血の契り (1)
怖い、怖い、怖い。
わたし、どうなったの――。
セイレンは、暗い淵の底に沈んでいく夢を見ていた。
自分の手や足の形、顔や背格好が思い出せなくて、自分が人という生き物ではなくて、小さな石にかわってしまった気がした。
正面に、なぜかぽつんと石媛が立っていて、石の粒に姿を変えたセイレンを蔑むような目で見つめていた。
「あなたは私の双子の妹で、生まれてきてはいけなかったの。だから、そのような姿になるしかないの。あなたは、私の影になるしかないのよ」
それを聞いたとたんに、かっとなった。
そうか、あんたのせいか。
これも、みんな、あんたのせいか――。
こんなに暗い淵の底にいるのも、小さな石粒に変わってしまったのも、すべてあんたのせいなのか――。
「わたしのせいだと? ちがうね、あんたがわたしより先に生まれたせいだ。なにも知らずに生まれたら、なぜ生まれてきたのだと、かあさまと婆様から憎まれたんだ。わたしのかわりにさんざんいい思いをしているくせに、あんたが、わたしを責めるな!」
「そんなことをいったって、あなたは不吉なの。ほら、真っ黒。――不吉が私にまでうつってきてしまうわ。あっちへいってちょうだい」
石媛の目はかえって冷たくなる。
セイレンの周りに、黒ずんだ血の色に似た赤黒い炎が生まれていて、ごうごう音を立てながら燃えていた。火の不気味さと熱に苦しんで、セイレンは、手足がなくなった石の身体を懸命に震わせつつ、身悶えた。
わたしになにをする。
これ以上、わたしを好きにするな。勝手をするな。
もう、放っておいてくれ――。
目を覚ますと、若い青年と目があった。
セイレンは小屋の中に寝かされていて、横たわるセイレンを囲むように覗きこむ顔がいくつかある。
セイレンが目を開けるのを目ざとく見つけた青年が、小屋の外に呼び掛けた。
「待て、
すると、小屋の外から背の高い若者が戻ってきて、遠くから顔を覗き込んだ。
「お、本当だ。わかった」
覗きこまれるので、セイレンもその若者と目が合う。目が合うなり、若者は背を向けて、小屋を出ていったが。
(誰?)
「セイレン」と名を呼ばれてはいるが、どちらの青年の顔にも覚えはない。
「セイレン、気はしっかりしてるか。大丈夫か」
声がしたほうを振り仰ぐと、セイレンの枕元にいた若者がセイレンを見下ろして笑いかけている。
その若者は齢が二十歳くらいで、
人が良さそうな笑顔や、「大丈夫か」と呼びかける仕草が、
自分を覗き込む青年の顔を、じろじろと見あらためた。
土雲の一族では、髪に小さな飾り布を五つはくくりつける風習があるが、目の前にいる青年は髪を首の後ろでひとつにくくっていて、見慣れた髪形ではなかった。
顔も知らない。会ったことのない人だ――。
それなのに、気安く名前を呼ばれていることにすこし腹が立った。
「――わたし、あなたに会ったことがあるか?」
「いや、ないよ」
「じゃあ、どうしてわたしの名を知ってる」
「あんたの名は、角鹿様からきいたんだ」
「角鹿――。いやな名をきいた。寝ざめが悪い……」
もはや、記憶よりも耳のほうがその名を嫌がっていたので、きくなり気分が悪くなる。
敷布の上で耳を塞ぐように身を丸くするセイレンを見下ろして、青年は目を丸くする。でも、笑った。
「そういう顔をするなって――まあ、仕方ないか。きいた話じゃ、ひどい目にあったみたいだしなあ」
「――あなたは誰だ」
「そう警戒するなって。おれの名は
「高向? 武人?」
「ああ、高向。
「雄日子――。さらにいやな名をきいた……」
しばらくして、寝ているのに飽きて起きあがろうとすると、目まいがする。目を庇うようにうつむくセイレンを、藍十は気にした。
「無理するなよ。出雲の契りをしたところなんだろ」
「出雲の契り?」
「異国の邪術だよ。
「牙王……また、いやな名を――。出雲の邪術って、あれか。血を使うやつか。――あれ、夢じゃなかったんだ」
ため息をついて、人差し指の腹を見下ろした。そこには、赤い血がついた痕がある。
藍十はセイレンの指を覗き込んで、「へええ」といった。
「それが契りの痕? 血を使うとは聞いてたけど、そんななんだな」
「あれはなんだったんだ? たしか、わたしの主を雄日子にする呪いとかいっていたが――」
「悪いな、おれはよく知らないんだ。もうすぐ詳しいやつが来るからさ、その人に聞いてよ」
「詳しいやつ?」
「
「赤大? 日鷹――悪いが、すぐに覚えられそうにない。いろんなやつに会って、頭の中がおかしくなってる。――あなたは、藍十だっけ」
「ああ、藍十。高向の藍十だ。よろしく、セイレン」
仲良くする気などなかったし、そのように明るいあいさつをする気分でもないのに、藍十はにこりと笑って手を差し出してくる。
仕方なく、渋々手を伸ばした。
「――よろしく」
「そんなにいやそうな顔をしながら握手するなよ。これから背中を向け合って戦うかもしれない仲間だぞ?」
「仲間? ――ああ、守り人ってやつか」
「守り人ねえ――」と、ため息まじりにつぶやいた。
仕える相手だという雄日子に会ってからというもの、そんなものになんかなりたくないという気持ちは、かえって強くなっているというのに――。
「仕方ないだろ、いやいやなんだよ。そのうえ、わたしの身体に妙な真似をしやがって――最悪だよ」
藍十は目を丸くした。
「もしかして、おまえ、雄日子様のことを知らなかったのか?」
「三日前に初めて名前をきいたよ。会ったのは今日がはじめてだ。最悪な奴だった」
「そういうなよ。あんなにいい主はなかなかいないって」
「どこがだよ」と難癖をつけたかったが、藍十がにこにこ笑うので口をつぐんでやる。
藍十はセイレンに興味があるようだった。
「セイレンって、土雲の一族の姫なんだろ」
「姫なのは双子の姉だ。わたしは、その妹」
「あ、そうなんだ? どうりで――土雲の一族っていうののお姫様がうちに来るってきいてさ、どんなにおしとやかな娘が来るんだろうって楽しみにしてたら、案外たくましそうな感じでさ、驚いてたんだよね」
「――悪かったな」
「別に悪くないよ。かえって頼もしいよ。土雲の一族のことは詳しく知らないんだけど、里の奴にきいたら、なんでも、高島の国が栄える前からこのあたりに住んでいて、里を守るために山で暮らしている不思議な一族だって――あ、来たかな」
藍十が小屋の外側を気にし始める。足音が二つ、近づいていた。
しばらくして、小屋の中に入ってきたのは三十半ばほどの男と、さっきまでここにいた若者。藍十が話したとおりだとすると、名は赤大と日鷹だ。
「おやっさん、セイレンだよ。見た感じ元気だけど」
赤大という男は藍十と似た格好をしているが、帯や帯から下がる剣などは、藍十のものより古めかしい印象がある。
男は枕元までやってくると、そこにあぐらをかいて名乗った。
「あなたのことは三日前に聞きました。私は赤大といって、雄日子様の守り人の
「――セイレンです」
互いに挨拶を済ませると、赤大はセイレンの指先を見下ろしてため息をついた。
「まさか、あなたのような若い娘を従わせるのに、雄日子様が邪術まで使うとは思っていなかった。気分はどうだい」
「気分? 最悪だよ。訊きたいんだが、わたしの身体はどうなったんだ。出雲の契りだっけ? その邪術っていうのはいったいなんなんだ?」
「聞いた話だが――あなたがされたのは、出雲という異国に伝わる呪いの一つで、心を縛めるものだそうだよ。その契りを交わせば、あなたは契りを交わした相手、つまり雄日子様に逆らえなくなる。もしも雄日子様を裏切れば、あなたは身体を半分失ってしまう。頭と目、喉が焼けて使えなくなるそうだよ」
「なんだそれ――なんておっそろしい真似をしやがるんだ」
赤大はうなずき、宥めるように話を続けた。
「若は、それほどあなたの技を凄まじいと思ったのでしょう。武勇伝を聞いたよ。三つ数える間に三人倒したそうだね」
「それは、あいつがやれっていうから――」
「若は、あなたの技に惚れ込んだんだ。あなたは若に、それほどそばに置きたいと思わせたんだよ。あなたはいやだろうが、同じ守り人としては、私はあなたが羨ましい」
「羨ましい? どこが――。わたしが気に入ったんなら、腰を低くして頼み込めばいいんだ。それを、罠にかけるような真似をしやがって――。こっちがあいつを信じられないよ」
「そうだろうが――。若が血の契りをなさったのは、あなたが二人目だ。ここにいる間は、それを誇ってください」
「そんなの、どこが誇らしいんだか。――わたしが二人目ってことは、もう一人はどんな奴なんだ。わたしみたいに、あいつのことをよく知らずにつれてこられた奴が、他にもいるのか?」
「その人は、そうではないね。邪術で縛めてくれと、みずから若に頼んだはずだから」
「みずから? そんな馬鹿がいるのか」
「馬鹿、ではないが――角鹿様だよ」
「角鹿って――雄日子のそばにいた、あいつ?」
「ええ。あのお二方にはやんごとなきご事情があって、角鹿様はそのために契りをされたようだよ。とにかく、若はそれほどあなたの力を気にいって、頼りたいと思ったのでしょう。あなたにとってはいい気がしないだろうが、雄日子様は素晴らしい若君です。きっと今に、心からお仕えしたくなる時が来ます。そのときまで、いえ、その後も、我々ともどもよろしくお願いしますよ」
赤大はあぐらをかいたまま、ゆっくり頭を垂れていく。
「こちらこそ」と渋々頭を下げながら、セイレンはぼやいた。
「――あいつも、あなたみたいに頭を下げて頼めばよかったんだ」
「それはむりだ。あの方は頭など下げませんし、下げてはいけないお人だからね」
「なんでだよ」
「それは――いまに、この国の長になる方だからだよ」
「この国の長?」
「
「大王? なにそれ」
「大王というのは――高向も高島も、その先にある
「――初めて聞いたことばかりで、よくわからないよ」
セイレンはうつむいた。その後、ずきっとこめかみが痛んだ。
「頭が――」
「どうしたんだ」
「痛いっていうか、気味悪いっていうか――。ちくしょう。絶対、あの妙な契りのせいだ」
「出雲の邪術のせいだと?」
「頭の中がすっきりしない。目もすこしおかしい。目の前の景色が、霞がかかってみえる」
何度もまばたきをした。
目の前にだけ、白い色がついた風が吹いたようで、赤大の顔が白く濁って見えていた。
目がおかしい、と、げんなりしていても、しばらくするとはっきり見えるようになる。
「ずっとおかしいっていうわけじゃ、なさそうだけど――」
くんと鼻を動かして、ちっと舌打ちをした。
「鼻も効かない。――やっぱり、あの技のせいだ」
どさっと寝床に背中から落ち、寝転んだ。
赤大は神妙な面持ちでじっと耳を傾けていたが、しばらくするとゆっくりいった。
「慣れの問題だろう。いずれおさまるよ」
「簡単にいうなよな」
セイレンは文句をいっておく。それから、赤大と藍十に背を向けて掛け布を引き寄せた。
「勘が鈍るから、そうあってほしいよ。早く治したいから、わたしは休む」
「――そうしなさい。あと二日あるから、それまでに慣れるように祈っておくよ」
「あと二日って、どういう意味だ」
寝床の上から見上げると、赤大は隣に座る藍十と目を合わせる。藍十は肩を落として「たぶん、この子は聞いてないと思う」と小声でいっていた。
「藍十、答えてよ。なにが、わたしは聞いてないって? あと二日でなにがあるんだよ」
「二日後に、この宮を出て
「難波?」
「おやっさん、たぶんこの子、難波がどこかも知らないと思うよ。雄日子様のことも知らなかったんだし」
「土雲の一族だものなあ――。
藍十と赤大はひそひそと話していたが、目を丸くして見上げていると、赤大が苦笑した。
「そんなに口を開けて――餌を待つ
「聞いてないよ」
「ああ、いまいったよ」
「二年? なんてこった――もう、みんなあいつのせいだ」
布団にくるまり直してそっぽを向く。赤大は小言をいった。
「あなたは珍しい理由で守り人になられたから、今のところ見過ごしているが、守り人となり、私のもとであの方のために働くなら、雄日子様を悪くいうな。見逃すのは今だけだから、今後は控えてもらわないと――」
「ちがうよ。いまわたしがいった『あいつ』ってのは雄日子じゃない」
「じゃあ、誰だ」
「いわないよ。でも雄日子じゃない。――もういいだろ? 休みたいから、一人にしてくれ」
セイレンは、寝がえりをうって赤大と藍十に背を向けてしまった。
遠ざけるような態度に、赤大は大きなため息をついた。
「あまり人づきあいがうまい娘というわけではなさそうだな。土雲の一族は変わった連中が多いと聞いていたが、雄日子様の気まぐれにも困ったものだ。――いこう、藍十」
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