成東線の踏切 4
放課後、恵子は部活に行くいずみと別れて、学校の敷地の端にあるバス停に向かっていた。天気予報は当たったようで、サーサーと小雨が降っている。
いつもは聞こえる野球部やサッカー部のかけ声も今日はない。高校の周りは田んぼばかりなので、雨の音だけが静かに聞こえている。
恵子はビニール傘を閉じて、屋根がある駐輪場の中に入っていた。バス停に行くには少し遠回りになるが、屋根があるので、雨の日にはよくここを通るのだ。
成陵西高等学校のほとんどの生徒の通学手段は自転車である。そのため駐輪場は、五百台以上停められる巨大な空間となっている。自転車以外の通学手段はバスか電車で、主に遠方から通学する生徒が使う。
今日は雨だからか自転車の数がいつもより少なく感じる。バス停は、駐輪場を抜けた先の文化部棟のさらに先にある。
ふと、雨の音に割り込むように、ガラガラと騒がしい音が聞こえた。部室棟に向かって台車を引いている男がいた。傘も差さずに文化部棟へつながる歩道を、急ぎ足で突き進んでいる。よく見るとそれが兎我野だと分かった。
こんなところで何しているんだろう。台車には段ボール箱が二段重ねに四箱積まれているのが見えた。
恵子は、駐輪場から横切るように小走りで兎我野のところに向かった。
「あの、先生」
兎我野は雨で全身に露がついている。その姿がまた様になっていた。
「あぁ、キミは朝の」
「あ、はい。二年三組の古道恵子です」
「古道さんですね。僕は昨日から赴任した兎我野です」
「はい、知ってます。日本史の」
「ええ。佐伯先生の代理でしばらく日本史担当をすることになりました。それはそうと、今日の朝はありがとうございました。朝の職員会議に遅れそうでして……。助かりました」
兎我野は丁寧な言葉遣いで応対した。
「いえ、そんな、それよりこれ使ってください」
恵子は持っていたビニール傘を手渡した。
「いえ、気にしなくて大丈夫ですよ。すぐそこまでですから」
兎我野は白い歯を見せてにこりと笑った。
「でも、濡れちゃいますよ? あっちの駐輪場から抜けると雨に当たらずに部室棟にいけますよ」
「それでは、そちらから行きましょうか」
兎我野は駐輪場に向かって再び台車を押し始めた。雨の音に混じり、ガラガラと車輪の音が加わる。その後ろを恵子がついていく。
「古道さんはもう帰りですか?」
「あ、はい。でもバスの時間までまだあるので全然大丈夫です」
「そうですか。では、少し、荷物を運ぶのを手伝って頂けませんか」
兎我野は台車に乗っている段ボールの山を指さした。
「もちろん、よろこんで」
「ありがとうございます。古道さんは、元気ですね」
「えぇ、それだけが取り柄ですから」
恵子は八重歯を見せてにこりと笑った。
「そんなことないと思いますよ」兎我野が否定する。
「そんなことありますよー」
恵子は笑いながら勢いに任せて気になっていたことを訊いた。
「あ、そうそう。突然ですけど、先生は結婚してるんですか?」
「それは突然ですね。……どう思いますか?」
兎我野は少し困惑した様子で恵子に尋ね返した。
「してい、る?」
「どうでしょうね。その話は、また今度にしましょう」
最初から応える気がなかったかのようにはぐらかされた。
「えー、ずるい。それじゃあ、年齢は?」
「いくつに見えますか?」
「二十……三ぐらい?」
「どうでしょうね」
兎我野はまたもやはぐらかしてきた。
そしてそのまま文化部棟の入り口についてしまい、話は中断されてしまった。
「さあ着きました」
目の前には観音開きのガラス扉がある。入り口前には三段ほどの階段があった。
兎我野はガラス扉を開けて、足で押さえながら、ガラス扉が閉まらないように、段ボール箱の一つを扉の前に置いた。室内から吹奏楽部の練習している音が聞こえてきた。
「古道さん、左の段ボールが軽いので、それを運んでください」
恵子は兎我野が指示した段ボール箱を文化部棟内に運び入れた。
文化部棟とは、名前の通り文化部が部室として使用している建物のことであり、二階建ての小さなアパートほどの大きさである。外壁は落ち着いたチョコレート色で、一階の半分が吹奏楽部の使うホール、もう半分は吹奏楽部の楽器置き場や練習室となっている。二階は、茶道部、華道部、書道部が使用している。
成陵西高の文化部はこのほかにも、軽音部、文芸部、写真部、映画研究会、囲碁将棋研究会なども存在しているが、それらは物理室や視聴覚室といった部屋を部室代わりに使っている。つまりこの文化部棟というのは名ばかりで、吹奏楽部とごく限られた正統派文化部のみが立ち入りを許された建物なのである。
そのため恵子も今日初めて足を踏み入れたのだった。
「へぇ、こうなっているんだ」恵子は思わず声を出した。
館内に入ると、目の前にはソファとテーブルが置かれたラウンジのような小さなスペースがあった。突き当たりの壁には自動販売機が設置されている。左側の壁には「吹奏楽A」と書かれたプレートがあり、そこから音が聞こえてくる。おそらくこちらがホールなのであろう。右側には奥に通じる廊下がある。
「さ、ここに乗せてください」
恵子が部屋を見回しているうちに、兎我野が台車に段ボール箱を戻していた。
「こちらです」
兎我野は廊下の奥に進んでいく。この先には吹奏楽部の部室か、二階へ通じる階段がある。
「先生は吹奏楽部の顧問なんですか?」
「いえ、違いますよ」
「じゃあ、茶道部とか?」
「キミはさっきから質問が多いですね」
兎我野に怒られてしまった。
「あ。え、ごめんなさい」
「いえ、良いのですよ。疑問を持つことは大切なことですから。では僕からも質問をしましょう」
兎我野は廊下の突き当たりにある階段の前で止まった。
「古道さんは、シゴノセカイを信じますか?」
「シゴノセカイ? シゴって死んだ後のあの『死後』ですか?」
まったく予想だにしてない単語が突然出てきた。「質問が多い」という会話から「私語」のことかもしれない。
「そうです。人が死んだ後、その『死後』のことです」
「死後」で正解のようだ。しかし質問の意味は分かったが、その意図がまったく分からなかった。答えに迷っていると、兎我野は話を続けてきた。
「実は僕、本職は教師ではありません。教師は副業と言いますか、本当は研究者なのです。地元の――、成陵市の歴史について研究しているのです」
「はぁ」
「この地に伝わる民間伝承や死生観といったものを研究してまして、『民俗学』って言うと聞こえは良いのですが……、そうですね、わかりやすく言えば幽霊とか霊魂とか、怨念とかそういった類いの研究です」
「はぁ」
急な話の展開で、恵子は曖昧な相づちを打つほかなかった。
「その研究室として、ここの地下室を使わせてもらうことになりました。長年使ってないようなのですが、先程、千葉先生に許可を頂きまして」
「はぁ」
台車を停めた先を見ると、二階へ上がる階段の反対に地下へと続く階段がある。
「今はある研究の検証を行っているのですが、ちょっと一人じゃ、どうにもうまくいかなくなってしまいまして。それで――」兎我野は一度言葉を切った。
「研究に協力してくれる助手を探しているのです」
「はぁ」
「それで冒頭の質問に戻るのですが、古道さんは死後の世界は信じますか?」
「はぁ」
兎我野がいろいろと説明してくれたが、それでもやはりこの質問の意図は分からなかった。
恵子はとりあえず思っていることを述べた。
「死後の世界はどうか分からないですけど、死んだ後どうなるのかは気になります」
「なるほど。それで十分です」兎我野は「うむ」とうなずいた後、言葉を続けた。
「古道さんと出会ったのも何かの縁ですね。ここはひとつ、僕の助手として協力して頂けませんか。その答えを知ることができます」
兎我野は「さあ、行こう」とばかりに手のひらを地下室の方へ向けて、恵子の答えを待っている。
助手? ちょっとちょっと、どういう展開なの?
恵子は兎我野の提案に混乱していた。なにやらオカルトじみたことを言い出したかと思うと、一緒に来てくれと誘われているのだ。新手の口説き方かと思うほど怪しさ満点である。そう易々と「はい、よろこんで」とは言えたものではない。
「あの……、まだよく分からないので、少しかん――」
「ん? なんですか?」
考えさせてくれ、と言いたかったのだが、兎我野が言葉を重ねたため、かき消されてしまった。どうやらイエスかノーしか受け付けてくれそうにない。
どうしようか。
恵子は少しばかり考えを巡らせた後、
「わかりました、やります」と短く答えた。
怪しさ満点ではあるが、教師であることには変わりない。そこまで身構える必要もないと軽い気持ちで受けたのだった。
「ありがとうございます。古道さんのその好奇心の強さ、きっと研究に役立つと思いますよ。それじゃ、これを下へお願いします」
兎我野は恵子の答えを聞くと、さっそく台車から段ボール箱を持ち上げ、階段を地下へと下っていった。恵子もそれに続き、先ほど持った軽い段ボール箱を持って下へ降りた。残りの段ボール箱二つを兎我野が持ち、恵子が台車を地下へ下ろした。
階段を降りるとすぐに観音開きの扉が一つ現れた。この扉のほかには何もなく、どうやら地下は地上のように複数の部屋はないようだ。
廊下には蛍光灯が一本しかなく、その蛍光灯も黄色く古めかしい光を放っている。
扉の上に目をやると、「準備室」とだけ書かれたプレートがあった。特に古めかしさも真新しさも感じない。
兎我野は持っていた鍵をドアノブへと挿入した。鍵を回すとカチリと音がした。キィーと音を立てて扉が開く。
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