馬飼 (1)

 野営で過ごしたのは、ふた晩だった。


 木の根を枕にして二回眠って、三日目の朝、セイレンは藍十あいとおとともに離宮に入ることになった。


「おそばで守ってもよいと許されたよ。もう逃げないだろうって、雄日子おひこ様がおっしゃったらしい」


 藍十は理由を教えたが、いまとなっては、なぜ信じられていなかったのかと、真顔をした。


「わたしが逃げる? 逃げないよ。わたしは雄日子が好きになったからな」


 藍十はあきれ顔をした。


「呼び方がおかしい。雄日子様、な。――離宮に入ったら、まずは馬術の稽古だ。雄日子様の守り人なら、馬を操れなくちゃだめだ」


「そうだよなあ――。馬って、とても走るのが速かったし、あんなのに乗った敵から追いかけられたら、まず引き離せないよなあ……」


 はたと考え込むセイレンに、やっぱり藍十は呆れた。


「『いやだ、なんでわたしが!』って渋るかと思ったのに、えらく従順になったなあ……」


「それは、だって、馬に乗るのは大事だと思ったからさ。足には自信があるけど、獣と一緒に走って勝てる気はしないよ。馬に乗った賊が来たとして、賊と同じように馬を操れなかったら、雄日子を守れないだろう?」


「まあ、そのとおりなんだけど――。セイレンって、切り替えが早いというか、勘がいいというか――うん、まあ、守り人としていい線いってると思うよ。ただ――とりあえず、雄日子様って呼べよな」






 一行が五日の宿をとったその離宮は、高島のなかでは一番端に位置しているのだそうだ。


 雄日子の遠出にそなえて、離宮の庭には、食べ物や武具、衣服などが日を追うごとに集まってくる。


 最後の旅支度が終わると、一行は異国へと旅立つことになった。


 目的地は、難波なにわ。高島から二か月ほど旅をして向かう、大きな港のある国――と、セイレンはきいていた。


 出立の朝、馬具のつけ方に手間取ったせいで、セイレンが離宮の門から外へと出たのは、かなり遅かった。


 離宮の門前には、すでに大勢の人が集まっている。


 雄日子とともに旅をする武人の一行だけでなく、離宮の世話を任された里者や、雄日子の見送りに駆けつけた貴人までが押しかけていたので、門前の道はかなり賑わっていた。


 藍十はセイレンを馬の鞍に乗せて手綱を引いていたが、雑踏の奥に雄日子の姿を見つけると、かなり手前で馬を止めた。


「ここで下りろ、セイレン」


「でも――列はまだ先だろう。どうしてこんなところで下りるんだ?」


「雄日子様がいるからだ。特別な用がない限り、おれたちは雄日子様の前で馬に乗らないよ。雄日子様を高い場所から見下ろしてしまうと、無礼だからな」


「ふうん――。決まりが多いんだな」


 雄日子のすぐそばには、角鹿つぬがの姿が見えている。


 角鹿は側近という名の世話係だそうで、いつも雄日子のそばにいる――ということを、ここ五日のあいだに覚えていた。


 二人の背後には赤大あかおおもいる。日鷹ひたかもいた。


 藍十とセイレンがやって来たのに、雄日子は気づいたらしい。


 角鹿のそばを離れて、雄日子は行列を抜け、近づいてくる。


 それに気づいた藍十は、セイレンを連れて雄日子のもとへ歩み寄った。


 互いの声が届くところまで近づくと、藍十は足を止めて、頭を下げる。


 それは、出会い頭にする仕草らしい。


 どうしたものかと迷ったものの、セイレンも、藍十の姿勢を真似て頭を下げてみる。


 目線が下がって、真正面に地面の土が見えた頃。くすくすと笑う雄日子の声がきこえた。


「二人とも、頭をあげなさい。藍十、ご苦労。セイレンもよく来てくれた。旅のあいだ、僕を守ってくれよ」


 頭をあげろといわれるので、さっそく姿勢を正す。


 まず気になったのは、雄日子の腕だった。


 四日前にセイレンが薬湯で洗った場所で、いまは丁寧に包帯が巻かれていたが、その下には、呪いの武具に引っかかれたという傷があるはずだ。


「雄日子、傷の具合はどうだ。痛みや、身体の不調は?」


「問題ないよ。そなたの薬のおかげだな」


 雄日子は微笑んで答えたが、のんびりしているのは雄日子だけだ。


 すぐさま、周りにいた武人たちがぎょっと目を丸くして、隣にいた藍十が青ざめる。


 藍十は、セイレンの背中を肘で小突いた。


「おま……言葉遣いが悪いんだよ。雄日子様、だ」


 「雄日子」ではなく、「雄日子様」と呼べといっているのだ。


「だって――それ、いいにくいもん」


 セイレンはぶつぶついい、雄日子に直接頼むことにした。


「なあ、あなたは、わたしがあなたのことを雄日子様と呼ばなくても、これまでわたしを叱らなかったよな。つまり、あなたのことを雄日子と呼んでもかまわないということだろう?」


 雄日子の顔をまっすぐに見上げていうと、雄日子は一度目をしばたかせる。それから、吹き出すように苦笑した。


「ああ、好きにしろ。そなたは特別だ」


「しかし、雄日子様――」


 慌てたのは、藍十。


「まじか、こいつ――。この雄日子様に、ため口でもいいっすよねって直訴するとか……」


 セイレンと雄日子のやり取りに耳を澄ましていた周りの武人たちも、耳を疑うようにセイレンの顔を探してくる。


 雄日子は目を細めて、藍十だけでなく、声が届く場所にいる全員を見回して宥めた。


「この娘には僕の威光など通じないのだから、その程度のことでこの娘が僕に仕えてくれるなら、きっとそれでよいのだ。そういうやり方もあるのだろう」


「ほらね。やっぱり雄日子は、話がわかるやつだ」


 咎められなかったことに満足して、にんまり笑った。


 それを見た藍十は、雄日子を讃えた。


「あのセイレンがすっかりなついてる……。やっぱり雄日子様は、たいしたお方だ―――」



  ◇ ◆       ◇ ◆   



 神山、三輪みわの近くにある大王おおきみの宮殿、列城宮なみきのみやに、呼び出された男がいた。


 名を斯馬しばといって、役目柄、列城宮なみきのみやのある飛鳥あすかと、その場所とは遠く離れた難波なにわという海都をよく行き来する。


 斯馬を列城宮へ呼びだしたのは、その宮で暮らす春日姫かすがひめという人と、平群真鳥へぐりのまとりという男。


 春日姫は、大和の大王おおきみの母で、平群真鳥は、大王とともに政をおこなう大臣おおおみ


 どちらも、そばへ来いと呼ばれるだけでも誉れ高い貴人あてびとだ。


 しかし、斯馬は憂鬱だった。


 斯馬が長年仕えてきたのは、いまの大王の父にあたるさきの大王。


 いま大王の座についている若い王は、父王ほど有能な御子でなかったし、いままつりごとを仕切っている大臣のことも、あまり好きではなかった。


 その宮が列城宮と呼ばれるようになったのは、つい二年前。


 さきの大王が崩御して、御子の中で唯一の男だった稚鷺王わかさぎおうが即位したので、その王と母親が暮らしていた宮が、新しい王宮となったのだ。


「こちらでお待ちです」


 侍女が案内したのは、列城宮の奥に建つ大きな館で、藤の御館みたちと呼ばれている。


 中へ入り、館の奥で待つ春日姫と大臣の前で頭を低くして来訪を告げると、春日姫はおもむろに顔をしかめて、斯馬を咎めた。


「今日は、おまえを叱ろうと思い、ここへ呼んだのです。雄日子を亡き者にせよという命を、まだ果たしてくれていないようですね」



 雄日子太子という高向の若王を、亡き者にせよ――。



 それは、一年ほど前から斯馬に課せられた使命だった。


 しかし、いまだ果たせていない。


「はい、申し訳ございません――」


 頭を低くして答えると、春日姫はいい足りないとばかりに矢継ぎ早にいった。


大和やまとみやおさであるおまえが、まだたった一人を殺せぬのですか。三月みつき前におまえがここに来た時には、これから雄日子を討つ窺見うかみをひそかに放つといっていましたね。あの窺見はどうなったのです」


「――連絡がとだえました」


「おのれ……その窺見はもしや、途中で役目を打ち棄て、逃げたのではありませんか。なんという不届き者」


 ぎりっと歯を噛んで悔しがる春日姫に、斯馬はすこし顔を上げて申し上げた。


「恐れながら、その窺見は雄日子太子を守る武人の手で、返り討ちにあったと思われます。雄日子太子は、自分のそばに、守り人という名の手練てだれの武人を置いているという話で――」


「なにをおいいです。守り人? たいそうな名前をつけていますが、しょせんは、高島やら高向やら、田舎生まれの阿呆揃いでしょう? 田舎者が何人束になろうが、難波や飛鳥で稽古を積む武人にかないましょうか」



 田舎とは、いったいどこのことでしょうか――。



 その言葉を、斯馬は懸命に飲み込んだ。それから、痛烈に思った。


(春日姫は、難波と飛鳥のほかをご存じないのだ。高向たかむくも高島も田舎などではない。むしろ、ここ、飛鳥よりも賑わいのある都だ――)


 斯馬は、難波という海都に住まいをもっている。


 難波には、百年以上前から栄えた大きな港があり、遠く離れた大陸の宝を乗せた船が、瀬戸の早瀬を越えてたどりつく。


 難波の港は人で賑わい、新しいものが溢れていたが、同じように水運に恵まれた高島や高向にも、同じように賑わう港があるのだという。しかも、そこで取引をされる品々は、飛鳥に届くと珍品と呼ばれる宝ばかりだ。



 それはちがいます。

 そうではありません――。



 拒んでしまいたかったが、かつての主の大后おおきさきに歯向かう言葉を、斯馬は持ち合わせていなかった。


「はい、そのとおりでございます」


 従順に黙った斯馬を説き伏せるように、春日姫の隣であぐらをかく大臣も、眉をひそめてみせた。


「斯馬よ。知らせによれば、雄日子は大和入りをもくろんでいるという。さきの大王が崩御されて間もないいま、雄日子などが大和に入ってみろ。この国は布を裂くようにばらばらになる。さきの大王や、雄略武王ゆうりゃくぶおう仁徳聖王にんとくせいおうがおつくりになった古き良き大和やまとを取り戻すのは、我々の悲願だ。そうしなくては、我々を取り立ててくださったさきの大王に顔向けができない。そうであろう?」


 大臣に答えるのに、ほかの言葉を、斯馬は持ち合わせていなかった。


「はい、そのとおりでございます――」







 藤の御館みたちをでて、馬屋へ向かって広場を歩いていると、木陰で斯馬を待つ青年がいた。


 齢は二十三。難波の住まいからともに飛鳥に入った斯馬の一番弟子で、名を柚袁ゆえんといった。


「斯馬様。お話はいかがでした。叱られましたか」


 柚袁が尋ねてくるので、斯馬は苦笑した。


「私が叱られるのを待つようないい方をするな。――まあ、叱られたよ。叱られるためだけに、はるばる難波から呼ばれたのだ」


「時間の無駄です。そんな暇があったら、雄日子太子をしとめる霊儀の支度ができるのに……」


 ぼそりと不満を口にした柚袁を斯馬は「しっ」とたしなめて、あたりの様子をたしかめた。幸い、藤の御館の前の広場には人がほとんどいなかった。


「口は災いのもとだよ、柚袁」


「しかし、斯馬様。我々は忙しいのです。こうしているあいだにも、難波や住吉すみよしの海には死者が流れ着くのです。――そもそも、なぜ我々、まじない師ばかりが駆り出されて、軍が動かないのですか」


「軍も出ているのだよ、柚袁。ただ、誰一人帰ってこないのだ。私とおまえは、離れた場所から相手を攻めることができる呪い師だから、失敗しても飛鳥に戻ってこられるだけだ。――いい加減に口をつぐもう。いくらおまえが話しかけても、私はもう一切口をひらかないからな」


「――はい」


 柚袁は、渋々と口を閉じた。


 大王おおきみの王居とはいえ、列城宮はもともと、若い御子のための離宮として建てられた宮なので、そこまで広くはない。


 館と館は寄り添うように建ち、春日姫の寝所が背後に遠ざかると、すぐに次の建物が目の前に迫り、追い越すと、また次の建物が現れる。


 馬屋は宮門の際につくられているので、そこへ向かうには列城宮の端から端まで歩かねばならなかったが、小ぢんまりとした宮だけに、辿りつくのにさほど時間もかからない。


 列城宮の馬屋は、二十頭近い馬を一列に並べて世話ができるようにと、細長く伸びた形をしている。


 馬屋の前には広々とした馬場があったが、そこに人がいるのを見つけて、斯馬は目を細めた。


「柚袁、稚鷺王わかさぎおうがおられる」


「えっ、大王おおきみが?」


 馬場には、人だかりができていた。


 人が十人近く集まっていたが、揃って色鮮やかな錦に身を包んでいるので、そのあたり一帯は花園のようになっていた。


 人だかりの中心に、若い王の姿があった。


 名を稚鷺王わかさぎおうといって、御年十六。


 人だかりは、その若い王を囲む館衆と、着飾った侍女だ。


 貴人たちは馬屋を向いて、なにやら大声を上げていた。


「とっとと去れ! 恐れ多くも、河内かわちの獣使いめが、大王の居ます宮に入って長居をするなどなにごとだ。用が済んだなら即刻去れ!」


 難癖をつけられていたのは、馬屋の中で馬に鞍をつけたり、飼い葉をやったりしている馬飼うまかいたち。その馬飼を、館衆たちは追い払おうとしていた。


「なにを手間取っているのだ。しょせん、なまくらな腕をもった田舎の馬番なのだろう? 獣の臭いがくさくてかなわん。去れ、去れ!」


 汚い言葉で追い立てられた馬飼たちは、やがて馬屋の中からぞろぞろと出てきたが、すぐに馬場を通り抜け、早足で宮門へ向かっていく。


 その馬飼たちが身にまとう衣装の柄に、斯馬は見覚えがあった。


「あれは、河内の……あの男は、荒籠あらこ様だ――!」


「ほんとうだ、間違いないです。河内の馬飼の若長、荒籠様です」


 柚袁も目をまるくしている。


 二人で馬屋を向いてつっ立っていると、二人のもとに寄って来る童がいた。


 童は八歳くらいで、麻づくりの粗末な服をまとっている。


 童は精一杯小さな顔を上げて、斯馬と柚袁の足元で止まると、二人の顔を代わる代わる見つめた。


「あの、館衆様。馬飼さんたちを追いださないでくださいと、あの方たちにおとりなしください。今朝、大王様おおきみさまのお馬が御子を生むのを助けてくれた、ありがたい人たちなんです」


「おまえは誰だい? 馬屋番の子かな。ここで、父上の手伝いをしているのかな」


 斯馬が腰をかがめて目を合わせてやると、童はうなずいた。


「はい。おれは馬屋番のサワラの子で、ワラシといいます」


「そうか、ワラシ。今朝、ここで仔馬が産まれたんだね。それで、あの馬飼たちが駆けつけていたのだね」


「はい。あの馬飼さんたちは、とても遠いところから山を越えてきたって、昨日おれたちに話してくれました。着いてすぐに支度を始めたのに、仔馬がなかなか産まれなくて、夜も寝ないで馬のそばにいてくれて、ようやく休んでもらったところなんです。だからおれ、もっと休んでほしくて、起こさないように静かにしていたんですが、館衆様たちが通りかかって、くさいから出ていけって――」


 童はしょんぼりとうつむいている。


「それは困ったことだね、ワラシ。くさい、か――馬には馬の香りがあるものよなあ。しかし、大王が去るようにとおっしゃったなら、命令をくつがえすことはできないのだよ。いま去った馬飼は、とても賢い男だ。きっとすぐに、どこかいい休み場を見つけて眠るだろうから、心配しないでいいよ。おまえは優しくて、勇気のある子だね」


 斯馬がいうと、ワラシは目をきょとんとまるくした。


「館衆様は、あの馬飼さんを知っているのですか」


「ああ、そうだ……有名な男だよ」


 そういって、斯馬はもう一度馬場に目を向けた。


 そこには、去りゆく馬飼の集団の影を見送って、笑い合う貴人たちがいる。


「いやあ、本当にくさかったですなあ。河内の馬飼といっておりましたが、やつらが連れてきた河内の馬のくさいこと。臭いまで、飛鳥の馬とはちがいましたなあ」


 貴人たちは、大王の顔色をうかがいながら冗談をいっていた。


 斯馬は、眉をひそめた。


「あのように追い出して――あの者たちは、河内の荒籠様を知らんのか。もしや、大王もご存じないのか」


 柚袁は、小さく顎を振った。


「斯馬様、難波へ帰りましょう。私は……」


 続きをいいかけて口を閉じ、柚袁は、斯馬の耳もとに口を寄せた。


「この宮はおかしい。身分の高い方々に、心から尊敬できるお方がいない」


「しっ。口を慎め」


「わかっています。だから小声でいったんです」


 柚袁はふてくされた。


 弟子をたしなめたものの、斯馬も柚袁と同じ想いだった。


(ここが、都――大王の居ます宮か)


 この列城宮が、倭国の真ん中――まつりごとの中心には見えなかった。


「わかった。難波に帰ろう、柚袁」


「ええ、急いで帰りましょう。――実は、斯馬様にお見せしたいものがあるのです」


「私に見せたいもの? それは、なんだ」


「――こちらへ」


 周りの様子をうかがって声をひそめると、柚袁は師匠がついてくるのを確かめつつ、道のきわへ寄り、木陰を背にして立った。


「どうした。慎重だな」


 木陰を背にしたのは、誰からも手元が覗かれないようにするためだ。


 斯馬がそばへやってくると、柚袁は目を伏せて、袖の内側から小さなものを取り出してみせた。それは獣の骨や細い角に似ていて白く、鈍く光っている。


 柚袁の手の中のものをみるなり、斯馬は顔色を変えて、自分も、それを人の目から隠すように身体の向きを変えた。


「柚袁、それは――」


「前に、呪いで使った道具です。雄日子太子のもとにいた術者らしき相手にせりまけて、行方知れずになっていましたが、ついさっき、斯馬様が大臣おとどと会っておられるあいだに、私のもとに戻ってまいりました」


 柚袁の手の上にあったのは、一方が尖った形をしたうろこのようなもの。


 難波のみやでは「呪いの爪」と呼ばれる、呪いの道具だった。


 それは、生贄をささげて祈りを込めると、幻の足を得て風の上の駆け、傷をつけたい相手のもとへいき、血を欲して動く。


 柚袁が手にした「呪いの爪」は人差し指くらいの長さで、先端にだけ赤黒いものがついていた。


「それは――」


「ええ、斯馬様。これは、おそらく雄日子太子の血です。この爪は、雄日子太子に傷をつけることができたようです」


「それが、雄日子様の血――」


「ええ。それも、この血の付き方からすれば、それなりの深手かと――」


「深手の傷……」


 柚袁は白い布で丁寧にその爪を包むと、ふたたび袖の内側へしまい込む。


「斯馬様、我々は雄日子太子の血を手に入れることができたのですよ。本人の血ですよ? 呪いをかけるには最高の呪具です! 次におこなう霊儀でこの血をつかえば、必ずや、雄日子様自身に呪いをかけることができるでしょう?」


「ああ、そうだね、柚袁……。そうか、次の霊儀で、雄日子様のお命を奪うことができるのか――」


 斯馬は、ひそかに肩を落とした。


 「命を奪え」と命じられている相手とはいえ、その雄日子太子は、稀代の名君と噂される若者。


 難波に伝わった噂では、その太子は、十五か十六か、年端もいなかいうちから、淡海あわうみの沿岸に連なる豪族をまとめあげ、ひとつの湖国をつくったのだとか――。


 若いうちにそのようなことができるのは、たいしたものだ。


 尊敬できない主たちのために、才能にあふれた若者の命を手ずから奪うのかと思うと、胸が痛んだ。


 

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