雄日子 (3)
セイレンを連れて、雄日子が次に向かった先は、大きな屋根のある館。
館の入口は、
その館を真下から見上げると、まるで高い崖を見上げているようだった。
そういえば、高島の宮というこの宮を目指して歩いているときに、遠くからでも目立つ大きな屋根に驚いた覚えがある。
(あれが、これか)
あのときは、この屋根が木の板に見えるほど遠い場所にいたのに。
ずいぶん遠いところまで来てしまったものだ――。
真上を見上げてぼんやりしていると、雄日子から声がかかった。
「どうしたんだ、セイレン。その先は、
「――ここは、あなたの館なのか? 首が痛くなる館だな」
「そなたは素直だが、一言多いな。ああ、ここは僕の館だ。どうぞ、セイレン」
雄日子は高慢だったが、偉そうにふるまっていても、ほかの人がするよりはまだましだった。
雄日子はセイレンの愚痴にいちいち機嫌を損ねなかったし、それどころか、みずから階をのぼって、こうやって進むのだと見本を示している。
高床の広間に足を踏み入れた後は、奥に敷かれた織物の上にセイレンを座らせた。
「そなたの席はそこだ」
「ありがとう――。どうやって座るんだっけ。両膝をついて、額が床に触れるくらい下げればいいんだっけ」
「ふつうに座ってよい。その姿勢で座るのは、なにか大事なときか、客がいるときだけでいいよ」
雄日子は笑って、セイレンの前を通り過ぎ、館の一番奥の壁際まで進んでいく。そこに敷かれてあった飾り布の上に腰を下ろして、あぐらをかいた。
「そこは、あなたの場所?」
「ああ、そうだ。上座といって、高島では、位が高い者は広間の奥に座る習わしがあるのだ。もしもそなたが、誰か位の高い男と一緒に座ることがあったら、一番奥は位が高い男に譲りなさい。僕の守り人なら、そういうときも訪れるだろうから」
「――ふうん」
自分もあぐらをかきながら、すこしくすぐったいような気持ちになった。
「あなたは、この国で一番偉い男なんだろう?」
「一番ではないが、偉いほうだな」
「あなたよりも偉い人がいるの?」
「僕は、若王という立場だ。王として王宮にいる男が一番偉い男だろうな」
「じゃあ、あなたは二番目に偉い人?」
「さあ、どうだろうな。でも、たいていの者はそう思っているだろうな」
「ふうん――。でも、あなたは偉い人なのに、とても面倒見がいいんだな。丁寧に教えてくれるし、偉ぶっているけど腹が立つほどじゃないし、優しいな。うちの一族の長とは大違いだ」
愚痴混じりにいうと、雄日子は吹き出した。
「僕が、優しい? 素直なそなたにそういってもらえると嬉しいな。ありがとう」
肩を揺らして、雄日子はしばらく笑った。
雄日子の館の入口には、中と外を隔てる薄布がかかっていた。やってきた
「角鹿です。
「入れ。すぐに始めろ」
角鹿は、男を一人連れていた。
その男は角鹿よりも背が低くて、齢は五十近くに見える。
身にまとう衣装も、雄日子や角鹿の小ざっぱりとしたものとは雰囲気が異なっていて、色とりどりのぼろ布を身にまとっているふうだった。
角鹿に促されて中に入った牙王という男は、奥に坐す雄日子と、セイレンのちょうどあいだ、二人の真ん中に腰を下ろした。大きな布の袋を抱えていて、さっそく袋の口をひらくと、なかから小刀や玉の
ひととおり並べ終わると、雄日子を向いて深く一礼し、おもむろに手を前に組んだ。
「天にきし、雲にきし、尊き
牙王は奇妙な抑揚をつけて歌うようにいい、身体を、波をうつように揺らしている。
そして、床に並べた玉を二つ三つ手にとって、かちかちと音を鳴らしたり、並べ直したりして、最後に小刀に手を伸ばした。
その小刀は、手のひら大の小さなもの。鞘を抜くと、きらりと輝く鉄の刃が見える。刃の先は、細くとがっていた。
刃の切っ先をじっと見下ろしたあと、牙王は雄日子のほうに向きなおり、床に額がつくほど平伏する。
雄日子は無言だったが、牙王にいざなわれるように、自分の手のひらを差し出した。
牙王はその手をとり、もう一度深く頭を下げると、抜き身の刃の切っ先を雄日子の指に向けて、近づけていく。
いったい、この男はなにをしているのか――。
牙王の手つきに見入っていたが、牙王が小刀を雄日子の手に向けるので、声をかけた。
「なにをする気だ。危ないよ。血が出るよ」
でも、雄日子も牙王もこたえない。
館の入口近くであぐらをかく角鹿も、無言。背を伸ばして姿勢よく座って、雄日子と牙王のやり取りをじっと見つめている。
(さっきは、雄日子様って呼ばなかっただけで怒ったくせに、なんで――。雄日子が刀を向けられてんだぞ。止めないのかよ)
はらはらとしているのはセイレンひとりで、そのうちにも、牙王が手にした刃の切っ先が、雄日子の人差し指の先に押しつけられる。
指の腹にじんわりと血がにじむので、息を飲んだ。
「あ――」
(こいつはこの国で二番目に偉いやつなんだろ? なのに、どうしてこんなふうに、変な格好をしたおっさんに傷をつけられてるんだよ)
どうしてそんなことが起こるのか、さっぱりわからなかった。
「なにをしてるんだ。痛くないのか」
たまらず声をかけると、雄日子がくすっと笑う。
その笑顔が、セイレンを向いた。
(えっ――)
微笑みを浮かべたまま、雄日子は指先に滲んだ血を拭きとることもなく、その指をセイレンに向ける。
牙王は小刀を床に置き、朗々と歌い始めた。
「
言葉には、土雲の一族が〈
牙王は、右手で雄日子の手を取り、そうかと思えば、左の手をセイレンに伸ばして手首を掴んだ。
「指をひらきなさい」
「えっ?」
牙王から小声でいわれるので、握り拳を解いて、平手にする。
牙王は、セイレンに人差し指を広げさせようとしていた。
その指が解かれて、白い指の腹が上を向くと、そこに、右手で掴んだ雄日子の手を近づけていく。
雄日子も、人差し指を出していた。その指には、さきほど小刀に突かれてにじんだ血がついたままで、セイレンの人差し指と雄日子の人差し指がぴったり合わさると、ぬるりとした血が、指に押しつけられる。
(いったい、なにを――)
牙王がおこなっているのは、きっとなにかの儀式だ。
でも、いったいなにをしようとしているのか――さっぱり見当がつかない。
そのまま、すこし時が過ぎた。
セイレンも、雄日子も、牙王も、雄日子の指とセイレンの指がくっついているのを見下ろしていたが、なにも起こらない。
しかし、あるとき。びくりと肩を震わせた。
(なに――?)
腹の底のほうにいる誰かが「罠だ、逃げろ!」と、泣きながら叫んでいる気がした。それは、これまでに味わったことのない、いいようもない恐怖だ。
怖い――。
そう思った瞬間、じゅわっと、身体の内側に熱いものが生まれた。
指先から手のひら、手首、腕、肩、顔、頭――指先から順に、四肢のあちこちまでが燃えるように熱くなった。
「あああああ!」
叫んだ。
熱は、ほとばしるように腕の先、足の先へといきわたり、全身が赤い火の塊になったような錯覚もする。
恐ろしくて、身体中が震えた。震えはおさまらなかったが、指先や足先の熱はしだいにおさまっていく。でも、目と喉、頭だけは熱いままだ。身体をいっとき乗っ取った妖しい炎が、目と喉と頭だけには居座って、燃え続けているような――。
「わたしに、なにをした……!」
叫びたかったが、喉が熱くて、声がうまく出せない。目も熱くて、まぶたは重く、目そのものが突然他人のものになったかのように、うまく動こうとしなかった。
牙王の腕を振りほどいて、手のひらで目を押さえてうずくまる。
耳に、雄日子の声が降ってきた。
「いまのは、そなたを、僕につなげる呪いをかけたのだ。そなたは薬に詳しいようだが、呪術は不得手のようだな。そなたがなにも知らぬうちに契りを済ませられて、よかった」
雄日子の涼しげないい方には腹が立った。
それに、雄日子の声には、痛かったり、怖かったりと、自分のように苦しんでいる気配がない。
苦しいのは自分だけなのだ――。
そう悟ると――。
「この――!」
雄日子のやつをぶん殴ってやる。あわよくば、〈雲神様の箱〉を使って這いつくばらせてやる。
そう思うなりのこと。
頭が割れるように痛くなり、その場にうずくまるしかできなくなった。
「頭が痛い!」
「ああ、いま、僕とそなたのあいだで交わされた
「なにそれ、なんなの――」
うずくまりながら、泣きだした。
怖くて開けることができなくなったまぶたの縁から、涙の筋が垂れていく。息をするのもためらいながら、小さな涙声でいった。
「おまえ、わたしを罠にかけたのか」
「そなたが、僕に仕えると誓わないからだ。信用ならないやつをそばにおくわけにはいかないから、仕方がなかった」
「なにが仕方ない、だ――勝手に――。おまえも、やっぱり馬鹿の偉いやつだ。おまえなんか大嫌いだ……」
すすり泣きながら文句をいっても、雄日子の涼しい声色は変わらない。
熱をもったように重くなった目を慰めるように、まぶたを手のひらでおさえていたので、セイレンは雄日子の顔を見ていなかった。
でも、やたらと柔らかな声をきいていると、雄日子が微笑んでいる顔がまぶたの裏に浮かんでくる。
「そなたの頭の痛みや熱は、覚悟を決めれば消えるはずだ。頭を冷やして、心から僕に仕えることを考えたほうがいい。――契りは済んだ。角鹿、この娘を
セイレンの頭の中は混乱していた。
まるで、自分が自分ではなく、別の人か、もしくは、人の言葉を解さない獣に無理やり姿をかえられた気分で、恐怖のほかはなにも感じなかった。
しだいに、周りに足音が響き始めて、セイレンを掴もうと伸びてくる腕があった。
なにも考えられなかったが、触れられたり、掴んで持ち上げようとされると、無我夢中で振り払った。
その腕は、角鹿が呼んだ兵たちの腕だ。
暴れると、その兵たちの手つきは荒くなる。
「このやろう、大人しくしろ」
いつか、気が遠のいていった。
頭か胸を殴られたようだったが、混乱したセイレンは、痛みすら感じることができなかった。
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