馬飼 (2)

 一方、列城宮なみきのみやの外では――。


 列城宮なみきのみやの門をくぐるなり、荒籠あらこはすぐに馬の鞍に飛び乗った。


 それを見ると、背後に続く馬飼うまかいの部下たちがそれに倣う。


「すこし駆けよう」


「もちろんです、お頭。こんな宮、さっさと遠ざかりましょう。河内かわちの馬がくさい? 飛鳥あすかの馬も同じだっていうんですよ。それに、俺たち馬飼がいなかったら、戦も商いもできないくせに、よくいうよ」


「俺より先に文句をいうな。俺だって我慢してやってるんだ」


 荒籠は手綱を振り、早駆けをはじめた。


 飛鳥の地には大きな道がいくつか通っていて、そのうちのひとつを竹内道たけうちみちという。


 竹内道は、飛鳥から西の方角へ伸び、二上山ふたかみやまを越えて、難波の海まで続いている。


 もうひとつは、山辺道やまのべのみち


 飛鳥の都から北へのび、山背やましろの野へ向かう道で、その先にある別の道をつなげて進めば、さらに北にある巨大な湖にたどりつく。


 荒籠が進んだのは、山辺道。


 その先で、落ちあう約束をした男が待っているからだ。


 列城宮の背後にそびえたつ神山、三輪山みわやまのふもとを駆けて、もうすこしいった先が、その約束の場所。


 街道をはずれて人の気配のない山道をいき、茂みをぬけると、部下を引き連れた荒籠は、目印になった大きな岩を目指す。


 その岩の裏に、荒籠を待つ男は潜んでいるはずだった。


帆矛太ほむた、出て来い。荒籠だ」


 声にこたえて岩の影から出てきたのは、齢二十二の青年。


 名を、帆矛太という。


 目立たないように飛鳥風の衣服を着て身をやつしていたが、国へ帰ればそれなりの身分をもつ武人だ。


「すぐにここがわかったか? 何日待った?」


「三日です。――実は、もう待てないと、俺がここにいた印をつけて去ろうと思っていました」


 そういって、帆矛太は地面から草の蔓を拾い上げ、荒籠の目の前に来るように持ちあげる。


 細い蔓をより合わせて縄の形にしたもので、小さな結び目が三つつくられている。


 その結び目の形と数は、帆矛太が、荒籠とやり取りをするために使うものだった。


 帆矛太が差し出した草縄を読み解いて、荒籠は広い肩をすくめた。


山背やましろへいく、か。山背になにがあるんだ」


「山背へいくというか、山背へ戻るのです」


 そこまで話が進むと、帆矛太は腰を落として、地面に片膝をつけた。


 荒籠の前にひざまずく姿勢をとり、顔を上げ、荒籠の目をまっすぐに見つめる。


 そして、口調をあらためた。


「我があるじ高島たかしま雄日子おひこ様より、河内の馬飼首うまかいのおびと荒籠あらこ様にお伝えします。雄日子様が、高島を出発なさいました」


「雄日子様――。あの、高島の太子が? 出発したというのは、どこへ……」


「目的地は、難波。難波の港やみささぎ、そして、あなたが司る河内の牧をご覧になりたいとご所望です。――あらためてお伝えします。あの方が高島を出発なさったのは、あなたが、雄日子様に一度お会いしたいとおっしゃったからです。あなたのお言葉を、高島へ戻ったおりに雄日子様へお伝えしたところ、雄日子様は了承なさいました。雄日子様は、あなたに会うために高島を出たのです」


 荒籠の喉が、ごくりと震えた。


「俺に会うためだと――? そのためにわざわざ、みずから高島を出た? なぜそのような危険な真似を――いま飛鳥でなにが起きているのかを、おまえは主に伝えなかったのか……!」


 雄日子という高島の太子の名は、いまや飛鳥では「災いの名」そのものだ。


 魔物の名を呼ぶように恐れられ、その男が飛鳥に近づいてくるのをどうにか食い止めようと、王宮の貴人たちは兵を集めている。


 息子や夫を兵として差し出す民は、雄日子という名の男を、災いをもたらす魔物そのものとして覚えているだろう。


 荒籠の声を遮って、帆矛太は強い口調でいった。


「あの方は、すべてご存じです。それでも、あの方はあなたに会って話がしたいとおっしゃいました。難波や河内の風景も、ご自分の目で見たいと――」


「しかし、その太子が命を落とすようなことが起きてみろ。とんでもないことになるんだぞ! なんてことだ……俺を高島に呼び寄せれば済んだのに――」


 荒籠は、ちっと舌打ちをした。


「それで、高島の太子は、いま、いずこに――」


「俺がここへくるまでに十日かかりましたから、おそらく、今頃は山背の大川を越えるか、越えないかというところではないかと――」


「それで、山背に戻るといったのか。山背……空の様子は――」


 荒籠は日に焼けた顎をあげて、空を見上げた。


 森に屋根をつくる枝葉の隙間から、春の澄んだ空がのぞいている。


 空の様子をたしかめて、荒籠はふうと深い息を吐いた。


「山背を流れる大川は氾濫すると危ないのだが、幸い、いい季節だ。……わかった、帆矛太。俺もおまえと一緒にいく。できるだけ早く、高島の太子と合流しよう」


「はっ」


 帆矛太は短く答えて、ひざまずいた姿勢のまま目線を下げた。


 一緒に旅立つことを決めると、荒籠は部下に、縄文字を編むように命じる。


 帆矛太が草の蔓を使ったように、荒籠が率いる馬飼には、縄目や置き石、狼煙など、さまざまなものを使って、別の場所にいる者とやり取りをするすべをもっていた。


 それは、荒籠たち馬飼が、あちこちの国に出向いて諸国を回ることが多く、仲間と離れて動くことが多いために生みだされたものだ。


 その技を使えば、馬飼たちは、遠い異国でなにが起きているのかが一目でわかる。


 そして、そのすべは馬飼同士にしか読み解けないものだった。その技を一族以外の相手に伝えてはならないという掟を、河内の馬飼たちはきつく守っていたのだ。


 荒籠に命じられた男の手元で、細く縒られたひもが複雑な結び方をされていくのを、帆矛太は目の前で見ていた。


「荒籠様、誰に、なんとお知らせになるのですか」


「河内の牧にいる親父に届けさせるのよ。俺はしばらく帰らない、とな。――それで、高島の太子のご様子はどうだ。最近、変わったことはないか」


「変わったこととは、どのようなことでしょうか」


「討伐、刺客、なんでもだ。列城宮なみきのみやや難波、朝廷の力が及ぶ場所では、いたるところでよくない噂ばかりをきくからな。雄日子を討てだの、殺してしまえだの――」


 帆矛太はふんと鼻で笑い、立ちあがった。


「追討軍がくるのも、刺客に狙われるのも、雄日子様にとってはいつものことです。列城宮の連中が、あの手この手で雄日子様を亡き者にしようとしていますからね」


「やはり、そうなのか――。それだけ、飛鳥の連中が焦っているということだろうが――」


 荒籠はじわりとうなずいた。


「あと、気になることがあってな。難波のみやの連中が妙な動きをしている。霊し宮に、軍長いくさのきみが出入りをしているのを見た奴がいるし、それに、香木や人が運び込まれるのを見た奴もいる。きっと、大がかりなまじないの支度だろうな。――さっきも、列城宮に霊し宮の男が二人いたのを見たが……春日姫と大臣に呼ばれた様子だったから、おそらく、そいつらも雄日子様の命を狙っているのだろう。追討軍と刺客では雄日子様がしとめられないから、妖術を使えとのことなのだろうが――。雄日子様に、なにごともなければよいが……」


「妖術、ですか――。それなら、雄日子様がすでに動いておられます。雄日子様のおそばに、牙王という男がおります。出雲の邪術師で、雄日子様がその国より呼び寄せたのですが――」


「ほう、出雲の――。出雲という国には、いにしえから伝わるまじないが多くあるときくが……」


「ええ、そうです。さすがですね。遠い異国の事情によく長けていらっしゃる。それに、雄日子様がそばに置こうとしたのは出雲のまじない師だけではありません。――土雲つちぐもの一族というのを、ご存知でしょうか」


「――いいや」


「土雲の一族というのは、人が足を踏み入れることができない霊山に住み、薬と毒を自在に操る類まれな一族なのだそうです。里者の噂では、いつのまにか山の上に里をつくって、いつのまにか去っていく不思議な連中で、毒を飲んでも死なず、矢が当たっても傷はすぐに癒えるのだとか」


「なんだそれは、土雲の一族というのは、不老不死の神仙か」


「わかりません。でも、そのようなものかもしれません。とにかく、普通の人とはかけ離れた一族のようです。――その一族の姫が、雄日子様のそばについているはずです。呪いは出雲の邪術師が、毒はその娘が追いやるでしょう」


 荒籠は苦笑して「それは、面妖な」といった。


「雄日子太子か――。陸路と水路が交差する高島で、太子として生まれ、大陸への海路を司る高向で育ったその男は、いまや、出雲の邪術師と、土雲の姫とかいう奇妙な民に守られている――というのだな。そこへ、俺が――諸国を行き来する馬飼集団が従えば――」


 くっと鼻を鳴らして荒籠は笑い、周りでじっと押し黙る部下たちを見回し、力強くいった。


「面白い、国が変わるぞ。やはり、時が来ているのだ。――かつて大和には、仁徳聖王にんとくせいおうと、雄略武王ゆうりゃくぶおうという二人のすばらしい王が生まれた。しかし、時が過ぎ、この大国には、王たる王が長らく存在しない。いまや、飛鳥は、大王おおきみという名を掲げただけの、腐りきった蛇の巣のようなものだ――わかった、帆矛太。俺は、高島の太子の賭けに乗った。いまこそ、世の中を変える時なのだ。では、山背へいこうか。いま、この世でもっとも大王にふさわしいといわれる男が、いったいどんな男なのか、この目でたしかめにいこう」


「はっ」


 部下たちは姿勢を正し、声を揃えた。



  ◆  ◇    ◆  ◇    ◆  ◇



 その晩、セイレンは、石媛いしひめの夢を見た。


 石媛が目の前にいると思ったら、姿がきゅっとしぼんでいき、石媛は、セイレンの目の前で、手も足もない小石に変わってしまった。


「どうしたの、石媛――。石媛? 石媛!」


 自分そっくりの顔をした双子の姉が、ちっぽけな小石に姿を変えていくのは、とても不気味な光景だった。


 でも、それ以上におかしいと感じることもある。


 それで、思い出した。


 この光景は、前に見た夢の逆だ。


 前の夢では、姿が小石に変わったのはセイレンのほうだった。


 でも、いま小石になっているのは石媛。


「石媛、どうしたんだよ。あんたは一族の聖なるお姫様だろ? たとえ夢の中でも、あんたを石にしちゃったら、後でわたしが叱られてしまうよ。なあ、石になる役をわたしに代わってくれない? あんたは着飾って、偉そうにしてなくちゃ――」


 土雲つちぐもの一族では、双子の姉妹は不吉だ。


 だから、双子が生まれた家では、姉だけを育てる習わしがある。


 妹のほうは早々に殺すか、「災いの子」として里子に出される。


 セイレンは「災いの子」――不吉な存在として育てられたので、いつも姉の影にいた。


 同じことをしても、褒められるのは石媛。


 叱られ、けなされるのはセイレン。


 もしも石媛が間違いをおかしても、石媛は間違いをおかすはずがないといって、セイレンがそそのかしたせいだと罪を着せられる。


 そのせいで、処刑されかけたことすらあった。




 だから、たとえ夢の中であれ、石媛が自分よりもみじめな姿になっているのが奇妙だった。


「石媛、あんたが石になる夢なんか見ちゃってごめんね。すぐに目を覚ますからさ」


 地べたに転がった小さな石粒に向かって、話しかける。


 小石になった石媛は、石のなかで泣きじゃくっていた。



 あなたは、土雲の掟を破ったのね――。

 雄日子おひこ様に、土雲の秘密を話してしまったのね――。

 


 胸が、ぎくりと鳴った。


「それは、そうなんだけど――。でもさ、わたしはもう土雲をやめることにしたんだ。もう里には帰らないし、だから――」


 〈待っている山〉や土雲の暮らしのことを、一族のほかの人に話すのは禁じられている。


 それはよく知っていたから、悪いことをしたという覚えはあった。


 でも、これまで散々ひどい目にあってきたんだから、それくらい逆らってもいいじゃないかと、抗いたい気持ちもあった。


 小石になった石媛は、石の形を震わせて責めた。




 土雲をやめたなんて、うそ!

 異国の邪術を解いてもらったじゃないの。

 あの術がかかったままだったら、あなたは里者の身体になれたのに、それを拒んで、土雲でいることを選んだじゃないの!




 あまりの剣幕に驚いて、後ずさりをした。


「突然どうしたの? それに、なんの話?」


 石になった石媛は、泣きじゃくりながら喚いて、うなだれた。




 セイレンは、ずるい――!

 いやになったら里を出ていけるじゃない。

 私は、里にいるしかできないもの。

 もうあなたがいないから、ひとりで罪をつぐなわなければいけないもの。あなたの分まで――。




「わたしの分まで、罪を、つぐなう?」


 いったいなんの話だ。


 そう思っていると、肩を揺すられた。


 藍十の声もする。


「セイレン、セイレン」


 はっと目を開けると、そこには、満天の星が広がっていた。


 馬の鳴き声や、近くで寝ている連中のいびきや、寝返りをしている物音――。


 夜の気配は静かだが、耳を澄ませば、小さな物音はそこらじゅうから聞こえた。


 セイレンが寝そべっていた場所は、大樹の根の上。


 隣に藍十あいとおが寝転んでいて、セイレンの肩に手を置いている。


 ふわあ――。大きなあくびをして、藍十は隣で伸びをした。


日鷹ひたかと交代だ。雄日子様の天幕にいくよ」


 離宮を出て、難波を目指した雄日子の一行は、ほとんどの夜を野宿で過ごすことになった。


 セイレンも藍十と一緒に木の根を枕にして眠っていたが、雄日子のそばにつく守り人には夜の番というのがあって、誰かが必ず起きて、寝ずの番をするのだそうだ。


 その、寝ずの番が回ってきたというので、藍十はセイレンを起こしたのだ。


「しんどいけど、雄日子様を守るためだし仕方ないよな。その代わり、なにもないときは勝手に昼寝をしてもいいってことになってるから、隙をみて休めよ」


 藍十は眠そうにあくびを何度かしたけれど、笑っていた。お役目の頼み方もうまかった。


 相変わらず藍十は親切だったので、セイレンは藍十といるのが好きだった。


 藍十が「こうするんだ」と教えてくれることなら、ひとつひとつ覚えていきたいとも思った。


「ちゃんと休めたし、大丈夫。星空もきれいだし、起きていても退屈しなそうだな」


 さっそく起きあがってこたえると、藍十はふふっと笑った。


「セイレンって、こうと決めたら文句をいわないほうなんだな。我慢強いし、心強いよ」


「持ち上げてるつもりか? 文句をいう必要がないからいわないだけで、いいたいときにはいつでもいうよ」


「そうだった。それがセイレンだ。――じゃあ、いこう」


 夜の番をすれば、眠る時間が半分になる。


 真夜中まで眠れなかったり、真夜中に起こされたりするのは楽な役目ではなかったけれど、藍十や日鷹と一緒だと思うと、決してつらいとは感じなかった。


(わたし、山を下りてよかった。雄日子の守り人になれてよかったんだ)


 そんなふうに思うことも増えた。


 雄日子の天幕が建つ場所まで連れだって歩きながら、小声で話をした。


「おれ、なんかへんな夢を見た気がするんだよね。でも、どんな夢だったか忘れちまった。どんな夢だったかなぁ」


 藍十がそういって首を傾げるので、セイレンも話に乗った。


「そういや、わたしもへんな夢を見たな。どんなだっけ――。たしか、姉が出てきた気がするんだけど……」


「姉って、双子の姉の、土雲のお姫様だっけ」


「うん、石媛っていうんだ」


「ふうん、どんな夢?」


「それが――忘れちゃった」


 藍十と並んで歩いているあいだ、セイレンは夢の内容を思い出そうとした。


 でも、美しい星空を見上げたり、藍十とふざけたりしているうちに、さっき見た夢はすっかり遠のいていった。

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