血の契り (5)

雄日子おひこ様! あなたは、この娘に甘すぎます。いくらこの娘が土雲つちぐもの一族だとしても――」


 角鹿つぬがは小言をいったが、結局、命じられるとおりに館を出ていった。


 角鹿が出ていったのをたしかめたあとで雄日子を向くと、目が合う。


 雄日子の笑顔は柔和だが、どこか冷たくて、藍十あいとお日鷹ひたかのようには心の底から笑っている感じがしなかった。


「ではきこう。話せ。僕に話したいこととはなんだ」


 ぎくりとして、きゅっと唇を結んだ。


(わたしはこれから、一族の秘密をこの男に話すんだ。土雲の掟を破るんだ)


 そんなことをしていいのかと、戸惑う思いもあった。


 でも、早くやれと逸る思いもある。


(負い目を感じる必要はないか。あの一族に恨みはあっても、恩はないし――)


 これからなにが起きても、一族の里にふたたび帰るつもりはなかった。


 物心ついたときから感じていたことへの復讐をする気分で、ごくりと息を飲み、唇をひらいていった。


「――わたしを縛ったあの術を、解いてほしいんだ」


「理由を話せ。なぜだ。そなたが話すといった一族の秘密と、関わりがあることなのか?」


「ああ……」


 一度黙ってから、慎重に話しはじめた。


「いまから話すことは一族の掟で、一族以外の者――山の下で暮らす里者に教えてはならない決まりだ。だから、お願いだから、あなたも他の人にいわないでほしい。お願いできるか」


「まあ、ひとまず約束しよう。話をきいたあとで、取るに足らないと思えばそなたにそういう」


 その言葉には、すこしむっとした。


(なんだよ、それ。約束できないって意味じゃないかよ)


 でも、真面目だとも思った。


 もっと嫌いな連中――前に自分を殺そうとしたハルフたちは、そうではなかったからだ。


(あいつらは、わたしがなにをいおうが、話をききもしなかったな。――こいつは、あいつらよりもまだましだ。ううん、わからない……)


 慎重に、雄日子の双眸をじっと見つめた。



 あなたは、わたしの敵か? 味方なのか?

 信じてもいい相手なのか――?

 


 一族の掟を破ることと引き換えに、雄日子の品定めをしている気分だった。


「――じつは、わたしたちの一族は、〈待っている山〉と呼んでいる特別な山に住んで、山に生えている草や木や、花を植えかえて暮らしているんだ」


「植えかえる? どういうことだ」


「土雲の一族は、三十年おきくらいに住む山を変えるんだ。いまの里がある山にも、三十年くらい前に移ってきたそうだ。土雲の一族が暮らす〈待っている山〉には、山の下にはない珍しい薬草や、匂いや味のする泉がある。土雲の一族は、その山にもともと生えていた珍しい草や木を焼いて、べつの草や木を植えるんだ。そうすると、匂いや味のする泉がだんだんなくなって、そのうち、山の下の里と同じ草木で覆われるようになる。そうしたら、わたしたちは山を下りて、べつの〈待っている山〉を探す旅に出るんだ」


 雄日子は、セイレンの言葉に聞き入るようにしばらく黙った。


 それから、口をひらき、たずねた。


「そなたたちは山から山へ移り住んで暮らす一族だと、前に僕は、話にきいた。そなたがいま話してくれたのは、その理由なのだな。でも、僕がききたいのはその話ではなくて、そなたが術を解いてほしいと願う理由だ。話せ」


 雄日子の話し方はゆっくりで、落ち着いている。


 言葉は核心を突くように鋭くて、まるで切れ味のよい刃のようだ。


 鋭い問いにふさわしい答えを探そうと、すこし焦った。


「それは、だから……わたしたち一族の身体は、山の下に住む人たちとすこしちがうんだ。下の里の人が〈待っている山〉に足を踏み入れれば、頭が痛くなったり、気が遠くなったりするけど、土雲の一族の人は、その山の上でも暮らすことができるっていうか――」


「身体が、ちがう――。それは、生まれつきそうなのか。それとも、なにか稽古をしたりするのか」


「一族のなかにも、身体が強い人とそうでない人がいて、強い薬を扱ったり、特別な儀礼の手伝いができたりする人は限られている。身体を強くする稽古はとくにしないけど、必ず守らなければいけない掟がいくつかある。そのひとつが、山の下に下りるのは十になってから、という決まりだ。十になったら、わたしたちはすこしずつ山を下りて、山の下の風に身体を慣らすんだ。つまり、わたしたち一族の身体は、里で暮らすあなたのような人の身体とはちがうんだ」


「どうちがうんだ。僕にわかるように説明しろ」


「たとえば――薬の効き方がちがう。わたしたちは、里と山とを行き来する獣を狩ることがあるから詳しく習うんだが、山の下からきた獣を狩るときと、山の上で暮らす獣を狩るときには、別の薬を使う。それに、わたしたちも、山の上で暮らす獣の肉は口にしない。獣の肉そのものがわたしたちにとって強い薬で、食べると身体がおかしくなることがあるからだ」


「獣の肉が、薬?」


「獣の肉だけではなくて、山にもともと生えていた草や、匂いのある泉も、そのまま口にしてはいけない決まりだ。わたしたちが子どもの頃にまず習うのは、〈待っている山〉にもともとあった草や花、もともといた獣の種類と、水の匂い、土の手触り――それに、食べてもいい草花や、獣の種類、飲んでもいい水場のありか、触ってもいい土の種類なんだ。それが自分でわかるまでは、一族の集落の外には出ない」


「つまり――そなたのいう〈待っている山〉というのは、山そのものが薬……もしくは毒だと、そういうことか」


 セイレンは、一言ずつ大切に答えた。


「毒……という呼び方はしない決まりになっている。〈待っている山〉は、いにしえの昔に大地をつくった神が、人が暮らせるように力を使うのを忘れた場所で、わたしたちの一族のおやは、神の里へかえってしまった大地の神から、かわりに地面を清めてくれと役目をおおせつかったと、そう伝わっている」


「なるほど……」


 雄日子は驚いたふうにききいっていたが、うなずいた。


 大地の神まで持ち出した突拍子もない話に、雄日子がすぐにうなずいたのが、セイレンは不思議だった。


「信じてくれるのか。土雲の一族の神と、山の下で暮らす人の神はちがうと聞いていたから、簡単に信じてもらえないと思っていた」


「僕は、そなたたちの山に登ったことがあるからだ。山に生えている草花の種類や土の色が、たしかにほかの山にあるものとちがったと、思い出したのだ」


「ああ、そういえば――」


 雄日子は、土雲の一族が暮らす山に迷い込んだことがあった。


 そこで獣に出くわしたそうだが、そのときに獣から雄日子を救った石媛いしひめの力に惚れこんで、自分の守り人になるように命じたのだ。


「僕は、そなたのいう『山の下で暮らす者』たちから土雲の話を聞いて、その山にいったいどんな人が住むのかと興味をもった。それで、ひそかに足を踏み入れてしまったのだ。だから、そなたの話は信じよう。そなたがいいたいのは、つまり、そなたの身体は毒の山に暮らせるほど強いから、僕たちのように野に住む者とは、もとから身体がちがうというのだな」


「そうだ」


「そして、つまり――こういうことか。そなたの身体には、僕が使った出雲の邪術がうまく効いていないと、そういいたいのだな」


「――そうだ」


「しかし、それだけでは、僕はそなたをそばに置けない。僕は、僕のびとを信じねばならない。そうせねば、背中を見せられず、そばで寝ることもできない。そばに置くのが恐ろしい相手を、僕の守り人にはできない」


「なっ、わたしを守り人にしたいといったのはそっちのわがままじゃ――あ」


 思わず大声を出してから、セイレンはぱっと口をふさいだ。


 慌てて言葉を濁したのを、雄日子は目を細めて笑っている。


「たとえば、術はどのように効かないのだ。いってみろ」


 雄日子は微笑んでいたが、自分のいいたいことは頑として曲げようとしない。


 口調は穏やかで、セイレンの話にも耳を傾けているが、穏やかに見えて人を拒むところもある。


 雄日子を前にしていると、針でつつかれて痛痒いような、目まいがするような、妙な疲れを味わった。


「それは……まず、ときどき頭が痛くなって、目と喉も焼けるように痛くなって――」


「それは、そなたが僕にかしずいていないからだろう。そなたにかけたのは、僕に逆らおうとしたときに働く術なのだから――」


「それだけじゃない! 鼻もきかないんだ」


「鼻?」


「土雲の一族にとって、一番頼りになるのは鼻なんだ。鼻がきかなければ、いい匂いも悪い匂いもわからない。目の前にいる獣が野で暮らす獣か、山の上で暮らす獣かもわからない。そこにいるのが敵か味方かもわからないし、それだけじゃなくて、薬の匂いも感じないから、薬を選ぶことすら、いまはできないんだ。土雲じゃなくて、あなたみたいな里の下の人の身体に変えられたふうなんだ。――こんなの、わたしじゃない!」


 目を見開いて、雄日子を睨みつけた。その目に涙が溜まっていくが、もう止められなかった。


「自分が自分じゃなくなる呪いをかけられてあなたを守るなんか、まっぴらごめんだ。あなただって、戦えなくなったやつなんかいらないだろう? わたしには薬の知恵と武芸しか取り柄がなくて、そのほかは、里でも厄介者扱いをされるようなみじめな暮らしをしていたんだ。取り柄を取り上げられたら、みじめな部分しか残らない。呪いを解くのが駄目なら、あなたの手で殺してくれよ。偉いやつなんだから、わたしに罰を与えればいいじゃないかよ」


 血走った目が向いた先は、雄日子の手に渡した自分の小刀と吹き矢。それを睨みつけながら、さらにいった。


「それで、わたしを殺せ。せっかく築きあげた能がなくなるくらいなら、わたしはもう生きていなくてもいい。――どうせ……すこし前にわたしは一族の手で殺されかけたんだ。それが何日か伸びただけだと思えば、かまわない」


 雄日子は、真顔をしてじっとセイレンの目を見つめている。


 鼻をすすって、声を絞り出した。


「さあ、なにかしろよ。わたしは、あなたの命令に従うのがいやだと文句をいったんだぞ。ますます信じられなくなっただろう? 殺すなり、縛めるなり、なにか罰を下せよ」


「罰?」


「山の下の偉いやつは、そうやって下っ端にいうことをきかせるんだろう? わたしは、このままじゃ絶対にあなたに仕えようとは思わないから、わたしが息の根をとめるか、呪いが働いて身体の半分がなくなるまで、罰を与えればいいよ」


 雄日子は唇を横に引いたまま、ぼんやりとした。


 しばらく沈黙がつづくので、さらにいった。


「罰を与える気がないのか? なら、せめてわたしをここから追い出してくれ。あの邪術であなたが主だと縛られていれば、わたしはここから離れてもおまえに逆らえないだろう?」


「――それはできない。おまえはここにいて、僕に仕えるべきだ」


「そんなこといったって……それはできないって、いまいっただろ? このままここで暮らすのは、絶対にいやだ。あなたの守り人は、藍十あいとお日鷹ひたかも、みんな腕利きの戦い手なんだろう? そんなやつらに混じって暮らさなくちゃいけないのに、なんの役にも立てないなんて、そんなみじめな暮らしはごめんだ。狩人か農婦になるか、もしくは、どこかでのたれ死んだほうがましだ」


 雄日子は目を細めて、うつむいた。手のひらを頬の上に当てて目元を隠した。


「でも、僕はそなたを手放すわけにはいかない――」


「手放すわけにはって……だから、どうせここにいたって、あなたが望むようなことはできなくなったんだってば! ここにいたって、どうしようもないだろう!」


 話がわからないやつだと、また泣きたくなった。


 おまえのせいだ、おまえの!


 大きな声が出そうになるのを、懸命にこらえる。


 雄日子はしばらくうつむいて、あるときため息をついた。


「僕は、これまで、なにかをし損じたことがない。先を読んで、悪いことが起きそうならその芽を先に潰すか、避けるかしてきたからだ。いま僕は、この先に悪いことが起きそうな予感がしている。でも、それと引き換えにしても、そなたをそばに置くべきだとも思う――」


 しばらく黙ったあとで、雄日子の手はセイレンから渡された小刀を手に取り、ふたたび床の上に戻した。静寂の中に、かたりと物音が響く。


 その音が消えてしばらくたってから、雄日子は顔を上げて、セイレンの顔を見つめた。雄日子の顔は、ひどく疲れて見えた。


「――仕方ない……決めた。僕はそなたを信じることにする」


「えっ」


「僕がこれから先にもしも間違いをおかすなら、その原因はいまにあると思う。数か月後になるか、数年後になるか――この先の自分に、こうするしかなかったのだと、僕はいま自分で謝っておく。だから、頼むから僕を裏切るな。僕に、土雲に興味をもったことを悔やませるな」


 雄日子はセイレンの目をじっと見つめていい、自分の腰を探った。手が伸びた場所は、帯に結わえられた小刀。


 小刀を鞘から抜いて、きらりと光る鉄の刃をあらわにさせると、雄日子は刃の切っ先を自分の人差し指に当てた。


 刃の切っ先は雄日子の指の腹を貫いて、青銀色の刃の影に、ぷくりと小さな血のふくらみができる。


「あ――」


「手を貸せ」


 呆気にとられたまま、いわれるがままに手のひらを差し出す。


 セイレンの手のひらが中空に浮くと、雄日子はその手首を掴んで自分のもとに寄せ、血がにじんだ指を近づけていく。


「あの――」


 指と指が合わさって、雄日子の血が、ふたたび肌に染みた瞬間。身体の芯のあたりがすっと軽くなり、急に目の前の景色が明るくなった。


 屋根の下から急に外に出たようで、日射しのまぶしさに目をつむるように目を細める。


 これまで忘れていたらしい感覚の鋭さに戸惑いながら、きっと、あの邪術がかかる前の状態に戻ったのだと気づきはしたが、頭は朦朧として、ろくに考えられなかった。


「あの……術を解いてくれたのか」


 雄日子は、ため息をついた。


「そうだ。血で従わせたやつに、もう一度同じ血を触れさせれば、術は解けるときいている。気分はどうだ」


「――とてもいい。目の前がすっきりしている」


「なら、いい」


 雄日子は真顔をしているが、すこし不機嫌に見えた。


「――なぜ、わたしのいうことをきいてくれたんだ」


「おまえがそうしろといったからだ。土雲の一族の誰かをそばにおくのは、僕の悲願だった。おまえに姿をくらまされたら、この先、僕はとても困る」


「あなたの悲願? 土雲の一族をそばに置くのが?」


「――もういいだろう。おまえは自分の秘密を僕に話すといったが、僕はおまえに僕の秘密を話すとはいっていない」


「そうだけど――」


 目を逸らしてうつむくと、ふと、自分の指が目に入る。日に焼けた指には、雄日子の赤い血がついていた。


 思わず、雄日子の指を探した。雄日子の指先にも、赤い血がついている。


 しゃん、と音がきこえた。見れば、雄日子が小刀を鞘に戻していた。


 雄日子の腕も、目に入る。そこには、できたばかりの傷痕があった。


 離宮に潜んでいた賊につけられたという傷で、その傷を癒すために、セイレンはここへ呼ばれたのだ。


 でも、セイレンはその怪我を癒すどころか、結局、雄日子に新しい傷をつけさせた。


 胸の奥が気味悪く疼くような、奇妙な感じがした。


 雄日子という男が、へんなやつだと思った。


「あなたは――藍十や日鷹たちにかしずかれて、守られているのに、それでも怪我をするのだな。それに……あなたに傷をつけるのは、自分自身なんだ」


 そう思うなり、雄日子がかわいそうに思った。


 ここにいる誰より偉いはずなのに、哀れだ、と。


「あなたは嫌なやつだけど、そこまで嫌なやつじゃないな。わたしは、あなたのことが嫌いじゃない」


 思ったままをいうと、雄日子はセイレンと目を合わせて、それから、声を上げて笑った。


「それは、ありがとう。そなたは正直だな」


 相変わらず、心の底から笑っているのかそうでないのかわからない笑顔だ。でも、だんだん、微笑まれていることがつらくなった。


「あの……賊にやられたという怪我をみるよ。邪術は解けたし、きっといまなら薬を選べると思う。腕をみせて」


 二歩ほど膝を前に進めて、雄日子のそばに寄り、腕をとった。


 その傷は肘から下にまっすぐついていたが、小刀というよりは、爪で引っ掻かれたようなごく細い傷だ。


「武具はなんだ。小刀か? それにしては、かなり浅い傷だが――」


「――獣だった」


「獣?」


「なんというか、獣の姿をした呪いの道具のようだったから、武具ではなかった」


「呪いの道具?」


「この傷は、小さな獣の形をしたものの爪でえぐられたのだ。呪いの道具だから、毒をもっていたかもしれない。どうだ」


「毒だって?」


 咄嗟に、腕の傷に鼻を近づけた。すると、血の匂いの奥に、重い香りが混じっているのを感じる。


「――紫芥子かな……。脈はふつうだし、問題なさそうだけど……息苦しいとか、頭や目が痛いとか、おかしいことはあるか?」


「いや、大丈夫だ」


「これだけだと、どんな毒が身体に入ったのかわからないな――。土露つちつゆで傷を洗って様子をみようか……」


「土露?」


「土雲の一族で一番よく使われる薬だ。毒や強い薬を触った手を洗うのにも使うから、軽い毒になら効き目があると思う。――薬の葉があるから、煮出してくるよ」


「頼む。ありがとう」


 うなずいてから顔を上げると、微笑んでいる雄日子と目が合った。


 すると、なぜか、姉の石媛のことを思い出した。


「――へんなことをいうが、あなたはわたしの姉に似ている気がする」


「それは、喜ぶべきことなのか? だいたい、僕とそなたの姉上の、いったいどこが似ているというのだ」


 雄日子は笑ったが、セイレンも、なぜそんなことを思ったのかよくわからなかった。


「そうなんだけど――」


 そうだ。すべて、気のせいだ。


 でも、セイレンが石媛の話をし始めると、雄日子はさっきまでよりも血がかよったふうに笑った。


「そなたは、僕が考えつかないことを考えたり、口にしたりするのだな。とても、面白い。僕も、そなたといるのが嫌いじゃない。いや、好きだな」


「え?」


 目をまるくして、雄日子の笑顔を見返した。すると、雄日子はぷっと吹き出して目を細めた。


「とても驚いたという顔をしている。そなたは表情がころころと変わって、面白いな」






「じゃあ、いってくる。離宮の門のところにかしぎ屋があったよね。土露を煮出してくる!」


 元気よく声をかけて薦を開け、雄日子の館から駆けだした。


 館の前の庭には、あぐらをかいて待つ日鷹がいる。そばには、藍十もいた。


「ああ、藍十。着いてたのか」


 そばをすり抜けながら話しかけると、藍十は顔をあげて、目をしばたかせた。


「なにかあったのか? 顔が妙にすっきりしてるけど」


 そのとき、セイレンの顔には満面の笑みが浮かんでいる。


 その顔で藍十に笑いかけて、セイレンはいった。


「いま、雄日子に呪いを解いてもらったんだ。そうしたら、あいつのことが好きになった。あいつはなかなかいいやつだな!」


「はあ?」


「あいつの傷薬をつくるから、炊ぎ屋にいってくる。日鷹、案内してくれないか」


「ああ、いいよ」


 日鷹は笑っていた。セイレンに従って腰を上げつつ、藍十に目配せをしている。


「雄日子様はやるねえ。あっという間にセイレンみたいなじゃじゃ馬をてなづけるなんて、やっぱりすごいお方だ。なあ、藍十。――いこう、セイレン。走るぞ」


「ああ、急ごう」


 早足で遠ざかっていく日鷹を追い掛けて、セイレンも颯爽と足を動かして走っている。


 後ろ姿を見送って、藍十はぽかんと口を開けていた。


「さっきまでしょぼくれてたのに――まるで別人だ。あの子を、こんなに短いあいだに味方に取り込んでしまうなんて――ほんとうに、雄日子様はたいしたお方だ……」





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る