあるようだった。


「なんだこいつは――牙王、牙王!」


 来た道の方角を向いて藍十がもう一度大声を出す。


 蠢き方がゆっくりになると、そのあとは早かった。いまにも揺らぎがなくなりそうなほど、小さな獣は弱っていった。


 でも――。ふと、その生き物と目が合った気がした。


 その獣が、真上から覗きこむ藍十とセイレンの顔を憎々しげに見上げて、歯ぎしりをしたような――。


 背筋が冷たくなって、思わず吹き矢を吹いていた。


 とすっと軽い音が鳴り、細い矢が獣に突き刺さる。すると、最後の力を失うように、黒い獣は動かなくなった。


「いま、そいつがこっちを向いた気がした」


「――おれもそう思った。こいつは誰かに操られているのか?」


 藍十が、もう一度振り返って「牙王!」と呼ぶ。


 ようやく背後の草ががさがさと揺れる音がして、男が現れた。


 出雲という国の邪術師で、名を牙王というその男は、背が低くて、齢が五十近い壮年。


 衣装は色とりどりのぼろ布を身にまとっているふうで、雄日子の一行を見回してもほかに同じ姿をする人はおらず、武人の中にいる、ただ一人の武人ではない男ということも含めて、異質な気配があった。


「来たか、牙王! こいつを見てくれ。呪いの獣じゃないか。前に、日鷹ひたかが斬ったやつと同じじゃないか」


「前に日鷹が斬った?」


 独り言に答えたのは、牙王。牙王はくすりと笑い、口元にしわをつくった。


「そうですよ、異族のお嬢さん。前に、呪いの獣を放った賊が離宮に潜んでいたのです。雄日子様が訪れになった、あの離宮です」


 牙王はさっそく腰を下ろして、藍十の剣に貫かれた獣のそばに片膝をついた。


 しばらくそのままの姿勢でじっとしていたが、やがて、顔を上げて、藍十とセイレンを振り仰いだ。


「すこし来るのが遅かったようです。こういう呪いの獣はくろかねに弱いのです。とくに、意志の強い男が振るう鉄の剣にね。――お嬢さんの針も、かなり効いているようですね」


「……そうなの?」


「とどめをさしたのはお嬢さんの針のようですよ。――抜いてもらえますか? この針には毒が塗ってありますね」


「――ああ」


 牙王にいわれるので、セイレンもそばに膝をついて吹き矢に手を伸ばした。


 慣れた手つきで針の端をつまんで、黒い獣の身体から抜き取った。その様子を、牙王はじっと見ていた。


「どうして素手で触れるんですか。いま触れている場所には毒が塗ってないのですか」


「ああ、毒を塗るのは矢の先だけだからね。でも、これくらいの毒なら、わたしは素手で触っても大丈夫だよ。それより、よく毒が塗ってあるとわかったね」


「私はよく鼻が効くほうなので。それに、獣の内側が奇妙な歪み方をしていたので、なにかあるのだろうと思ったのです。――藍十、あなたも、剣を抜いてください」


 藍十の手で土に突き刺さった剣が抜かれると、牙王は黒い獣に手を伸ばした。


「危ない、そいつは――」


 思わず声を出した。


 匂いに敏いセイレンにとって、その黒い獣は絶対に手で触れてはいけないものだった。


 強い毒に似ていて、素手で触れてしまえば、身体が溶けてしまってもおかしくない、と――。


 獣の下になった草は黒くなって枯れていたし、土も黒ずんでいる。その獣が触れたから腐ったのだと、疑わなかった。


 牙王は難なく獣を手にとって目線の高さまで上げると、ふっと息を吹きかけた。


 すると、黒の獣は風に散るようにばらばらになり、黒い身体の中から白いうろこのようなものがはらりと落ちてくる。牙王は手のひらを丸めて、そのうろこを受け止めた。


「鳥の爪です。この獣を生む呪術に使われたのでしょう」


 牙王は立ちあがって、手のひらの上に乗せた白い爪をセイレンと藍十に見せた。


「この小さな爪が、さっきの獣の中身?」


 息を飲んで覗きこむと、牙王はにやりと笑った。


「高島の離宮で、雄日子様を襲った獣と同じ呪術のようです。――お嬢さん、これに触ってはいけませんよ。私がこの爪をじかに触れるのは、あなたの手が毒に強いように、私の手が呪いに強いからです」


「――それで、牙王。こいつの目的はなんだ? 前は、たしか――」


 藍十の声は淡々としていた。責めるような藍十に、牙王は小さくうなずく。


「ええ。前に、同じ獣を始末した時、私は魂語たまがたり――物にこめられた思いを掘り起こす呪術をおこないましたが、残っていたのは、雄日子様への憎しみだけ。術をおこなった者の想いというよりは、この獣に与えられたものが憎しみだけだった、という意味でしょう。つまり、目的はわからないままでした」


「それで、今回もわからないと、そういうつもりか」


 藍十は不機嫌だった。牙王は困ったように笑っている。


「――このような呪いのものがここにあるということは、雄日子様を狙う何者かは、雄日子様が高島を出て、移動していることに気づいているのでしょう。気を引き締めて、雄日子様をお守りしましょう」


「わかってるよ、そんなことは。ていうか、そんなことしかいえねえのかよ」


 藍十が、剣を鞘に戻した。しゃんと涼しい金音が鳴り、その響きが消えてからしばらく、藍十は森を見回した。


 息をついて、藍十はセイレンの背中を押した。


「ほかにはなにもいないようだ。戻ろう、セイレン」


「うん――」








 山道に戻ると、雄日子の一行はそう離れていない場所で待っていた。地面に座り込んで休んでいるという様子でもなく、兵は立ったまま。


 行列の中央にぽっかり空いた隙間があり、見慣れない男が二人立っていた。


「誰だ、あいつら」


 列へ戻りながら、ぼそりといった藍十へ、牙王は答えた。


「使者だそうです。この先にある賀茂かもの宮の王から、宮へお招きしたいと――」


「賀茂?」


「藍十、戻ったか。来い。セイレンも」


 藍十を呼び寄せたのは、赤大。


 赤大は、馬にまたがった雄日子と角鹿のすぐ後ろにいて、日鷹と並んで腕組みをしている。


 呼ばれなくても――とばかりに、藍十は大股で歩いて近づいていき、声をひそめて、赤大に尋ねた。


「賀茂からの使者って――どういうことだよ。待ち伏せされてたのか?」


「高貴な一行がいるという噂をきいて、雄日子様ではないかと使者をよこしたそうだよ。旅の途中であるならば、宮を宿にしてお休みいただきたいそうだ。そう、使者はいっている」


「都合のいい――待ち伏せしていましたって自分からいう敵なんかいないだろ。そうでなくても今日は客が多すぎるってのに――山で会った爺に、こいつらに、いまだって……」


「――藍十、声を小さくしろ。向こうに聞こえる」


「だけど……」


 苦々しげに藍十が唇を歪める。藍十と赤大のやり取りを、雄日子は馬上から見下ろしていた。


「藍十。いま、セイレンと見にいった先にはなにがあった? 不安なものはあったのか」


「――前に、高島の離宮で見かけた獣と同じものがいました。おれとセイレンで仕留めて、牙王が消しましたが、その獣がここにいた理由も、目的も、まだわかってません。ですから……」


 わからないのだから、用心すべきです。


 藍十はそのように訴えようとしていたが、雄日子はその言葉が口から出る前に、微笑でいさめた。


「藍十、おまえの心配はもっともだが、賀茂は、僕の敵ではないかもしれない。賀茂は飛鳥から遠く、僕を亡き者にしようとしている大和の大王たちと一枚岩というわけではない」


「しかし――罠かもしれません。前にお休みになった離宮のように、ひそかに飛鳥から手を回された者が潜んでいるかもしれません」


 食い下がる藍十へ、雄日子は微笑んだ。


「そうだね、わかっている。でも、高島の外へ出ようとしたのは僕だ。くにの外に出れば、味方より敵のほうが多いのは当然のことだ。それでも僕は高島の外に出て、倭国の中央へ行ってみたかった。僕に会いたいという連中に会ってみたかった。たとえそれが敵でも、だ。それが、いずれ僕が……僕ではなくとも、飛鳥の人間ではない男が、大和の中央へいこうとするには、必要な手順だと信じている」


 雄日子のいい方は淡々としていて、ゆっくりだった。


 雄日子が話し始めると周りがしんとなって、大勢の人がそこにいる気配が薄れていく。風すら止まって、蹄で土を掻いていた馬の動きすら静まった。


「逃げ回っているだけでは、なにも変えられない――僕は、そう信じている。この世を、ともに変えよう。僕を守れ。そなたたちが頼りだ」


 微笑みを浮かべて、雄日子は藍十や赤大や、周りにいる部下を見渡した。


 すると、男たちは頭を下げて、声を揃えた。


「はっ」


 セイレンは、たった一人、頭を下げずに立っていた。


 周りにいるすべての男が同じように頭を下げていくので、周りに見えるものが黒髪ばかりになり、急に暗くなった。揃った声の余韻も、重く響いていた。


 頭を下げなかったのは、やり取りの意味が理解できなかったからだ。


 わかったのは、これだけ。


 雄日子という男が、なにか大きなことをしようとしているが、それはここにいる連中みんなの望みで、ここにいる男たちは、雄日子を心の底から支えようとしている――。


 真顔をしてぼんやりと立つセイレンに、馬上にいた雄日子はすぐに気づいた。


 雄日子は馬上からセイレンを見つめて、困ったように笑った。


 言葉はなかったけれど、「そういうわけだから、そなたも頼むぞ」といわれた気がした。


 唇を噛んで、うなずいた。



 この男は、優しいのかな。そうではないのかな。



 心のどこかには、雄日子を信じきれない部分もあった。


 藍十が、異国からの使者や見知らぬ爺にしているように、雄日子が自分の敵なのか、味方なのかと、品定めをしている気分は、まだ続いていた。


 それでも――。


(雄日子の周りには、大きな河が流れているみたい――。こいつが向いている方角に向かって、藍十も赤大も、角鹿も、ほかの連中も、みんなで流れていくんだ。わたしも、これに乗ってみたい……)




 この男と一緒にいったら、なにが起きるんだろう?


 この男は、わたしにどんな世界を見せてくれるんだろう?




 そう思うと、すこしわくわくとして、胸が高鳴った。




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