血の契り (2)
出発の日。高島の宮の門前には、百人近い人の列ができていた。
「馬には乗れ――ないよな」
セイレンの世話役を買ってでたのは、
軍人ばかりの行列の中で、藍十は、雄日子の周りを囲む騎兵の中にいた。
藍十は馬に乗っていたので、ちょうど、ぶすっとした渋面をするセイレンを見下ろす位置にいる。
目を合わせて苦笑したのち、藍十は鞍からひらりと降りた。
「おれの馬にはおまえが乗りな」
「なんでわたしが――」
「稽古に決まってるだろ? まずは鞍の上に座ることに慣れないとな。おれが手綱を引いてやるからさ、ほら」
「わたしは、こんな獣に乗れなくてもいいってのに――」
やりたくもないことを、無理に稽古しろといわれるのは億劫だった。
でも、仕方なく、藍十がいうとおりのやり方で鞍にまたがってやることになる。
そこには百人ほどが集まっていたが、馬に乗っているのはそのうち二十人ほど。
どの馬にも鉄製の馬具がついていて、日射しを浴び、きらきらと輝いている。
鞍の両側、馬の腹のあたりに円い馬具が垂れていたが、藍十の指はまずそれを指した。
「まず、足を
いわれたとおりに鐙というものに足をかけて、どうにかよじ登る。
鞍にまたがると、誰かに肩車をしてもらっているような高さになるので、一気に視界が開けた。
これまで見上げていた藍十の目が急に低くなり、道の周りで青々と茂る稲田も、ずっと遠くまで見えるようになる。えんえんと彼方まで連なる稲田は道に沿って広がっていて、その先にはきらきらと光る水面が見えている。湖だ。
「気分はどうだ?」
足元から、にこやかな声が聞こえる。つい、しかめっ面をした。
「まだ頭が痛い」
「またそれかよ。おれは、馬に乗った気分はどうだときいたんだ。どうだ? けっこういい眺めだろ」
「それは、うん、まあ――」
「馬に乗って自在に駆けられるようになったら、もっと気持ちいいよ。すこしずつ教えてやるから、しっかり覚えろよ」
ふと、後ろからざわめきが近づいてくる。振り返ると、人の列をよけさせながらやってくる騎兵がいた。
その馬の胴には二本の槍がぶら下がり、鞍に乗る武人の腰にも、年季の入った古い剣が下がっている。
藍十の馬にセイレンが乗っているのを見ると、その騎兵は近づいてきて馬の足をとめた。
「藍十、おまえの馬はこの子に乗せるのか」
「ああ、おやっさん。いい稽古になるだろ。いまにこの子も、馬の乗り方を習うだろ?」
「いい考えだが、その馬はおまえのものではなく、雄日子様からおまえがお借りしている大切な馬だ。そのことをよく覚えて、大事が起きたときに馬を駆ることを忘れるなよ。稽古で戦の邪魔をしてはいかん」
「わかってるよ、おやっさん」
藍十と目を合わせて、赤大はうなずく。そして、馬の腹を軽く蹴って、ふたたび前のほうへと列を追い越しはじめた。
「いま、叱られたのか?」
「全然。こんなの、叱られたうちに入らないよ。話しただけだ」
ははは、と藍十は屈託なく笑う。
藍十はセイレンに愚痴をいわれても、赤大から小言をいわれても笑顔を崩さなかったが、いまもにこにこと笑っている。
「藍十っていつも笑ってるな」
思わず苦笑すると、藍十は「おっ」と目を丸くした。
「セイレンは、やっと笑ったな」
「え?」
「知ってるか? 誰かを笑顔にさせたかったら、まず自分が笑わなきゃだめなんだ。セイレンが笑ったから、いまのはおれの作戦勝ちだな」
「おまえの勝ち? わたしは、おまえと勝負をしたつもりなんか――」
「ああ、おれが勝手に仕掛けた勝負だから、セイレンは負けてないよ。誰も負けてないけど、ただおれが勝ったと思ってるだけだ」
「へんなやつ。勝手に――」
「怒るなよ。べつに、誰にも面倒はかけてないだろ?」
いい合いをしているあいだも、ずっと藍十は笑っていた。
へんなやつ――。
そうは思ったが、一緒にいると、だんだん自分の顔がほころんでいくのが自分でもわかる。
警戒をといていくセイレンをときどき見やって、藍十が満足そうに目を細めるのも、見ていていやな気はしなかった。
(やっぱり、へんなやつ。こいつは、あんまり裏表のないやつなのかなあ。シシ爺みたいな男かな)
ふと、薬の扱い方や、戦い方を教えてくれた長老の爺のことを思い出した。
土雲の一族で、セイレンは厄介者扱いされていたが、シシ爺というその男や、里親になったフナツは、いまの藍十のように自然な笑みを浮かべて、セイレンのことを気遣ってくれた。
(雄日子の守り人、か。あの里にずっといて妙な扱いを受けるよりは、まだこっちのほうがましなのかな)
そう思った矢先のこと。雄日子の笑顔を思い出した。
にこりと微笑んで、人差し指ににじんだ血を近づけてきたときの、とても穏やかな笑顔。
その笑顔の裏でセイレンを陥れて、呪いをかけた――。
思わず、額をおさえてうつむいた。
「どうした、セイレン。まぶしいのか」
「ちがう。頭が痛いんだ。――おさまれ」
ずき、ずきとこめかみが痛んだ。
息を大きく吸って、吐いて――。
むりやり息を整えて、どうにか痛みの波を乗り切ると、閉じていたまぶたをおそるおそる開けていく。
慎重にまぶたを開けたとき、目の前の景色は、ぼんやりとかすんで見えた。白い色がついた風が、自分の目の前だけに吹いているようだった。
心を落ち着かせて、二度、三度とゆっくりまばたきをくりかえす。そうしていればいまにおさまると、この二日のあいだに覚えていたからだ。
でもそれは、乗り切り方を覚えられるほど、同じ痛みや苦しみを何度も味わっていたからだ。
(なにが「慣れる」だよ。おさまるどころか、ひどくなってるじゃないかよ。鼻もきかないし。――困ったな。これじゃ、薬が選べない)
「大丈夫か、セイレン。おさまったのか?」
「おさまったが――まだ鼻がきかない」
「鼻? 鼻がきかないってそんなに大事なことなのか?」
「大事だよ。土雲の一族じゃ――いや、おまえに話してもわからないだろうな」
土雲の一族にとって、匂いを嗅ぎわけるというのはとくに大事な力だった。
薬の調合や、日々の煮炊きにはもちろん、飲んでもいい水や、食べてもいいもの、いってもいい場所をたしかめるときも、土雲の一族はまず匂いで調べる。もっといえば、鼻を使わない暮らしをセイレンは知らなかった。
でもそれは、口にしてはいけないものや、足を踏み入れてはいけない場所が多い山里ならではの知恵だ。
(土雲の暮らしを、藍十たちがわかるわけない。こいつらは〈待っている山〉の下――清浄の地で暮らしているんだから)
ため息をついたとき。
行列の前で、しゃんと鈴の音が鳴る。すると、列に並ぶ武人たちがいっせいに顔を起こした。姿勢を正して、馬に乗ったり荷物を担ぎ直したりして、支度を整えていく。そして――。
「出立する」
前のほうで誰かがそういい、その言葉のやまびこをつくるように、あちこちで男たちが同じ言葉を繰り返した。
「出立する。支度をせい!」
はじめにきいた男の声は、耳に覚えがあった。
「いまの声、赤大?」
「ああ、そうだよ。おやっさんは雄日子様の守り人の長だからさ」
「守り人の長――」
「守り人の長は、護衛軍の長も兼ねるから――」
「護衛軍?」
「ここにいる連中だよ。ここにいるのは、旅のあいだに雄日子様を守るために集められた武人で、
「ふうん――?」
「そろそろ出発だ。おれが手綱を引くから、セイレンは座ってろ。まずは、馬の揺れに慣れるところからはじめよう」
武人の列が進みはじめると、藍十は馬の口を覆う
藍十の表情は明るかったし、手さばきも丁寧だった。
馬に乗りたいなどと願った覚えはなかったし、乗り方を覚えろといわれてもいまいちぴんとこなかった。
でも、藍十が親切に、覚えやすい方法をとってくれているのだということはなんとなくわかる。
「――ありがとう」
馬上から声をかけると、藍十は振り仰いで、いっそうにこやかに笑う。
「どういたしまして」
男ばかりの一行の歩みは、速かった。
まもなく、出発を待って立ち止まっていた高島の宮は背後に遠ざかり、一行は高島の都から旅立った。
その晩は、野宿だった。
湖に沿って一日歩いた先に小さな離宮があって、雄日子と角鹿はその離宮で休むという。
でも、一緒に旅をする武人の大半は離宮の門をくぐることなく、湖畔の岸辺へ向かった。武人の数が多すぎて、小さな離宮には入りきらないのだ。
「まずは場所とりだ。松の木の下がいいかなあ。ほどよく雨風がしのげるし、落ちてくる虫もすくないし。おれたちは馬も一緒だから、水際よりも道に近いほうがいいかな」
手綱を引いてふさわしい場所を陣取ると、その場所に腰をおろしてくつろぐ。
周りの武人たちは、草むらに石を集めてかまどをつくったり、火を起こしたりして夕餉の支度をはじめたが、藍十にそれに混じる気配はない。
それどころか、散歩にいくといいだした。
「湖を見てこようか。風が気持ちいいし、もうじき日が暮れるから夕焼けがきれいだよ」
「夕餉の支度は手伝わないのか?」
「ああ。おれはしなくていいことになってる。野宿も久しぶりだよ。いつもは雄日子様と一緒に館に入って眠るからさ」
「じゃあ、なんで今夜は野宿なんだ?」
「そりゃあ、おまえのせいだよ。おやっさんから、セイレンの世話を任されたからさ」
「わたしの世話?」
「ああ。おまえが変わってるせいだぞ? おまえを宮の中に入れるのはまだ早いとかでさ、礼儀を叩きこめっていわれてる。角鹿様からもいわれたっけな」
「礼儀? 土雲の一族流なら、わたしはじゅうぶん礼儀正しいよ」
むっと眉をひそめたセイレンの顔を、藍十は笑った。
「だよなあ。霊山にすむ一族、土雲だもんな。セイレンの礼儀は、おれたちにはわからない礼儀なんだろうな」
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