糾の森 (1)

 あかあかと燃える宮から目を逸らして暗闇を追うのは、夜に飛びまわる鷹にとって、造作もないことだった。


 面倒なのは、火の勢いのせいで風が乱れて、思いどおりに羽ばたけないこと。


 広い円を描いて旋回しないと、いきたいと思う場所に戻ることができなかった。


 だから、柚袁ゆえんが鷹の目をとおして、その光景を見ることができたのは、運がよかったからとしかいいようがなかった。


 雄日子おひこの行方を追って空を滑っていたときに、二十人からなる追手をたった一人の娘が討つところを、ちょうど見下ろすことができた。


 いや、もう一つ理由があった。


 一部始終を見ることができたのは、その娘が追手を討つのに要した時間が、とても短かったからだ。せいぜい、十数えるくらいのあっという間の出来事で、上空を滑り抜けるとても短いあいだに、小勢はぞろぞろと倒れて、馬までが横になった。


雄日子おひこ様の行方は――)


 その後、どうなったのか。


 上空で旋回してもう一度同じ場所に戻ってくると、雄日子と供の武人二人が森の中に入っていくのが見えた。


いにしえの森に、逃げ込んだか)


 そこまでたしかめると、柚袁は息を整える。


 いま、柚袁は、呪いの力で造り出した幻の鳥の中に自分の魂を乗せていた。


 もとの身体に戻るには、自分の魂から刃をつくりあげ、その刃で、自分の魂と幻の鳥をくくりつけているものを断ち切らなくてはいけない。


 いわば、自分の魂をみずから切りつけるようなものだ。


 得もいえぬ苦しみを伴うが、早くしなければ、切り離さなければいけない部分が広がり、もっと苦しい思いをすることになる。


 悲鳴をこらえて、自分の魂を自分で切った、次の瞬間。

 

 柚袁の魂は鳥の中から抜け出て、もとの身体に戻った。


 もとの身体に戻れば、次はまた別の苦しみが待っている。


 はっ、はっ、はっ――。


 懸命に深い息を吸って、吐いて――。


 そばには師匠、斯馬しばがいて、じっと見守っている。それまで石になったかのように動かなかった柚袁が、自分の口を使って息を始めたのを見ると、背中に手を置いて、ゆっくりさすった。


「大丈夫か、柚袁。息をゆっくり――。鳥と人とは息の速さが違うから、乗り移るのは厄介だろうに――」


「え、ええ……ですが、密偵としては、鳥に勝るものは、なく――」


 しばらくのあいだ、柚袁は息を整えていた。


 用意された杯から水を一口飲み、二口飲んで深呼吸をすると、柚袁は斯馬の顔を探して、眉山を寄せた。


「斯馬様、軍長いくさのきみ様が送りだした追手が、全滅しました」


「なんだと? 賀茂の乙訓おとくににも小勢を出させたし、二百人以上はいたときいている。三つに分けて、雄日子様を賀茂の王宮に誘い込んだ上で囲むと……」


「ええ、たしかに。しかし――散り散りになって逃げたのは大和の軍のほうでした――」


「しかし……まさか、乙訓が寝返ったのか!」


「――いいえ。乙訓も捕らえられたか、それとも、殺されたか。――わかりません。賀茂の王宮が焼けていました。上から見ても、火は、大和軍を囲い込むように放たれていました。火を使ったのは、雄日子様の軍でしょう」


「なんと――! 雄日子様を捕らえることはおろか、守りの軍すら削れなかったというのか?」


 斯馬と柚袁がいたのは、難波なにわみやの奥、潔斎きよめの域。


 そこには、ここぞというときの寿ことほぎやまじないのために使われる小さな東屋あずまやがあり、その屋根の下に二人でいた。


 周りには火が焚かれていたので、夜といえども、屋根の下もあかあかと照らされている。


 祭壇があり、鷹が一羽、捧げられている。


 二人がつくり上げた幻の鳥のもとになった鷹で、首から血を抜かれてぐったりとしており、隣には、白い爪が並べて置いてある。


 その爪を横目で見やって、斯馬はうなだれた。


「飛鳥を発った今回の軍は、すべて手練てだれだと聞いたぞ。地の利の悪さをおぎなうため、地元、賀茂の豪族を味方につけて、罠にはめても、それでも雄日子様は倒せないのか――。これ以上、どうすればいいのか――雄日子様を亡き者にせよという大臣の命令は、どうしたら果たすことができるのだ。使える手は、あと一つ。雄日子様の血がついた呪具だけだ――」


「それが、斯馬様」


 柚袁の瞳が動いた。周りに誰もいないことをたしかめて左右に小さく動いてから、柚袁は小声でいった。


「実は、雄日子様のそばに、これまで見たことがないまじない師がいたのです。追手を討ったのはその呪い師で、たった一人の力で、二十人の小勢は討たれたのでございます」


「呪い師だと?」


「まだ年端もいかない娘で、不思議な道具を使っていました。小さな石の箱のようなものを口に当てて、吹いたんです。そうしたら、その娘が息を吹きかけたところにいた兵が、ぞろぞろと倒れていきました。人だけではありません。馬もです……。まるで、剣の神が宿った風を生みだして、思いどおりに操ったようでした。あんな技は見たことがありません――」


「箱を口にあてて、吹いた?」


 斯馬の目が見開かれていき、つぶやいた。


「そいつは、土雲つちぐもだ――」


「土雲?」


「霊山に住むという古の一族だ。霊山を点々と移って暮らしている一族がいるという話を、前にきいたことがある。大和の国が興るずっと前からいる古い一族で、なんでも、大地の神の末裔だから、人が棲めない霊山に棲み、我々にはできない不思議な技を使えるのだとか」


「土雲――。大地の神の末裔……」


「ああ、そうだ。土雲が住みつくと、その山のふもとは土が豊かになって、栄えていくのだそうだ。土雲の一族が大地の神の手伝いをしているからだそうで、山のふもとで暮らす里の民は、土雲の一族が住んでいるあいだは、その山には決して登らないとか――。もしも土雲の機嫌を損ねたら、その一族は石の箱を使って風を起こし、人も森も獣も、一息で殺してしまうのだ、と」


「石の箱、風。それが、さっきのあの娘――」


「なんということだ。そのような幻の一族までが、雄日子様の味方をしているというのか」


 斯馬は力なく床に腰を下ろし、額を手のひらで覆った。


 東屋の周りに焚かれた炎が音を立てて燃え、黒くなった薪が崩れてゆく。


 ぱちんと木の皮がはじける音が大きく聞こえる静寂の中、斯馬は、重い口をひらいた。


「柚袁、私はいま、恐ろしいことを考えているだろうか」


 柚袁は唇を閉じてしばらく黙ったのち、「いいえ」と首を横に振った。


「いいえ、斯馬様。私も同じ思いでいます」


 斯馬はうつむき、絞り出すような小声でいった。


「いま、大和の大王おおきみたる方は、雄日子様なのかもしれない。すくなくとも、稚鷺王わかさぎおうではないのだ。――雄日子様も、かつて大和に繁栄をもたらした偉大な王の血をひいておられる。あの方にも、大王の血は流れているのだ――」


 斯馬の額に、脂汗が垂れる。


 しばらく二人で黙ったあとで、斯馬は顔を上げて、言葉を継いだ。


「柚袁、うらをしよう」 


「――占、ですか」


「ああ、占だ。雄日子様を荒神の棲む山にお連れして、そこで、荒神に雄日子様を裁いていただく。もしも雄日子様が大王にふさわしい御仁なら、荒神は雄日子様を里へ戻すだろう。もしも雄日子様が、取るにならない男であれば、戻ってこないか、傷や病を抱えて下りてこられるだろう」


「荒神の棲む山? それはいったい――」


「賀茂の近くに、暗部くらぶ山という山がある。昔、高島にいったときに近くを通り、奇妙な気配を感じて、鳥に魂を乗せて飛んでみたが、飛ぶのが重く、苦しくて、途中で気を失った。一瞬だけ頂きを見たが、異形の神が棲んでいた。人が入るのを阻む、霊山の一つだ」


「なるほど、そこへ雄日子様をお連れするのですか。しかし、どうやって雄日子様をお連れしますか。さきほど申し上げたとおり、雄日子様の周りには土雲という異族の娘までおり、手が出せないのですが――」


「私がやろう」


 斯馬は、唇を強く横に引いた。そして、祭壇に手を伸ばす。そこには、ぐったりと寝そべる鷹と、その横に丁寧に置かれた白い爪がある。その爪の先は、赤黒い血がついていた。


「これは、雄日子様の血。この血が私のもとにあれば、雄日子様だけを狙うことはできるだろう」


 血のついた爪を指でつまみとり、手のひらに乗せて斯馬はうなずいた。


「あとは、私が自分の魂を依り代に使おう。依り代が私の命であれば、呪いはかけられるだろう」


 柚袁が、目を見開いていく。


「斯馬様、それではあなたの天命が短くなってしまう。あなたの寿命が――」


「ばかをいうな。もしも雄日子様が無事に山を下り、大王たる方とわかれば、私は大王に呪いをかけることになるのだ。罰されて、首を斬られて当然のことをするのだから、かまわない。死ぬつもりでやる」


 斯馬はどこかすっきりした顔をして、手にした爪を握り締めた。


「この混迷の世で、私とおまえのほかにも、雄日子様に手を貸すべきか、大王に従うべきか迷っている者は多かろう。――私が明らかにしよう。そして、明らかになった時には、難波の霊し宮は飛鳥を離れ、雄日子様に従おう」





 斯馬と柚袁は、夜中のうちに霊し宮を発った。


 向かった先は、大河につくられた湊。そこからは、山背へ向かう船が出る。


「川をさかのぼり、すこしでも雄日子様に近づくのだ。遠く離れていては術の効きが悪くなる」


「はい、斯馬様」


 闇の中でひそかに岸を離れた船には、斯馬と柚袁のほかに、護衛の武人が二人と、船頭が一人乗っている。五人だけの船旅だ。


 船は、丸太船に足場を足した小さなもの。五人が一列に並んで腰を下ろし、船頭と武人は櫂をもって船を漕いでいた。


 目の前には、夜の大河が広がっている。水面は闇の色を溜めこんで暗く、船が通って波が立つと、月の光を浴びて白く輝く。


 夜空は澄んでいて、色こそ暗いが、とても爽やかだ。


 美しい夜空に向かいながら、斯馬は、胸の底が冷えていく思いを味わった。


(こんなところにいるなんて――。私は、飛鳥の大臣と稚鷺王を裏切り、雄日子様に従おうかと迷っている。そのような大それたことを企んで――なんということだ)


 自分は、恐れ多くも、謀反を企んでいるのだ。


 そう思うと、とても恐ろしかった。


 でも、夜の景色も、時おり水粒が跳ねる川の旅も、とても美しく澄んでいて、爽やかだ。気分は、悪くなかった。


「なあ、柚袁。荒籠あらこ様の話をしないか。列城宮なみきのみやを追いだされた後、あの男はどこへ向かったのだろうか。荒籠様ほどの男があのように酷い扱いを受けて、飛鳥を悪く思わないのだろうか――」


 隣に腰掛ける弟子に声をかけると、柚袁はぷっと吹き出した。


「斯馬様、お声がはずんでおられますね。それほど、これまで飛鳥で、苦しい想いをしていらっしゃったんですね。――ええ、荒籠様のことを話しましょう。飛鳥の都や難波の都にも馬を納める役をおおせつかったあの男は、飛鳥だけでなく諸国を渡り歩いて、さまざまな国の王や豪族の主と話をし、多くのことを伝え聞いているという話です。――あの男なら、斯馬様ときっと話が合ったでしょうね。先日、列城宮にいらっしゃったときに、声をかけることができればよかったですね」

 

 それから柚袁は、さざ波をつくる夜の水面をそっと見下ろした。


「あの宮が、誰に声をかけるのもためらう場所ではなくなると、よいですね……」




 ◇ ◆     ◆ ◇




 早朝。セイレンは、そばにいた男が立てた物音で目が覚めた。


 顔の上には、眠りやすいようにと藍十あいとおおすいがかかっていた。


 隣には、木の幹を背にしゃがむ雄日子がいる。セイレンはその足元で丸くなっていた。


 セイレンが身体を起こしていくと、雄日子の顔がセイレンを向いた。


「おはよう、セイレン。眠れたか」


「――おはよう。あなたって、こんなときまで爽やかなんだね。余裕だね」


 本当に肝がすわっている男だなあと感動しつつ、セイレンは顔を上げて、藍十の姿を探した。


「藍十もおはよう。すこし眠ってすっきりしたよ。――赤大は?」


 藍十は、雄日子がもたれる木の幹のそばに立っていた。


 昨晩、夜半に寝ているところを賊に襲われてから、雄日子の守りについたセイレンと藍十の三人は、赤大あかおお日鷹ひたか、味方の軍勢と離れ離れになっている。


 セイレンに「おはよう」と目配せをしつつ、藍十は首を横に振った。


「まだ合流できていないんだ。セイレンが起きたなら、ひとっ走り王宮の様子を見てくるよ。雄日子様の守りを頼んでいいか」


「ああ」


「じゃあ、任せた」


 いうなり、藍十はセイレンと雄日子を残して、森の木々の隙間を縫って、駆けていった。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る