成東線の踏切 11
いったい、なんだったの。
恵子は一瞬の出来事に頭がついていけず、途方に暮れていた。
「これが『ショウキガン』の使い方です」
兎我野が尻についた汚れを叩きながら言った。恵子を立ち上がらせようと手を差し伸べている。
「いえ、ひとりで立てます」
恵子は兎我野の手を拒否し、立ち上がった。スカートについた土埃を払いのける。
それは兎我野に対しての恥ずかしさではなく、不信感からだった。
民俗学を研究する一学者とばかり思っていたが、存在しない鎧武者が視えたり、人間ではない大男が出現したりと、どう考えても恵子の知る日常から大きくかけ離れた出来事が一度に起こったのだ。
それだけでなく、後ろから恵子を抱きつくような行為と、許可もなく手に触れるという行為が、恵子の不信感をよりいっそう高めた。うれしい気持ちもなくはないが、兎我野という人物に対しての不信感の方が勝っていた。
「さて。使い方も分かったことですし、古道さんにはこれから僕の助手として、この街にいる幽霊を『ショウキガン』で
「……リブート?」
「そうです。簡単に言えば“成仏”させるということです」
「ちょっ、え?」
何を言っているんだ、この人は。オカルト染みた話を平然と語っている。
「ごめんなさい、よく分かりません。やっぱりあたし、降ります。あたしには荷が重すぎます」
第一、さっき見た光景が本当に幽霊なのかどうかも甚だ疑問である。軽い気持ちで兎我野に着いてきた恵子だったが、ここまで怪しさ満点になると、もはやそれどころではない。いつだったか占いで「積極的に行動すると新しい出会いがある」と言っていた。
新しい出会いが怪しい教師の兎我野の他に、幽霊やら鎧武者やら大男だなんて笑い事じゃない。
本格的に変なものに巻き込まれる前に早々に撤退しようと考えた。
「降りる、ですか。まぁ確かに急に言われても混乱しますよね。ですから本当は、今日の幽霊を視た後に、改めて手伝って頂けるか、もしくは辞退するか、二つの選択肢を与えようと思っていたのです」
兎我野は一度言葉を切った。
「でも、残念ですがその選択肢はなくなりました。古道さんは手伝うしかなくなったのです」
丁寧な言葉遣いの中にトゲのようなものを感じた。
「どうしてですか」
「古道さんが約束を破ったからです」
「約束?」恵子には思い当たる節がなかった。
「そう、約束。僕と古道さんの」
「あたし、約束なんて――」
「では、そこの茂みにいるのはどなたですか?」
兎我野が指さした先には、隠れているつもりの奈津美の頭がちょこんと見えた。
「――あ」
奈津美、頭引っ込めて、といずみは指示をし、その場を乗り切ろうとしたが、
「キミたち、出てきなさい」と兎我野がいずみたちの場所にも聞こえるように大きめの声で話した。
「うちら、バレたくさいね」
「う、うん、見つかっちゃったみたい」と、観念したように二人で兎我野と恵子のいる踏切近くまで移動した。
恵子のそばまで行くと、「恵子ちゃん、大丈夫だった?」と奈津美が声を掛けた。恵子と奈津美の前にいずみが立ち、三人と兎我野が対立するような形で向かい合っている。
恵子はばつが悪いように小さくなった。
「キミは確か、日本史の授業に出ていましたね。二年生ですね」
「えぇ、片瀬です」いずみが冷たく言った。
「そちらのキミは?」
「初めまして。二年三組の高岡奈津美です」
奈津美は丁寧に自己紹介すると小さくぺこりとお辞儀をした。
「片瀬さんに高岡さんですね。よろしくお願いします」
兎我野は彼女らに軽く会釈をすると、恵子の方を見た。
「仲が良さそうですね」
兎我野はにこりと不敵な笑みを浮かべ、何かを思いついたように、そうだ、と話を続けた。
「そうだ、せっかくですからキミたち三人とも協力してもらいましょう。僕が同行するより何かと都合が良いでしょう」
「ちょっと、待ってください。あたしが先生との約束を破ってしまったのは悪いと思います。……ごめんなさい。……でも、そんな幽霊だなんてよく分からないし、そんな急に、できません」
「知っています。急に言われても受け入れがたいことは。ですから今日こうして視てもらいました。数をこなして受け入れてください」
本人の意思に関係なく、強制的に決定されたような話し方だ。
「そんな……」
「本人が、嫌だって言ってんのに、あんたが強制する権利なんかないでしょ」いずみはなおも冷たい態度をとっている。
「いずみちゃん、言葉……」
奈津美は小さな声でつぶやく。いずみは教師だろうが、年上だろうが、自分の態度を崩さない。
「そうですね。それは確かに困った問題です。本人の意思を尊重しましょう」
兎我野は腕を組み、少し考えたそぶりをした。
「では、片瀬さんの意見も鑑みて、やるか、やらないか選択制にしましょう。――ただし。条件付きで」不適な笑みを浮かべた。
「条件とは?」いずみも腕組みをする。
「古道さんが、僕との約束を破ったことについて反省しているようですので、それに免じて、協力しなくてもいいことにします。ただし――」
言葉を切り、一瞬だけいずみを見た。
「その場合は片瀬さんの日本史の成績評価をゼロにします」
「え?」恵子と奈津美がほぼ同時に反応した。
ところが当のいずみは、恵子が反論するのを手で制して、「ふんっ」と鼻で笑った。
「どうぞ、ご勝手に。私は明日、『女子生徒が兎我野先生に襲われた』って、ほかの先生に話すまでだからな」
「それは残念です」
「そうだろうな」
「ええ。あいにく僕は理事長先生と知り合いでして。それで
兎我野がまっすぐにいずみを見つめている。その目に嘘はなさそうだ。
「……ちっ。卑怯なやつめ」いずみは短く舌打ちした。
「それが大人というものです。――それでは、受けてもらえますか?」
兎我野は再び恵子に向かって話した。恵子が反応に困っていると、いずみが話す。
「待て。私の日本史の成績がかかってるなら、こっちからも条件がある」
「どうぞ」
「いつまでもだらだら、やるのは好きじゃないんでね。うちらがあんたに付き合う期限を決めてもらおうか」
「なるほど。それは正論ですね。では……次の期末テストまでにしましょう」
恵子が想像していたより長い期間を提示してきたが、いずみは軽く「ふんっ」と言い、了承した。
「決まりです。古道さん、片瀬さん、それに高岡さん、よろしくお願いします」
恵子は下から見上げるようにいずみの様子を窺い、言葉には出さずに「ごめん」と唇を小さく動かした。
「さて。今日はもう遅いからこの辺にしましょう」
兎我野が手をぱんっと叩くと、さっきまでの口調とは異なり、柔らかい口調で話した。
「詳しい話はまた明日します。今日はここまで。古道さん、ラジオの電源切ってください」
全く気にならなかったが、今の兎我野の一言でラジオからノイズが聞こえていたのに気づかされた。つまみを回しラジオを切った。
「それでは、また明日。あぁ、そうそう。念のため。このことはくれぐれも内密に」
兎我野はにこりと笑い、三人に手を振り、踏切を渡って住宅街に消えていった。
その直後、踏切の警告音が鳴り出し、大宮行きの電車が通過した。通勤通学帰りの人がたくさん乗っていたのを見て、ここが現実の世界なのだと改めて認識した。
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