成陵西高校の美術室 8
目の前の女子生徒に恐怖がなくなったわけではない、ただ、卒業アルバムで見せていた笑顔を思い出したのだ。
「あなたは、三年生の……中川ゆり、さん」
反応がない。再びカメラに目をやると、女子生徒は目を大きく見開いていた。
「どうして……知っているの?」
「えっと。その……卒アル見て」言葉に迷いながら話す。
「……卒アル? ……まだ、卒業してないのに?」
中川は当たり前のように尋ね返した。
「えっと、それは……」
なにをどう説明したら良いのだろうか。八年も月日が経っていることから話すべきか、ストレートに幽霊であることを伝えるべきか。
恵子が迷っていると、ふくらはぎを抱きしめていた奈津美がぐいぐいとリュックサックを引っ張ってきた。
「恵子ちゃん、リュックの中、アルバム」
「そっか」
「なにを話しているの。授業中なんだから、もう出て行ってちょうだい」
中川は三人を追い出そうとしている。
「中川さん。ちょっと待ってて」
恵子は背負っていたリュックサックを下ろし、中から卒業アルバムを取りだした。
「いずみ、カメラ持ってて。中川さんの近くに持ってく。……襲われそうになったら教えて」
卒業アルバムを両手で抱きかかえるよう持つと、ゆっくりと中川がいる辺りに向かって歩き始めた。
「恵子ちゃん……」ふくらはぎから離された奈津美がつぶやく。
「ちょっと、なに?」
中川は突然近づいてくる恵子に驚きを隠せない。教壇を降り、月明かりの薄暗い中、彼女がいる席の列に入る。
「先生? ねぇ、どうして?」
恵子の背後、いずみが持つカメラのスピーカーから彼女の声が聞こえてくる。
「どうして? どうしてみんな黙ってるの?」
震えるような動揺した声が聞こえる。
いずみがカメラ動かし教室全体を見渡すが、「みんな」の姿はカメラに映っていない。
「どうして……? みんな、何とか言ってよ」
恵子が彼女の前にたどり着く。一旦、いずみの方を向き、人差し指を空間に指しながら「ここ?」と口を動かす。いずみが「そうだ」と合図を送ると、再び前を向いた。
「中川さん、これ……あなたの年の卒アル」
図書館で見た、文化祭で盛り上がっているページを開き、机の上にそっと置いた。
「なに、これ……わたし? どうして卒アルに?」
彼女はページを捲ろうとしているが、うまく捲れない。
「恵子、ページ捲ってあげて」いずみがフォローする。
「う、うん、分かった」
定期的にページを捲ると、そのたびに「どうして?」や「ここにも写ってる」といったことがスピーカーから聞こえる。
そして、クラスの個人写真が載っているページを開いた。
「これは……うちの、クラス?」
「そう、中川さんのクラス」
「これは、わた、し?」彼女が、自分の写真を見ている。
ザザ……ザザザ
ラジオのチューニングが一瞬だけ不安定になった。恵子は身を引くように足を後ろに下げた。
「わたし、死んだ。……わたし、死んだの」
今までのトーンよりも低い声で、独り言にも問いかけにも聞こえるような言葉を投げかけた。彼女は気づいたようだ。
「わたし……みんな……いない」
周りを見渡す中川だが、さっきまでとは異なり、誰も見えなくなっているようだ。
「みんな、いない……わたし、ひとり……」
「……恵子、危ないかも。戻ってきて」
いずみのアドバイス通り、すぐに教壇まで戻った。いずみから二眼レフカメラを受け取り、ファインダーを覗き込む。
中川が彫刻刀を握りしめて、自分の机の横に立っている。何かを探すように机の周りを回ったかと思うと、恵子たちの方に向かって歩き始めた。
「ねぇ……どこ?」
中川の姿は、月明かりに照らされ、左半分が青白く輝いて、右半分がほの暗い陰となっている。
長い間、見つからない探し物を、ずっと探しているような、やつれきった顔をしている。先ほどまでの美人な容姿はどこにいったのだろうか。目も焦点が定まらずに、ぼんやりと、半ば生理現象のように頭を動かしながら左右を見ている。
「ない……ない……」
「ちょっと、あれ? ヤバくない?」
手には彫刻刀を持っていて、いつ振りかざしてもおかしくない。
そもそも物理的に、そこに存在していない彫刻刀に襲われることなどあるのだろうかとも思うが、相手は幽霊という、今までの常識では説明できない存在なのだと考えると、何されるか分からない。
本庄優から聞いた噂話だと、中川は授業中に突然、他の生徒に向かって彫刻刀を振りかざし怪我を負わせた後に、自らもその彫刻刀で命を絶った、と聞いている。そして、今でもその霊が美術室に現れる、と。
それが、今ここにいる中川ゆりなのだ。
「わたしの……」
ラジオの音声にノイズが入り不安定になる。まるで、彼女の心情を表しているかのようだ。
彼女が歩みを停めた。肩を落とし、腕を力なく放り出している。頭は下がり、長い髪がだらりと前に落ちている。
その頭をゆっくり、ゆっくりと上げる。
「そ、そろそろ帰ろうか。もう十分検証したよね」
恵子が退散の提案する。
ザザザ……ザー……
顔が正面を向き、ファインダー越しに中川の目がハッキリと恵子を捉えている。
「帰さない。絶対に帰さない」
スピーカーからクリアな声が響き渡った。
「きゃーいやぁっ! いずみ、もう無理!」恵子は真っ先に美術室の入り口に向かって走り出した。
続いていずみが追いかける。途中、教壇で座り込んでいる奈津美に手を差し伸べた。
「奈津美、いくよ!」
「見つけて……お願い」
中川ゆりの声が廊下から聞こえる。恵子はすでに美術室から出ているのだ。中川が今どこまで来ているのかいずみには分からない。
「怖くて、立てないよぉ」奈津美は四つん這いのまま、入り口に向かって歩いて行く。
「奈津美、早く! すぐ後ろまで来てる!」
ファインダー越しに中川の姿を確認した恵子が叫ぶ。
ようやく奈津美も美術室の外に出た。
「奈津美、立てるか? 早く、ここから離れるぞ」いずみの手に支えられながら、何とか立ち上がった。
中川は、美術室の入り口の前まで来ている。
ザザザー……ザザ。ザザザー。音声がひどくノイズ混じりになる。
「恵子、何突っ立ってんの? ほら、行くよ!」
中川の様子をカメラで見ていた恵子が、その場で、カメラを持ったまま立ち止まっていた。
「いずみ、ちょっと見て。美術室から、出られないみたい」
いずみがファインダーを覗くと、開け放たれた美術室の引き戸の前で、まるでそこに見えない壁でもあるかのように、前に進もうとするが足が前に出せずにいる中川の姿が映っていた。
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