成陵西高校の美術室 9
「ほんとだ」
「どういうこと?」
「分からないが、とりあえず離れよう」
「待って……お願い……一緒に彫刻板を探して」中川が懇願するように叫んだ。
「彫刻板?」
そういえば、最初に中川がカメラに映った時には、机に座って、板状の何かを彫っていたのを見た。しかし、いずみからカメラを受け取った後にはそれは映っていなかったように思える。
「彫刻板って……さっきまで、中川さんが彫ってた、やつ?」
恵子は再び襲われないか、足がガクガクと震え、不安になりながら聞いた。
「そう……。あなたたち……襲わない。だから……お願い、探して」
「どうするの? 恵子」
このまま逃げて終わりにしようと思った。襲われるかもしれない幽霊にわざわざ近づく必要はないと。――しかし。
「ちょっと、探してみる。さっき机の上にあったの見たから、たぶん落ちてるんだと思う」
さっきは驚いて逃げ出したけど、卒業アルバムに写っていた彼女の笑顔には、そう悪い印象はなかった。悪い人ではない、と思う。
「こういうのって信じないタチだけど、あまり干渉しない方が良いんじゃないのか?」
「そうだよ、恵子ちゃん、やめた方が良いよ」
奈津美はいずみにがっちりとくっついて離れない。
スピーカーからのノイズが一層激しくなる。
「でも……きっと、その彫刻は、中川さんにとって大事なものなんだと思うの……」
中川が「襲わない」ということを保証するかのように、美術室の入り口から離れ、恵子たちの間に適度な距離を取った。
「お願い……」か細い声で懇願する。
「いずみと奈津美は、ここで待ってて。すぐだから。すぐ見つかるよ」
止めても聞かないだろうと、いずみは小さくため息をついた。
スピーカーから出る音からノイズが消えていく。
恵子は再び美術室に足を踏み入れた。
「気をつけて」
「う、うん」
カメラを見ると、中川がじっと恵子の動きを追っている。襲わないと言って安心させておきながら、本当は襲ってくるんじゃないかという不安に襲われる。
彫刻板を探すためにカメラを教室に向けた。
「たしか、さっきは机の上にあったはず……あれ?」
中川の机の上を見るが、何もない。加えて机の周りも映すがそこにも何もなかった。
「恵子ちゃん、見つかった?」不安そうに奈津美が尋ねてくる。
ない。辺りが暗いから見つからない訳ではない。ここには最初から中川の彫刻板など存在しないのだ。中川が呼びかけていた「みんな」の存在が、彼女自身が幽霊だと知った後には、見えなくなったように、彫刻板も最初からここには存在していないのだ。
カメラを中川に向けると、じっとこちらを見つめながら立っていた。
「な、中川さん」
「……はい」小さな返事があった。
「あの、彫刻板なんだけど……」そこまで言うと、スピーカーの音にまたノイズが混じり不安定になった。
「……いや、彫刻板ってどんなやつかなって思って」
やはり、「ない」とは言えず、そう聞いた。
「みんなの……記念の、彫刻板なの」
「記念?」
中川が人の話が分かる人、もとい幽霊で良かったと思う。まともに人の話を聞けないような、この前の鎧武者のような幽霊であれば、おそらく今ごろ呪い殺されていただろう。
中川は今まで持っていたおどろおどろしい幽霊のイメージと大きく異なっていて、人間と接することとほとんど変わりなかった。それでも恐怖がないわけではないが。
「そう、記念。創立百周年の記念の彫刻板」
「創立百周年って、卒業アルバムの……」
先ほど、中川に見せた卒業アルバムの表紙に記載されていた年数である。
「ひとり辺り十センチ角の木版を彫って……」
中川は両手を使い、小さな正方形の形を作った。
「……学年みんなでつなぎ合わせて、大きな彫刻板にするの」
「学年全体で一つの絵にしたってことか。ってことは相当大きな画だな。奈津美、どのくらいの大きさだ?」
「えっと、えっと今と同じくらいの生徒数で、大きな彫刻板が正方形だとすると……」
美術室の入り口で話を聞いていた奈津美が計算をする。奈津美は三人の中で、もっとも数学が得意である。ちなみに恵子は数学が苦手である。
奈津美はすぐに解答を出した。
「一辺が一メートル五十センチぐらいの大きさになると思う!」
「そんな大きさの彫刻板、どこかに飾ってあったか?」
「……ねぇ」恵子が思い出したように言う。
「生徒用の下駄箱の壁にあるやつって、彫刻板じゃなかった?」
「下駄箱にそんなもんあったか?」
「あったかも。玄関入って左の壁に、なんかの絵が飾ってあったの覚えてる」奈津美も記憶を辿りながら話す。
「中川さん、みんなでつなぎ合わせた彫刻板はどんな絵なの?」
「蝶……大きな蝶々と、小さな蝶々がたくさん……」
「分かった。あたし、行って確かめてみる」
下駄箱の壁にあるのが、彼女の言う創立百周年の彫刻板かどうか分からないし、もしそうだとしても、彼女の彫刻板がその中にあるかどうかも分からなかったが、ここでなくした彫刻板を探すより、より現実的で、なにか得られる気がした。
「でも、恵子ちゃん。どれが中川さんの彫刻板か分かるの?」
「分からない……」
彫刻板を見たところで、彼女の彫刻板がそこにあるのかないかの判断材料が何もないのだ。
すると中川が小さな声で話した。
「名前が……みんな、自分の名前を彫っているから……」
「名前が彫ってあるの?」
彼女は静かにうなずいた。
「わかった。じゃあ、あたし、見てくる。下駄箱の彫刻板が中川さんたちの学年が作った彫刻板かどうか、そうだったら、その中に中川さんの彫刻板があるかどうか」
「恵子、一人で行くのか?」
「え? いずみちゃんも一緒に来て」
恵子は急に猫なで声になっていずみを誘った。
「だよな」いずみは見透かしたように返事をする。
「わたし、ひとりお留守番? やだ、こわいよう」
「奈津美も一緒に行こう」
「うん」
結局、三人で向かうことになったのだが、ここまで会話をすると、スピーカーの音にノイズが入るようになった。しかも今までよりも激しい。
「に……ゲ……ない……よね」
ノイズに混じる声は、幽霊の怖さというよりも、まるで友達から離れたくないといったどこか寂しさのようなものを感じた。
恵子は出来るだけ親近感が湧くように笑顔で、「大丈夫、戻ってくるよ」と言った。
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