夏
「あっつーい。なんなの、このムシムシ!」
立っているだけでも汗が噴き出してくる蒸し風呂のような体育館の中で、里奈は少しイライラしながら、コートにモップをかけていた。練習前のモップがけは1年生の仕事だ。
少し早めにやってきた梅雨のせいで6月の頭だというのにジメジメとした毎日が続いている。おまけに今日は初夏のような暑さな上に、風ひとつなかった。温暖湿潤気候とはこういうことを言うんだろうなと、里奈はどうでもいいことを考える。
「もー、クーラーつけてくれりゃいいのに。」
ぶつくさ文句を言いながら、モップを片付けていると隣で同じ1年生の優子が笑った。里奈と違い、優子は穏やかでのんびりしている。準備をしただけで、汗だくになっているのに、嫌そうな顔一つせず、優子は優しく里奈に言った。
「確かに今日は暑いね。でも、練習でクーラーかけちゃったら、試合がしんどくなっちゃうじゃない。」
まともな優子の答えを聞いて、「確かに。」と里奈はつぶやいた。モップを片付け終えた里奈は、体育倉庫の奥からボールカゴと得点板を引っ張り出す。男子と違い、女子にはマネージャーがいないので、こういった雑務や準備も里奈達、1年生の仕事だ。
一通りの準備を終え、里奈はストレッチをしながら、隣のコートで既に練習を始めている男子のほうをぼんやりと見つめた。アップを終えた男子達は、顧問があげるトスでレシーブの練習をしている。
上手いなあ。里奈は心の中でつぶやいた。早々と負けてしまった女子と違い、男子はまだインターハイ予選に勝ち残っていて、3年生が現役で練習している。新人戦までこれといった公式戦がなく、のんびり練習をしている女子と違って、男子は気合が入って、皆イキイキと練習をしていた。
「吉野すごいよねえ、1年で1人だけベンチ入りしてるんだって。」
隣でストレッチをしながら同じように男子の練習を見ていた優子が、里奈のほうを振り返って言った。里奈が回していた手のひらを止めて、優子に聞く。
「吉野?誰、それ?」
首を捻って聞いた里奈を、一瞬びっくりした顔で優子がみた。「あはっ。」と吹き出した優子の顔は、あいかわらず優しい。
「やだ、里奈、吉野のこと知らないの?あんた同じクラスじゃん。」
優子に言われて今度は里奈がびっくりした。
「まじ?吉野なんていたかなあ?私、相澤だから、出席番号近くないし。」
言い訳をしながら、里奈は首をかしげる。いたようなような気もするし、いないような気もした。少し考えても思い出せなかったので、里奈はどうでもよくなって、体育館の窓から見える、どんよりとした曇り空を見上げた。せめて晴れてたら気持ちがいいのに、とため息をついてから、里奈はもう一度男子のコートを見やる。
吉野が誰だかはわからない。1人ユニフォームが違う選手がいたので、そいつかなあ?と里奈が首をかしげた時だった。痛烈なスパイクの音がして、里奈は一瞬にして、吉野から注意を逸らしてしまう。
スパイクを決めたプレーヤーの跳び方といい、打ち方といい、かっこよすぎて、里奈は珍しく心臓の高鳴る音を聞いた気がした。もう一度バシっというスパイクの音が鳴り響く。
-カッコイイ。-
あまり一目惚れをするタイプではないのだが、里奈は一瞬にして心を奪われてしまった。顔は遠くてよく見えない。
「あの人、誰?」
思ったことがすぐ口に出る、里奈が優子に聞く。
「え?」
優子がきょとんとした顔で里奈のほうを見た。里奈は釘付けになった視線を離せないまま、もう1度指をさしながら優子に聞く。
「ほら、今またスパイクした人。かっこよすぎなんだけど。」
優子が男子のコートを振り返る。「ああ。」と言ってから、優子は笑いながら答えた。
「康介先輩だよ、男子のエース。ってか、里奈、同じバレー部なんだから、男子の名前ちゃんと覚えなって・・・」
-康介先輩。-
隣でまだ何か話している優子の声が聞こえてこないくらい、初めて見た康介のプレーから、里奈は目が離せずにいた。
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「今日も暑いなあ。」
うだるような暑さの中、里奈はノロノロとした足取りで、ほとんどない日陰を求めて道の端を歩いていた。運動神経には自信があるのだが、室内競技をしているせいか、里奈は直射日光に弱い。
「あー、喉乾いた。水分補給水分補給。このままじゃ、干からびちゃう。」
道端にあった自販機でスポーツドリンクを買いながら、里奈は空を見あげた。真っ青とした空は高く青く、雲1つなく晴れ渡っている。
青空のキレイさに目を奪われながら、里奈はごくごくと買ったばかりのスポーツドリンクを一気に半分飲み干した。一瞬で噴出した汗をタオルで拭きながら、里奈はまた歩き始める。
「あー、生き返った。」
汗をふいたタオルをカバンにしまって、もう一口飲もうとペットボトルの蓋を開けた時だった。
「おまえ、思ったこと、全部口から出てるぞ。」
突然後ろから話しかけられて、里奈はびっくりして振り返る。振り返った拍子に、手にしていたペットボトルのキャップのキャップがコロンと道路に落ちた。
「あちゃー。」
里奈のやってしまったという顔を見て、ぷっと笑いながら声の主が言う。
「また、口から思ったこと出てる。」
見上げると、いつからそこにいたのか、ポケットに手を突っ込んだ康介が里奈を見ながら笑って立っていた。
「げっ、康介先輩!いつからそこにいたんですか?」
康介が落としたペットボトルの蓋を拾ってくれながら、また笑う。
「げっ、っておまえ、先輩に対して失礼だな。」
言葉とは裏腹に対して腹を立てているようでもない康介が、ペットボトルの蓋と引き換えに、里奈のペットボトルをつかんだ。「これ、ちょうだい。」と言ってから一気に残りを飲み干す。康介の額にも一瞬で汗が光り始めた。
「あーっ!あげるってまだ言ってないんすけど。あー、学校ついたら飲もうと思ってたのに。あーあ。」
一気にやる気が失せた里奈の顔を見て、康介が今度は苦笑した。
「だから、思ったこと全部出てるって。おまえ、そこは、先輩、はいどうぞって喜んであげるとこじゃね?俺、一応男子の元エースなんですけど?」
あーそうですねえ、と適当に相槌を打ってから、里奈はまた空を見あげる。空が高すぎて、吸い込まれそうになるくらい、今日はいい天気だ。そういえば、康介先輩とちゃんと話したの、初めてかもしれない。里奈はちょっと嬉しくなった。
インターハイ予選の最後で負けてしまった男子のエースだった康介は、引退した後も、ほぼ皆勤賞で部活に来ていた。里奈と同じように多分バレーバカなのだろう。
高校3年生といえば、受験にむけて夏期講習真っ盛りの時期のはずだが、部活ばかりしていた康介は受験する気などないらしく、内部推薦で大学に進むつもりらしかった。バレーばかりしているようで、推薦をもらえる位の成績はちゃかりとっているらしい。
空を見上げていた里奈は、隣を歩く康介を見た。背が高く、がっちりした康介はのんびりとした足取りで歩いている。染めているわけでなはい、少し茶色がかった髪は短く、里奈は思わず見とれてしまった。視線に気づいた康介が何?と問いかけ顔になる。里奈は慌てて、適当な質問をした。
「あれ?今日って男子って練習ありましたっけ?」
自分でもなんていう質問してるんだと呆れていると、康介がふっと笑いながら答えた。
「いんや、ない。」
だからどうした?と言わんばかりの顔で里奈を見る康介を見て、里奈が呆れる。そういえば、昨日練習試合だった男子は、今日は休みのはずだ。今度は里奈がくすっと笑った。
「先輩何しに学校行くんすか?」
笑いながら聞いた里奈を康介が意外そうな顔で見る。頭をコツンと康介に叩かれて、里奈は顔が真っ赤になった。そんな里奈を見て、康介はふっと笑う。
「おまえ、思ったことが口から出すぎなんだよ。態度もわかりやすすぎだぞ?」
頭をまたぽんっと叩かれ、里奈は胸がきゅっとなった。見上げた康介と空中で視線が一瞬絡み合う。どきっとした里奈の気持ちを吹き飛ばすように、康介が笑いながら言った。
「ってか、おまえ、予定表ちゃんと見た?今日女子も練習ないぞ。」
キュンキュンしていた気持ちが一気に里奈から吹き飛ぶ。
「えーっ?!」
里奈は慌てて練習の予定表をカバンから引っ張り出した。今日の日付を見て、里奈ががっくりとする。確かに女子も休みと書いてある。そういえば、顧問が明日は休みと昨日言っていたような気がした。
「あー、まじかあ。やっちゃったわあ。あー、暑い中歩いて損した。」
頬っぺたを膨らませて、ぶつぶつ言いながら、里奈は今来た道を引き返そうと振り返る。そんな里奈を見て康介が笑いながら言った。
「おい、せっかく来たんだから、一緒に自主練してかね?俺も間違えて来ちゃったタイプ。」
康介がにやっと笑った。里奈と同じで、バレーは出来ても、ちょっと抜けているところがあるらしい。康介が同じ間違いをしたことが里奈はなんだか嬉しくて、とびっきりの笑顔になった。
「わーお!まじすか?ラッキー♪元男子のエースと自主練できるなんてついてる♪」
ニコニコしながら答える里奈を見て、康介が吹き出す。
「おまえ、ほんと全部口から出るな。わかりやすすぎて、面白いわ。」
見上げた康介の顔が優しく微笑む。里奈と康介の視線が、空中で絡み合う。里奈はドキドキして康介を見つめた。晴れ渡った空と康介の笑顔がリンクして、キラキラ光っている。そんな康介から、里奈は目を逸らすことができなかった。
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「ねぇ先輩、先輩は進路どうするんですか?」
自主連を終えた帰り道、里奈はなんとなく康介に聞いた。答えはわかっているのだが、なんだか聞かずにはいられない。
「んー?おまえは?」
お茶を飲みながら歩いていた康介が逆に聞き返す。
「私は指定校狙いっす。学校の成績は良いけど、 受験勉強したくないもーん。」
あはっ、と康介が笑った。きょとんした里奈を見ながら、康介が答える。
「俺と一緒だな。ってか、おまえ、その喋り方、俺のツボなんだけど。」
里奈は嬉しくなって、また考える前に思ったことが口からこぼれた。
「ほんとっすか?そんなにツボなら、先輩の彼女になっちゃおっと♡」
浮かれる里奈の頭を康介がまたコツンと叩く。
「いきなり彼女になるな。」
なぬー?!っと膨れた里奈を見て、康介が笑った。里奈の頭にぽんっと手を置いてから、康介が言う。
「おまえ、なんか可愛いな。」
里奈は嬉しくなって、思わず康介に抱きついた。
「ほんと?やったー♡先輩はかっこよすぎです。」
抱きついた里奈を苦笑しながら康介が見る。慌てて離れた里奈を見て、康介がまた笑った。
「なんか忙しい奴だな。見てて飽きないけど。」
里奈が頬っぺたを膨らませてちょっと怒る。
「忙しくないです。先輩が私のことドキドキさせてるんでしょ?」
康介がまた苦笑する。
「俺は何もしてない。おまえが勝手にドキドキしてるんだろ?」
里奈がまた膨れる。
「そうだけどさ~、しょうがなくないすか?だってさ~、憧れの先輩と2人で自主連とかしたら、ドキドキしますよ~。」
里奈がまだぶつぶつ言っていると、康介が笑った。
「いや、練習中は全然ドキドキしてる感じなかったぞ?目がマジすぎて怖かった。ギャップが激しすぎなんだよ。」
言いながら康介がクックと笑う。里奈はまた頬っぺたを膨らませた。
「だってバレーしてたら、ドキドキする余裕ないっすよ。バレー中にドキドキしてたら、レギュラーとれません。」
康介が何が可笑しいのか、爆笑する。笑われた事がよくわからず、きょとんとした里奈を見ながら、康介が言った。
「おまえ、なんか、やばい、俺ほんとツボかも。」
里奈と同じように思ったことが口から出る康介と、里奈の視線が空中で絡み合った。康介が里奈に、優しく微笑みかける。里奈は自分の顔が真っ赤になるのを感じた。
そんな里奈のおでこを、康介がコツンと優しく叩く。里奈が唇をキュッとして、うつむいた。もう一回おでこを優しく叩いてから康介が言う。
「そんな顔すんなって。ハマりそうでヤバイわ。」
顔をあげた康介と里奈の視線が空中で絡み合う。晴れ渡った空と康介の笑顔がリンクして、キラキラと光っていた。それは、真っ青に空が晴れ渡った夏の日の出来事だった。
***********************
2学期が始まった。
夏休みに2人で練習をしてから、里奈と康介はなんだかんだ喋るようになって、今ではすっかり一緒に朝練をする仲になっていた。
康介は相変わらずしょっちゅう練習に来ていて、後輩をこてんぱにやっつけて、バレーを楽しんでいるらしい。
1学期に比べて、3年生で練習にくる先輩は少ない。外部受験が多い女子で練習に来てくれる先輩は皆無に等しく、部員数が少ない里奈達にとって、康介をはじめとする男子の先輩達の存在はありがたかった。
「相澤~!お前、本気でやってんのかあ?」
顧問の怒号が鳴り響く。スパイクを止められず、ひっくり返っていた里奈は、うんざりした声で返事をした。
「は~い。」
あんなの止められないよ、と心の中でぶつぶつ言いながら、里奈は立ち上がる。
「返事は短く!」
顧問にまた怒られ、里奈はふくれっ面になった。3年生の男子と試合をして勝てるわけがない。理不尽だなあと思いながら里奈はまた顧問に返事をした。
「は~い。」
返事とは裏腹に態度は多分ふてぶてしい。
「こらー!返事は短く!真面目にやれ!」
また怒られて、里奈は面倒くさくなって、今度は返事もせずに頬っぺたを膨らませた。顧問がまだ何か叫んでいる。里奈がふくれっ面で怒られていると、いつのまにか、そばでやり取りを見ていたらしい康介に「こら。」とおでこをコツンと叩かれた。
「顔に出すぎだって。」
ふっと笑ってから、康介がもう一度里奈のおでこをコツンと叩く。里奈の頬が緩んで、膨れっ面じゃなくなったのを見て、康介がにやっと笑った。
「お、普通に戻った。俺の前ではいいけど、顧問にはさからうな。」
康介が里奈を見ながら笑う。もう一回コツンと頭を叩いてから、康介は相手コートに戻っていった。審判の笛がなって、練習が再開する。里奈は叩かれたおでこを抑えながら、ふやけた顔を引き締めようとプレーに集中した。
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男子を相手に練習をしているせいか、男子より女子のほうがどんどん上手くなってきて、1学期とは違い、顧問も先輩たちもなぜか女子の練習ばかり見るようになっていた。
部員数は少ないが、中学時代にエースやキャプテンだったものが多い女子は、結束力も固く、新人戦に向けて気合いが入っている。
里奈や優子もスタメンではないものの、かなり試合に使ってもらえるようになってきて、バレーの面白さを存分に味わう毎日が続いていた。
バシッと音がして、康介の痛烈なスパイクが決まる。康介が里奈を見てにやりと笑った。普段なら胸がキュンキュンする里奈だが、バレー中はわけが違う。里奈は思わず康介をキッと睨んた。それを見た康介がクックと笑う。
「こらー!今のはとれるだろ~!」
あーでもないこーでもない、と里奈は顧問にまた怒られた。無茶苦茶だなあと思いながらも、あのスパイクを止めてみたいと思う里奈は、元来負けず嫌いなのだろう。
顧問の怒号に今度は「はい!」と短く返事をしながら、里奈は窓の外の空を見た。少し夕焼けがかってきた空の色が目に焼き付く。里奈は空の色に心を奪われながら、絶対レギュラーをとるぞ、と心に誓った。
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「あ~あ、今日もまた怒られた。」
練習を終えてモップをかけながら里奈が言うと、隣で優子が笑った。
「先生、里奈に期待してるんだよ。」
優子はいつも前向きだ。
「でもさ、あんなのとめらんないよ~。本気なんだもん、一応女子だってのにひどくない?」
それを聞いた優子が今度はクスクス笑う。
「康介先輩、里奈だけには本気だよね。私達には本気で打ってこないもん。」
「え?そうなの?」
里奈が驚いて優子の顔を見る。優子は「そうだよ?」と言って、また笑った。この子は本当に性格がいい。
練習を終えて、ストレッチをしている康介のほうを見ると、目があった。里奈は思わずふくれっ面をしてしまう。なんだよ?と言った目で康介が里奈を見て笑った。
-私だけ本気?-
ちくしょー、あとで文句言ってやると思いながら、里奈は頬っぺたを膨らませる。急いで残った片付けを始た時、康介の姿は体育館からもう消えていた。
***********************
片付けを終えると、里奈は急いで更衣室に向かった。更衣室は練習を終えた他の部活の生徒達であふれかえっている。
「あ、里奈。お疲れ~。」
声がして振り返ると、愛美が練習着のまま座ってお茶を飲んでいた。彼氏が廊下で待っていたような気がするのだが、愛美は時間を特に気にしている様子はない。
荷物を愛美の横に置いて、蒸れて疲れた足を投げ出して、里奈も座った。
「あー、疲れた。」
愛美が「飲む?」と言ってお茶を差し出してくれながら、茶目っ気のある目をクリクリさせる。里奈は「ありがと。」と言ってから、ゴクリとお茶を飲んだ。ペットボトルを返すと、愛美は今度は飲まずに床にお茶を置いて、いつものようにストレッチを始める。
「また、康介先輩に絞られたの?」
足と腰をのばしながら 愛美が興味があるのだかないのだか、よくわからない口調で聞いた。里奈も腕を伸ばして、首をポキポキっと鳴らす。ちょっと腰の伸ばしてから、里奈は答えた。
「当たり~。だってさ、本気なんだもん。おかげで、ゴローさんにまた怒られまくりだよ、やんなっちゃう。」
頬っぺたを膨らませた里奈を見て、愛美が笑う。里奈も肩をちょっとあげて、おどけてみせた。毎日ゴローさんに怒られるのは、気分のいいものではない。
里奈が言うゴローさんとは、バレー部の顧問のあだ名だった。顧問の顔が、ドラマに出てくるゴローというオタクキャラにそっくりなのである。それで、本名は別にあるのだ、生徒達の間ではゴローさんとか鬼のゴローとか呼ばれていた。
隣でまた愛美が笑った。里奈は「なんで笑うのよ。」とふくれっ面をしながら、顔を洗いに行くために立ち上がる。愛美は「いやいや。」と言ってから、また笑った。
「似たもの同士なんじゃない?」
足首を回すのをやめもせず、愛美が言う。なんのこっちゃ?という表情をしてから、里奈は愛美をその場に残して、洗面所に向かった。
ちょうどバレーの部の先輩部員が顔を洗い終えたとこだったので、里奈は「お疲れ様です。」とぺこんと挨拶してから、顔を洗い始めた。洗い終わった顔をタオルで拭きながら、里奈は鏡にうつる自分の顔を見た。
大きくもなく小さくもない目と、ちょっと低めの鼻、薄くも熱くもない唇。里奈はいわゆる普通の顔をしているが、愛美は里奈の顔を愛嬌があって可愛いと言う。多分性格が顔ににじみ出ているのだろう。
先輩が可愛いって言ってくれたのは、顔なのかな、性格なのかな。。そんなことを考えながら、着替えをしに元の場所に戻ると、まだ愛美は足首をクルクル回してストレッチをしていた。一体どれだけ足首を大切にしているのだろう。里奈が呆れて苦笑する。
「愛美、彼氏待ってたよ?」
「うん。」
だからなんだ?といった顔をして、愛美は相変わらずストレッチをしている。待たせていることより、柔軟をキチンとすることのほうが、愛美にとっては重要らしい。
「ケアが大切なのよ、ケア。怪我して試合出れないとか最悪だし。」
愛美はどうやらテニスバカのようだ。男泣かせだなあと思ってから、里奈はさっさと着替えるとカバンを持って立ち上がった。
「じゃ、またね。お疲れ、愛美。」
「おー。お疲れ~。」
のんびりした愛美の声を背中で聞きながら、里奈は小走りで更衣室をあとにした。
***********************
更衣室を出て、自販機でスポーツドリンクを買っていると、壁に寄りかかって待っている愛美の彼氏と目があった。里奈は会釈してから、その場を立ち去る。里奈が呼びにいったところで、愛美は多分来ないだろう。
なんだか自分だけ急ぐのがバカらしくなって、里奈は歩いて下駄箱に向かった。康介がいつものように、下駄箱に寄っかかって里奈を待っている。
「おまえ、先輩待たせてんのに、ゆっくり歩いてくんなよ。」
康介が特に腹を立てたわけでもない様子で、里奈に言った。里奈は練習で怒られたことを思い出し、またふくれっ面になる。
「別に待っててくださいって言ってません。」
「すぐ怒んなって。」
康介が苦笑しながら、頭をこコツンと叩く。叩かれたおでこを抑えながら、里奈は康介をちょっとだけ睨んでから、靴を履き替えた。
ようやく下駄箱によっかかるのをやめた康介をおいて、里奈はとっとと歩き出す。康介は「怒んなって」と言いながら、のんびり里奈の後ろを歩き始めた。立ち止まった里奈に追いついてきた康介は、特に困ったふうでもなく、里奈を見て笑っていた。
「だって先輩、私には本気なんだもん。一応女子なのに、ひどくないですか?本気出されたら勝てないですよ。」
口を尖らせた里奈を見て、康介がクックと笑った。「よしよし。」と言いながら、頭をくしゃくしゃにされて、里奈はまたふくれっ面になる。
「いやいや、おまえ、手加減したらキレそうじゃん。手加減してほしいの?」
里奈がまた康介を睨む。
「してほしくありません!」
康介が今度は吹き出した。何がそんなに可笑しいのか、腹をかかえて笑っている。里奈はぷんぷんと怒り出す。
「もう、なんなんですか?!」
ふんっと前を向いて歩き出した里奈と一緒に歩き始めた康介が空を見上げながら言った。
「おまえはわかりやすくて、ほんと可愛いな。」
「え?」っと振り向いた里奈の頭に、康介の手がぽんっと置かれた。どきっとした里奈の目が、康介の視線と絡み合う。ん?と康介が問いかけ顔になる。
ちょっと俯いた里奈が口をつぼんだ。康介が目元を緩めて笑いながら言う。
「どうした?おまえらしくないじゃん。思ったことが口から出てないぞ。」
見上げた里奈の目がまた康介の視線と絡み合う。夕方の空とリンクした康介の顔はあったかくて、里奈は胸がキュンとするのを感じた。完全に手のひらの上で転がされているのを感じながら、里奈は小さな声でポツリと言った。
「期待しちゃうから、あんまり優しくしないでくだい。」
聞こえたのか聞こえないのか、じっと里奈の顔を見ていた康介が、今度は里奈のおでこを優しくコツンと叩いた。
「期待していいよ。」
康介と里奈の視線がまた空中で絡み合った。夕焼け色に染まった空に、また明日顔を出すお日様の光が幾筋にも連なって光っている。
「期待しちゃいますよ?」
少し不安気に首を傾けて聞いた里奈の頭に康介が優しく手を置いた。眉毛だけ少しあげながら、康介が言う。
「期待しちゃって?」
優しい康介の笑顔と夕焼け空がリンクして、里奈は目を逸らす事が出来なかった。里奈の頭から離れた手が当たり前のように、里奈の手を掴む。
里奈はまた自分が真っ赤になるのを感じた。下を向いた里奈を見た康介がふっと優しく笑う。康介はなんでもないことのように、里奈の手をひいて歩き始めた。
「思ってたより、手ちっこいんだな。」
康介の手に包まれた手が汗ばんでいる気がして、里奈が「えっと・・・」と口ごもった。康介がクックと笑う。
「手すげえ汗かいてる。」
里奈が真っ赤になって、頬っぺたを膨らませた。怒ってるのか嬉しいのかわからないのに、目から涙がこぼれそうになる。
「もー、恥ずかしいから、そうゆうこと言わないでください。」
康介が優しく里奈の目元を拭った。里奈と康介の視線が空中で絡み合う。頭に手を出しポンッとおいた康介が少し困ったように言った。
「そんな顔で見んなって。抱きしめたくなるだろ?」
里奈がどうしていいか、わからず下を向いた。里奈の頭から離れた手が、一瞬空中で止まってから、優しくおでこをコツンと叩く。
「帰るぞ。」
優しく言った康介の言葉に、里奈がコクンと頷いた。康介がクルリと向きを変えて歩き出す。つないだで手から、康介の温もりが伝わってきて、里奈はドキドキが止まらなかった。
「先輩、好きです。」
うつむいた里奈の口から想いが溢れ出す。康介は里奈のほうを見なかった。里奈が康介を不安気に見上げる。一瞬の沈黙の後、康介が口を開いた。
「うん。」
康介が言ったのはただそれだけだった。夕焼けの空と康介の横顔が重なって、里奈はちょっぴり切なくなる。
里奈は視線を逸らして空を見上げた。それは、夏も終わりに近づいた、里奈が15歳の日の出来事だった。
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