第10話 1つの悲劇

 理恵みちはるは黒い棺の前で呆然としていた。小さな部屋の中に鎮座しているその棺は母さんのものだろう。見覚えのある女性の顔が遺影としてそっと棺のそばに置いてあった。母さんの棺にすがりつくようにして父さんがうずくまって泣いている。


 「何で……何で僕を残して逝ってしまったんだ。何で……」


 父さんは「何で」と答えの帰ってこない問いを繰り返している。はたから見るとみじめに見えるだろう父さんのその姿は、しかし理恵みちはるから見ると母親への愛がこもっている、神聖な姿に見えたのだ。


 「大丈夫、安心してくれ。お前たちは父さんが守るから」


 目を泣きはらしながらも、理恵みちはるの方を見てそう言った父さんは、幼い理恵みちはるから見てひどく頼もしかった。



 場面は変わる。

 理恵みちはるが小学校に入学する日の前日、夜にトイレに起きた理恵みちはるは明日着ていくはずの小学校の制服に父さんが細工をしているのを発見した。


 「何をしてるの?」


 理恵みちはるは父さんの手元を除きながら無邪気に質問する。父さんの手元に隠れてよく見えないが、制服に何かを縫い付けているようだ。


 「これはね、母さんが残してくれた大切な理恵を守るために必要なものだよ」


 父さんは作業を続けながら理恵みちはるにそう言った。


 「そうなの? ありがとう!」


 理恵みちはるは父さんに感謝の言葉を告げた。理恵みちはるには父さんの言っていることがよく理解できなかったけれど、理恵みちはるのためにわざわざ何かしてくれているのは伝わったのだ。

 それに満足したのか、父さんは嬉しそうに目を細めながら理恵みちはるの方を向く。父さんはにこにことほほ笑んでいた。


 「どういたしまして。ああそうそう、一応縫い合わせてはいるけど他の人の前で決して襟をめくっちゃいけないよ。父さんとの約束だ」


 そう言うと、父さんは理恵みちはるをベットまで連れて行って、優しく寝かしつけた。



 場面は変わる。

 理恵みちはるは家のリビングで父さんと一緒にソファーに座りながらテレビを見ていた。小学校3年生に上がった理恵みちはるは、最近ときどき妹にかまってやりながらも、父さんとテレビを見ることが多くなった。今日は妹もはやばやと寝て、父さんと2人きりだ。


 「……へえ、そうなんだ」


 父さんがテレビを見ながらうんうんと頷いている。どうやらテレビの雑学系の番組を見ているらしく、新しい知識にひたすら感心していた。


 「その番組そんなに面白いの?」


 父さんが見ている番組より、もっと別の番組が見たかった理恵みちはるは、興味深げにテレビに集中している父さんに質問する。


 「ああ、これは面白いよ。新しい知識は生活を豊かにしてくれんだ。理恵もこういう番組をたくさん見た方がいい。きっと自分の世界が広がっていくから」

 「うーん。よく分かんない」


 父さんが言ってることを小学3年生の理恵みちはるはうまく理解することが出来なかった。


 「理恵にはまだ早かったかな?」


 父さんが少し残念そうに言う。その口調に理恵みちはるは申し訳ない気持ちになってくる。


 「じゃあ、父さんと一緒にちょっと実験してみようか」


 理恵みちはるが落ち込んでいるのを見た父さんは、そう言って引き出しからメジャーを取り出す。そしてその端を理恵みちはるに持たせると、さっきテレビで見て新しく得た知識を意気揚々と披露した。


 「見てごらん。メジャーの端っこがぐらぐらしてるだろう? これがぐらぐらしてないとメジャーで正確に距離を測ることが出来ないそうなんだ」


 逆に言うと端がぐらぐらしているおかげで性格に距離を測れるそうだよ、と父さんは補足した。

 そこから父さんの実験に付き合う理恵みちはる。父さんの指示通りにいろいろ動いて父さんからその結果について教えてもらう。ときどきその結果に感心し、ときどきは驚き、理恵みちはるは楽しい時間を過ごしていった。



 場面は変わる。

 9歳になった理恵みちはるは鏡の前に座らされていた。


 「この鏡に向かって『お前は誰だ?』と言ってみなさい」


 父さんはきつい口調で言う。この前、交差点で猫がひかれて死んだのを見てから、父さんは少し変わったような気がする。昔と比べて怒りっぽくなり、感情の上下が目に見えて激しくなった。父さんは新しい雑学を仕入れるたびに理恵みちはると協力してその知識を試しているのだけど、その交通事故を見る前まではその時でも父さんに命令されたことはなかったのだ。


 「お前は誰だ?」


 少し怖い父さんの言う通りに、鏡に向かってそう言う。鏡に映った私が私に言ってるような? なんか変な気分になってくる。

 理恵みちはるが数回そう言ったところで父さんが止める。


 「よし、もういいだろう。明日もやるからな」


 父さんは理恵みちはるが言ったのに満足したのか、部屋を出て行った。

 そして翌日、同じように鏡の前に座らされた理恵みちはるは昨日と同じことをさせられていた。


 「お前は誰だ?」


 理恵みちはるにはこれにどんな意味があるのかは分からなかったが、父さんの気分を害すのも嫌だから、父さんの指示に従う。父さんを怒らせるのだけは避けたかった。鏡のせいで自分が自分に質問しているように思えてくる。自分に「お前は誰だ?」って言っても「理恵だよ」って返すしかないのに、おかしいな?


 「よし」

 そう言って父さんは満足気に部屋を出ていった。

 そして理恵みちはるはその翌日も、その翌日も、鏡の前で「お前は誰だ?」と言い続けた。そのたびに理恵みちはるは頭がぼうっとして変な気分になってくる。そしてそれが1週間ほど続いたある日、父さんが理恵みちはるに唐突に聞いて来た。


 「どうだ? 鏡の前で何か変な気分にはなってこないか?」

 「うーん。あんまり」


 理恵みちはるはいきなりの質問に特に何も考えずにとっさに答えてしまう。最近なぜか意識が薄れていっているような気がする。頭が重い。


 (本当は頭がぼうっとしていやな気分になってくるのに、違う風に答えちゃった)


 そう思った理恵みちはるは急いで訂正しようとする。しかし、理恵みちはるが訂正する前に父さんが先に口を開いた。


 「あんまり……か。効果はなさそうだな。何かしら効果があったなら続けさせようと思ってたのに」


 父さんがぼそりと言ったその言葉に理恵みちはるはなぜかぞわっとする。危ないところだった。素直に答えてこのまま続けさせられていたら、どうなっていたんだろう。



 場面は変わる。

 理恵みちはるも進級して4年生になり、年齢も2桁に突入した。そんな小学校4年生の夏休みが序盤から中盤に差し掛かる頃、父さんが理恵みちはるに質問してきた。


 「理恵、今日から1週間くらい友達と遊ぶ約束したか?」

 「うん。明々後日に遊ぶ約束してるよ」


 理恵みちはるは元気そうに首を縦に振りながら、正直に答えた。


 「そうか。……2日間か、まあいいか」


 父さんはそうつぶやくと理恵みちはるを外に連れて行く。理恵みちはるが連れていかれた先は小さなマンションのような場所だった。玄関は普通なのだが、中の部屋は壁、床、天井が全て真っ白に塗りつぶされており、窓が1枚もない。この部屋の中で目を開けているだけで理恵みちはるの目はくらくらしてしまう。理恵みちはるはあまりにも異様なその部屋について、思わず父さんに質問してしまった。


 「ここどこ?」

 「ちょっとした伝手で借りれた場所だ。理恵は明日と明後日、ここで生活するんだぞ」


 理恵みちはるは質問をしても父さんが怒らなかったことにほっと胸をなでおろす。前に質問をした時に「うるさい。そのくらい自分で考えろ」と怒鳴られたうえに、父さんを怒らせてしまったため、もう父さんにはあまり質問をしないようにしようと誓っていたのだった。

 理恵みちはるはここで生活するという父さんの言葉に驚いて、嫌だと言おうと思ったが、反対すると父さんが怒り出すと思い直して消極的ながらも了承する。


 「……分かった」

 「食事はちゃんと届けられるはずだから安心していいぞ」


 トイレはそこで、食事はここから出てくると理恵みちはるに部屋の中を案内し、父さんは1人家に戻って行った。


 ――ゴトッ


 理恵みちはるが取り残されてからしばらくして、そんな音が部屋に響く。理恵みちはるがその音に振り向くと、壁の一部に細い穴が開き食事が出てきていた。食器の色も白く、食事も白を基調としており、食欲はわいてこなかったが、4方が真っ白な部屋に嫌気がさしてきていた理恵みちはるは、その食事に飛びつくとあっという間に食べきってしまった。

 そこから取り残された理恵みちはるは何をするまでもなくただぼうっと時間をつぶす。周りの白い壁が迫ってくるような錯覚すらある中、何時間もすることなく座っていた理恵みちはるはいつのまにか寝ていたようで、起きた時にはもう2度目の食事が来ていた。

 その食事を大して時間もかけずに食べ終わった後、理恵みちはるは膨大な暇な時間に飲まれていった。さっき起きたばかりで寝ることも出来ないし、壁と床と天井以外何もないような部屋なので、特に娯楽もない。


 「暇だなあ」


 そんな事を思いながら何時間か耐えて、次の食事の時間がやってきた。


 ――ゴトッ


 静かな部屋に鳴るその音に理恵みちはるは過剰に反応する。一瞬とはいえ停滞した空気を無くしてくれるのだ。今の理恵みちはるにとっては運ばれてくる食事よりも「変化」とか「新しい刺激」の方が重要だった。

 食事を食べたらまた寝る。今度は何時間か起きていたおかげかすんなり寝ることが出来た。ベットは用意されていないから床にそのまま寝る事になるが、時間を消費できるのならそれ以上のことはない。この部屋に閉じ込められるのも2日間だけだと分かっているのが、理恵みちはるにとっての唯一の救いだった。

 理恵みちはるが次に目を覚ました時、食事はまだ来ていなかった。しょうがないのでしばらくぼうっとしているとようやく食事が部屋に入ってくる音がする。窓がなくて外が今何時か分からないが、起きたばかりなのでこの食事は体感的には朝ごはんと言った所だ。

 そして食事を食べ終えた後、さらに何もない時間が訪れる。寝ようとしても無駄なので、ときどき体勢を変えながら暇を無為につぶす。早く終わってくれという気持ちが自分の中で徐々に強くなっていくのを感じた。


 ――ゴトッ


 この部屋に入ってから何度目になるか分からない音が聞こえる。食事の回数から日にちが分かるかと考えたが、この食事が何度目かも忘れてしまったうえ、食事が1日3食とは限らないから考えるだけ無駄かと開き直る。

 暇な時間には壁をコンコンと叩いてその反響音の違いを確認した。基本的には4方どれも同じだが、玄関のドアは他の壁と比べて少し薄いことが分かった。部屋を1周してもまだ食事の時間にはならなかったので、もう1周する。しかし、1度やったことなので特に目新しさがなく、あまり時間をかけずに終わってしまう。まだ食事は来ない。しょうがないのでもう1周する。それを数回繰り返した後、ようやく食事が出てきた。

 食事も全く変わり映えせず、理恵みちはるは送られてきたそれを機械的に口に入れる。理恵みちはるはその食事を20分としないうちに食べ終わった。食べ終わった後に気付いたが、食事をゆっくり食べるとその分時間をつぶせそうだ。早く食べ終わってしまったことを後悔しながらも暇を持て余す。

 まだこの生活は終わらないのか? 今何日目だろうか?

 日付の感覚が全くなくなった理恵みちはるはこの苦行の終わりまでの時間を数えることすら出来ない。あまりに暇すぎて忌々しい白い壁を爪で傷つけてみようと思い、壁に爪を立てる。ガリガリと爪に力を入れて上から下までひっかく。爪に白い粉のようなものが挟まって、若干であるが壁が削れたようだ。面白くなって何度かひっかくが、何回かひっかいているうちに爪が割れて血が出てきてしまう。


 「いたっ」


 痛くて手を引っ込める。久しぶりにしゃべったようで、口がしゃべり方を忘れていた。しゃべり方を忘れるという新しい体験に嬉しくなって、理恵みちはるは発声練習を始める。そこからお気に入りの歌を歌い始め、レパートリーがなくなり適当なリズムで言葉を歌う所まで来たとき、やっと食事が出てきた。

 理恵みちはるは前回の反省を活かし、できるだけゆっくりと食べようとする。しかし、どんなにゆっくり食べても限度はある。1時間ほど食べていただろうか、理恵みちはるはついに出てきた食事を全て食べきってしまった。そのとき理恵みちはるは発見する。


 (何だろうあの赤い点は?)


 壁にぽつんと1つ赤い点がついていたのだ。それは今回の食事が来る前、理恵みちはるが壁をひっかいた時に爪が割れたせいで血が出て、そこに付いたものだった。

 真っ白な壁にそこだけ赤い点がついているのがどうも気になり、理恵みちはるはずっとその点を見つめていた。点を見つめてからどのくらい経っただろうか。理恵みちはるは眠くなってきたのでこれ幸いと床に寝そべって、夢の世界へ旅立っていった。

 次に道春が起きた時にはすでに食事が部屋に来ていた。食事を口に入れようとするも、吐き気がしてうまく口に入らない。おかしいなと思い何の気なしに天井を見上げると、一面の白が視界を覆い、一気に気分が悪くなる。


 (なんでだ?)


 くらくらする頭を両手で抱えて、理恵みちはるはうずくまる。

 それから何時間たっただろうか、突然玄関のドアが開かれて父さんが理恵みちはるを迎えに来た。


 「おい理恵、気分はどうだ?」

 「……ああぁ」


 理恵みちはるは意識が薄くなっているのかまともな言葉を話すことが出来なかった。



 場面は変わる。

 理恵みちはるが11歳になってからしばらくは、平穏な日常が続いていた。いつもならある程度の頻度で父さんから変な実験を強制されるのだが、ここ2週間はなんのお達しもない。


 「このまま無くなればいいな……」


 理恵みちはるはそうつぶやく。実際にここ最近は何もないのだ。そう夢を見てもしょうがないだけの時間は過ぎていた。

 しかし理恵みちはるのその望みもむなしく、父さんから声がかかる。


 「ちょっと来い。時間は3時間程度で済む」


 父さんが命令してくる。理恵みちはるももう11歳だ。もし理恵みちはるが1人だったら抵抗をするのだが、理恵みちはるには守らないといけない妹がいる。妹を危険にさらすことは絶対にしたくない。そう考えて理恵みちはるは了承する。


 「分かった」

 「よし。ついてこい」


 そう言って連れてこられたのは家の2階の物置だった。物が詰まっていないその部屋はたびたび実験に使われていて、あまりいい思い出がない。


 「座れ」


 物置の真ん中には椅子が鎮座しており、その真上に天井から巨大な漏斗のような物が取り付けられている。

 父さんの命令通りに椅子に座った理恵みちはるを、父さんは縄で椅子に固定し始める。両手両足を固定したのち、頭を上に向けた状態で固定され、理恵みちはるはちょうど漏斗を真下から見上げる形になった。


 「この状態で3時間だ」


 そう言うと父さんは漏斗の下にあった栓を緩めると、パイプ椅子を理恵みちはるの1mほど手前に持ってきて、理恵みちはるの観察を始めた。


 ――ピチョン


 理恵みちはるのちょうど額の中心に水滴が1滴落ちてくる。落ちてきた水滴は目の横をたどってさらに下へと落ちていくのが皮膚の感覚で分かった。


 ――ピチョン


 「ビクッ」


 水滴が額にあたるたびに理恵みちはるは反射的に体が硬直する。水滴はおよそ3秒に1回落ちてきて、そのたびに理恵みちはるにストレスを与えていく。


 ――ピチョン


 「ビクッ」


 始まってから1時間、理恵みちはるの精神はだんだんとすり減って行った。


 ――ピチョン


 「ビクッ」


 始まってから2時間、1滴落ちるごとに全身に衝撃が走った。理恵みちはるは、精神的なダメージが深刻なのか、全身に走る衝撃に痛みさえ錯覚するほどだった。


 ――ピチョン


 「ビクッ」


 始まってからもうすぐ3時間、理恵みちはるのダメージは計り知れないほど大きくなっていた。3秒に1回のタイミングで落ちてくる水滴が理恵みちはるの体を蝕む他に、水滴が落ちてこない時でも水滴の幻覚を感じ、皮膚が反応してしまう。もう頭の中が衝撃で真っ白になり、何も考えられない。

 父さんがロープを外して水滴を止めたのにもかかわらず、理恵みちはるは終わったことに気付かず、椅子に座ったままだった。

 真っ白な理恵みちはるの頭の中に強制的に情報が入ってきたのはその時だった。


 「ケイヤクノジュンシュ」

 「1度交わした契約の履行を強制する魔法」

 「魔法は悲劇の体験を条件に与えられる」

 「悲劇を指摘された場合、魔法を失う」

 


 ここで、道春の意識は現実に戻った。

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