第3章

立秋

「愛美、また別れたの?」


里奈が呆れて愛美を見る。今日の愛美は少々飲んだくれだった。愛美の隣にいた優子がふふっと笑う。愛美の肩を優しく撫でながら優子が言った。


「きっとまた、のよ。」


多分他の子が言ったら嫌味に聞こえるのに、優子が言うと優しく聞こえる。愛美が「優子だけだよ、優しいのは~。」と優子に抱きついた。優子が困ったように笑いながら、愛美の肩を優しく叩く。


「愛美、落ち着いたら、ちゃんと話そうね、幹事なんだから。」


首を傾けて、「ね?」と愛美に問いかける優子は相変わらず天使のように優しかった。大学を出て早々と結婚して、すでに1児の母である優子は、いくつになってもあったかくて柔らかい。


里奈が優子を見て、ふうっとため息をつく。この子のように純粋でまっすぎに生きられたら、人生もっと楽しかったかもしれない。たかが4半世紀も生きてないのに、里奈は1人しみじみとしてグラスを傾けて、とろけるような液体を飲み干した。


高校を卒業して5年。節目ごとに開かれる同窓会の今日は幹事の集まりだった。同窓会の幹事は、大体どこかの部長が持ち回りでやっていて、今回はテニス部にその幹事が回ってきたのである。男子の部長がどこか地方に転勤してしまったため、今回は愛美が同窓会を取り仕切っていた。到底1人では幹事は出来ないので、その飛び火が里奈や優子に飛んできたという訳である。


「愛美、荒れてんなあ。」


隣りにいた吉野が口を開いて、里奈は隣にいる吉野のほうを振り返った。相変わらず爽やかでイケメン風の吉野は、涼しい顔でお酒を飲んでいる。大学時代、何人か彼女はいたようだったが、今フリーなのかどうか、里奈は知らなかった。愛美と優子に聞こえないように、ちょっと小声でに里奈が聞く。


「ねえ、吉野ってさ、愛美どうなの?」


吉野が隣でブッとお酒を吹いた。変に慌てた姿がおかしくて、里奈がからかう。


「だってさ、私のこと、さんざん愛美に相談して、愛美に恋しちゃったタイプじゃないの?」


図星だったのか、昔からまっすぐな吉野がしどろもどろになる。聞いてもないのに、勝手に吉野が喋りだした。


「いやさ、はじめはさ、相談してたんだけど、なんか2人で遊び行ったり、でも愛美は彼氏がいつもいたし、俺もなんか彼女いたりとか・・・。」


里奈が変に言い訳をしている吉野を見てクックと笑う。吉野が「なんだよっ。」とちょっとふくれっ面になった。里奈が笑いながら吉野に言う。


「私は大好きな愛美と吉野が一緒になってくれたら、嬉しいよ。」


吉野が「いや、、、。」と首を傾けた。里奈がキョトンと覗き込む。少しはにかんだ吉野が口を開いた。


「あいつは俺のこと、多分友達としか思ってないよ。」


チラッと横目で里奈をみた吉野が、「ま、里奈だったけどな。」とふっと笑う。里奈が苦笑した。目線を愛美に戻した里奈が、吉野を見ずに言う。


「でも、私は吉野に感謝してる。吉野が誘ってくれなかったら、康介は試合観に来てくれなかった。それに、、、。」


ちょっと考えてから、吉野のほうを振り返った里奈が言った。


「吉野が誘ってくれたから、大学4年間、ほんとに楽しいバレー生活送れたし、ほんと大切なバレー仲間に出会えたよ。」


里奈の言葉に吉野が視線を里奈に向ける。そんな吉野を見て里奈がふっと笑った。


「ありがと、吉野。私に大切な宝物、沢山くれて。」


笑顔で言った里奈がちょっと首をかしげながら愛美を見る。ふっと笑って、吉野の方を振り向いた里奈が、ちょっとまゆげをあげて、吉野に言った。


「吉野さ、ちゃんと伝えときなよ。自分の気持ち。」


珍しく恋愛トークをする里奈を、吉野が少し不思議そうに見る。里奈がまた少し首をかしげながらニヤっと笑って言った。


「もし?」


吉野が首を傾けてフっと笑う。頭をちょっとかきながら、里奈をほうを吉野が見た。2人ともクックと笑っている。


は、未だに実現してないな。」


里奈と吉野が2人で乾杯をした。2人とも一気にグラスの液体を飲み干す。同時に飲み終えた2人はまた目を合わせてクックと笑った。2人同時におかわりを注文して、また吉野と里奈がふっと笑う。


バレーで7年間、汗と涙を一緒に流した吉野と里奈の間には不思議な絆が生まれていた。吉野が里奈を好きでいてくれた甘酸っぱい想い出は、ずっと想い出のままで、これからも多分ずっと笑いながら話していける。里奈にはそんな吉野との関係が不思議だった。でも、居心地のいいそんな友情も悪くない気がする。新しいグラスに口をつけた里奈が口を開いた。


「多分、ずっと実現しないね。」


ふふっと笑いながら言う里奈に、吉野が「オイッ。」とデコピンする。おでこをおさえた里奈が笑った。吉野が笑いながらふざけて言う。


「こののどこがだめなんだよ?」


里奈がふっと笑った。「う~ん?」と考えるフリをしてから里奈が口を開く。


「あ~、かな?」


康介の言い方を真似た吉野が、また里奈にデコピンをした。里奈が「いったーい!」とオデコをおさえる。口を開いて何か言おうとした里奈の言葉を、元気のでた愛美の声が遮った。


「みなさーん、今日は忙しい中ありがとうございまーす!」


たかが7,8人しかいないのに、愛美が大きな声で続ける。


「とりあえず、会場係とハガキ係と会計・・・かな?係決めちゃったら、今日はもう飲んでればオッケーなんで、ちゃちゃっと決めちゃいたいと思いまーす。立候補してくださる方いらっしゃいませんか~?」


何人かが手を挙げて、次々と係が決まっていった。1番面倒くさいハガキ係だけが延々に決まらない。卒業名簿の宛先に同窓会の案内ハガキを出して、返送されていしまった先には電話をしてり、卒業名簿の訂正作業までしなければいけないハガキ係は、昔から嫌われていた。社会人なりたてでクソ忙しい時期だけに、当然みんな倦厭してやりたがらない。しびれを切らした愛美が言った。


「もう、里奈一緒にハガキやって!」


里奈が「えー、私会場やってるじゃん。」とびっくりしたようなポーズをとる。愛美が鳴き真似をしながら言った。


「里奈の白状者~!」


里奈がまゆげをあげながら笑う。にやっと笑って横を見た里奈が、隣を指さしながら言った。


「大丈夫大丈夫、我がバレー部の男子キャプテンがハガキ係、喜んで愛美とやりらせていただきますから。」


隣で吉野が何か言ったような気がした。里奈は知らん顔してグラスに残った液体を体に流し込む。愛美が機嫌よく言った。


「吉野素敵すぎる!」


それを聞いた里奈が優しく笑う。それは幾分空が秋めいてきた、秋の夜の出来事だった。


***********************


「あの吉野と愛美ちゃんがねえ。。。」


仕事で疲れているのか、康介があまり興味なさそうに言う。大切な友達と大事な仲間が晴れてカップルになったというのに、あまりに薄い康介の反応に里奈が口を尖らせた。


「もーいーよ。」


ふんっと横を向いた里奈の頭を康介が優しく撫でる。康介がニヤっと笑って里奈に言った。


「吉野はずっと里奈のこと好きだったじゃん。」


里奈がびっくりした顔をして康介を見る。吉野に告白されたことを里奈は康介に言っていなかった。


「なんで知ってるの?」


里奈が思わず口を滑らした。康介がクックと笑う。


「いや、多分里奈だけだったんじゃね?気づいてなかったの。吉野のことだから、どうせ里奈に気持ちは伝えたんだろ?」


ソファに寝そべった康介が面白そうに里奈に聞いた。里奈がしぶしぶ、「うん。」と返事をすると、康介が「あいつは真っ直ぐだからなあ。」と他人事のように言った。面白くない顔をした里奈が、今度は康介に聞く。


「康介も綾乃さんに告白されたの?」


康介がフッと笑った。


「されてたら、どうなの?」


逆に聞き返された里奈がふくれっ面になる。康介が優しく里奈の頬を触った。


「だって、仲いいから、気になるじゃん。」


ちょっと口を尖らせた里奈に康介が言う。


「里奈だって吉野と仲いいじゃん。同じだよ、仲間。」


顔をあげた里奈と康介の視線が空中で絡み合った。康介が口元を緩めてふっと笑う。


「ま、俺は吉野に対してヤキモチは妬かないけどな。ライバルと思ったこともない。」


里奈の髪を優しく撫でながら、康介が今度はちょっと苦笑した。


「なんか、アイツと一生の付き合いになるとは思わなかったな。」


里奈がキョトンと康介を見た。「一生って?」と里奈が首をかしげる。康介が苦笑した。


「里奈がさっき、吉野と愛美ちゃんは多分結婚するって言ったんだろ?そしたら、2人は里奈の友達なんだから、ずっと一生友達だろ?そしたら、俺にとっても一生友達になるじゃん。」


よくわからない持論についていけずに、里奈が首を傾げる。康介が里奈のオデコをコツンと叩いた。


「だから、になるだろ?って意味だよ。」


ようやく理解した里奈が頷いた。笑顔になった里奈が康介の隣に寝っ転がる。そんな里奈を康介が優しく包み込んだ。


「早くになりたいな。」


里奈のおでこに唇を寄せた康介がニヤリと笑って言った。


「あれ?俺が30になったら、結婚するんじゃないの?」


康介の胸に顔を埋めた里奈の心に、いつかの会話が蘇る。


―「ねぇ、先輩。もしも30になっても先輩が結婚してなかったら、結婚してくれる?」


 「いいよ。」―


里奈の心にあたたかなものが流れた。


「覚えてたんだ。」


呟いた里奈の耳元で、「うん。」という康介の声が聞こえた。康介がそのまま続ける。


「別に今でもいいんだけど、里奈、今仕事面白くなってきたところなんじゃない?」


里奈が康介の胸から顔を離して、「うん。」と笑顔で言った。康介が優しく里奈の髪をなでる。


「ちゃんとんだから、もうちょっと仕事楽しみなさい。」


里奈がまた「うん。」と頷いた。康介が里奈の頭を撫でながら言う。


「俺もさ、里奈に負けないように、頑張るよ。」


里奈がキョトンと康介の顔を見た。


「頑張るって?」


康介が「ん~?」とちょっと目を逸らして顎をかく。


「社内の公募にさ、チャレンジしてみようかなって思って。」


里奈が首をかしげた。


「公募?」


康介がふっと笑う。


「チャレンジするのは誰でもしていいだろ?」


何か言おうとする里奈の口を康介の口が塞いだ。また聞けばいいか、そう思った里奈は康介の口から自分の口を離さなかった。この時、それ以上聞かなかったことを後で後悔する日がくるとは、この日の里奈は思いもしなかった。


***********************


「留学って?」


里奈が怪訝な顔で康介に聞く。ここ数日ひどく体がだるく里奈は頭を押さえていた腕を机についた。康介が里奈を不安そうに覗き込む。


「里奈、体調悪いのか?」


里奈がそれには答えず、怒りを顕にした。今日の里奈は普段より少々荒っぽい。


「だから、なんでいきなり留学するわけ?なんでこのタイミングなわけ?」


康介が困ったように頭を掻いた。


「いきなりじゃないんだけど、、、。」


口ごもった康介を里奈が睨んだ。自分でこんなに腹を立てていることに、里奈が少々驚く。それでもなぜか里奈は、感情のコントロールが効かなかった。康介が喋る間も与えずに、里奈が一気にまくし立てる。


「それで、2年間待ってろって言うの?約束したじゃん、康介の嘘つき!」


自分から出ている怒りの大きさに里奈自身が戸惑う。社内の海外留学の公募に受かった康介を本来の里奈なら笑って送り出すことができたはずだった。


確か3年くらい前から康介が、このために勉強していたのを里奈は知っている。海外留学もいきなりではなく、いつか受かったら行くものなのだと、里奈も思っていた。それでも何故か、受け入れることのできない自分に里奈自身の心が傷つく。


「里奈、なんか顔真っ青だぞ?」


康介がまた心配そうに里奈を覗き込んだ。手にしたグラスのお酒はほとんど口をつけていない。康介が里奈の手をとって、立ち上がった。


「今日はもう帰ろう。里奈、風邪ひいた?」


話を逸らされたと思った里奈が今度は急に悲しそうになった。


「約束したのに、次は連れてってくれるって。」


コロコロ変わる里奈の態度に、さすがの康介も戸惑う。会計を済ませて店を出ると、康介はタクシーを拾った。里奈が少し虚ろな顔で康介を見る。


「電車まだあるよ?」


康介がそれには構わず、里奈をタクシーの奥に押し込めた。金曜の夜の道はタクシーの光が連なっている。里奈はいつか、遠くから、車の光を見たような気がした。キレイだったのだけを思い出す。あれは一体どこだったんだろう。里奈は頭が回らなくて、首を振った。どうも今日は体調が悪い。


タクシーの運転手が裏道を知っていたので、新宿から杉並にある里奈の家まではあっと言う間に着いた。康介がタクシー代を払って、里奈を部屋まで送り届ける。里奈を布団に寝かせると、康介が優しく里奈の頭をなでた。


「里奈、また明日来るから。今日はもう寝るんだぞ?」


里奈のおでこに手を当てた康介が「熱はないか。」と独り言を言った。そんな康介を見て、里奈の目から涙が溢れる。


「一緒行きたい。」


康介が困ったように里奈の頭を撫でた。


「里奈、ごめんな。今回は連れてけないんだ。勝手だけど、待っててほしい。」


里奈が首を振った。頭まで布団をかけた里奈のくぐもった声が、康介に突き刺さる。


「待てない。2年も待てない。連れてってくれないなら、もう会わない。」


康介が目を見開いた。


「それって、別れるってこと?」


ストレートに聞いた康介の声に対する里奈の返事はなかった。康介がため息をつく。里奈のすすり泣く声が部屋の中に響きはじめた。里奈の頭に手を置いて、康介が困ったように言う。


「里奈、俺は別れる気ないから。また明日来るよ。鍵、締めるんだぞ?」


康介はそう言うと立ち上がった。里奈は布団から出てこなかった。里奈の部屋から出た康介がため息をついて空を見上げる。晴れ渡った夜空に、薄雲が出て、さっきまで見えていた星達を隠し始めていた。。。


***********************


電話の音で里奈が目を覚ます。ヒドイ頭痛と吐き気がして、里奈は立ち上がることができなかった。電話は多分康介だろう。里奈は何をどうしたらいいのか頭が回らず、電話の電源を切った。昨日の今日のことだ、顔を合わせる気がしない。里奈は頭の上まで毛布を被った。ドアと叩く音と康介の声が布団越しにくぐもって聞こえる。


「里奈、開けて。」


里奈は立ち上がらなかった。立ち上がれなかったと言ったほうが正しいかもしれない。昨日より悪化した体調に里奈の中で不安がよぎり出す。康介に言いたいことは沢山あるのに、何から伝えたらいいのか、里奈にはわからなかった。


「里奈、ドア開けて。」


康介の声がまた聞こえた。里奈は体が張り裂けそうで、毛布の中で小さくなる。大好きなのに、笑って祝福できない自分が嫌だった。多分伝えなくちゃいけないのに、勇気を持てない自分が嫌だった。里奈の目から涙が溢れる。


ようやく体を起こして、ドアの前まで行くと、里奈は重たい口を開いた。


「開けたくない・・・。ごめんね。」


それだけ言うのが、里奈はやっとだった。しゃがみこんで、口元を押さえると、涙が溢れ出す。康介ドア越しに「里奈・・・。」と言って言葉に詰まった。里奈が涙に濡れた声で言う。


「会いたくない・・・。留学おめでとう。」


里奈はそれだけ言うと、声をあげて泣き始めた。自分でもビックリする位、涙だけでなく鳴き声が部屋中にこだまする。玄関のドアを叩く音が聞こえたような気がした。康介が何か言っているような気がする。里奈は耳を塞いだ。こんなにも傷ついていた自分にビックリする。


「里奈!」


ドアの向こうで、ハッキリと康介の声が聞こえた。


「ごめん。約束のこと。でも、待ってて欲しいんだ。」


康介の声に里奈は返事をしなかった。信じていた幸せが粉々に砕けていく音がして、里奈の心はどんどんと閉ざされていった。


***********************


「里奈?大丈夫?」


愛美が心配そうに顔を覗き込む。1人でいるのが嫌で、気づいたら里奈は愛美の部屋に来ていた。里奈が泣きはらした顔で首をかしげる。


「あんまり、大丈夫じゃないかな。。。」


愛美がココアを里奈の前に置いてくれた。里奈が「ありがとう。」とカップに手を伸ばす。一口飲んで、里奈はカップをテーブルに戻した。ため息をついて里奈が独り言のように言う。


「どうして、待ってるって言えなかったんだろ。。」


愛美が里奈の肩に手を置いた。


「先輩が行っちゃう前に、もう1回ちゃんと話してきなよ。里奈、後悔するよ?」


里奈が愛美をぼんやりと見た。そうしたいのに、何故か里奈の気持ちはずっと沈んでふさぎ込んでいる。寝不足のせいなのか、妙に眠くて体もだるかった。


-「昔からさ、嫌なことがあるとここに来るんだよ。」-


いつかの康介の声が突然里奈の頭に蘇った。里奈がぼんやりと窓から空を見る。今年も花火行けなかったな。。。里奈の胸にちくりと痛みが走った。


―「里奈、方向音痴だから、あとで地図書いてやるよ。」―


里奈は思い出したようにカバンを開けて手帳を取り出す。確かポケットに詰め込んだままのはずだった。何かを突然探し出した里奈を愛美が不思議そうに見つめる。探していた里奈の手が何かを掴んで止まった。


「あった。」


小さな白い紙に書かれた、秘密基地までの地図。なんだか無性に行きたくなって、里奈が突然立ち上がる。愛美がびっくりしたように里奈を見た。


「愛美、ごめん。ありがと。ちょっとここ行ってくる。」


愛美が怪訝そうな顔をした。


「行くってどこに?」


里奈が少し淋しそうに笑って言う。


「秘密基地。会えないかな、康介に。。。」


不思議そうな顔をした愛美に、里奈がポツリと言った。


「もし秘密基地で会えたら、待ってるって言えるかもしれない。」


愛美が困ったように笑う。首を少し傾けた愛美が口を開いた。


「秘密基地が何かわからないけど、会えなくてもちゃんと里奈の気持ち伝えなきゃダメだよ。また、後悔するよ?」


里奈が首を傾けながら、愛美を見る。目を伏し目がちにした里奈が下を向いてポツリと言った。


「約束したの。」


里奈の目から涙が溢れる。愛美がテッシュを差し出してくれた。愛美が心配そうに覗き込む。


「約束って?」


里奈が顔をあげて、愛美を見た。淋しそうに笑ってから、里奈が言う。


「約束したの、ずっと前に。次は連れてってくれるって。」


愛美が眉を寄せて里奈を見る。


「里奈、でも今回は事情が事情だから。。。秘密基地なんて行ってないで、先輩とちゃんと話なよ。」


里奈が力なく肩を落とした。自分でもどうして、昔の約束にこんなにこだわっているのか分からない。康介だって、きっと困っているはずだった。でも今はどうしでも離れるのが嫌だった。連れてってくれないなら、康介を信じて待ってることが出来なかった。


「なんでこんなに不安でいっぱいなんだろう。。。」


呟いた里奈の肩に、愛美が優しく手を置いた。


「里奈?なんか顔真っ青だよ?先輩、ここ呼んでいいからさ。ね?ちゃんと話したほうがいいって。」


里奈が首を振って「ありがとう。」と愛美に言う。


「やっぱり行ってくる。」


これ以上言っても無駄だと思ったのか、愛美がふうっとため息をついた。


「わかった。」


里奈が立ち上がる。「一緒に行く?」と聞いた愛美に里奈が首を振った。


「里奈、何かあったら電話して?」


愛美が玄関を開けながら里奈に言う。里奈がまた「ありがとう。」と言って愛美を見た。晴れた空と、里奈の青白い顔が正反対の色をしていて、愛美の心に不安が走った。


「里奈!」


歩き始めた里奈の背中に愛美が言う。


「待って、私も行く!」


里奈が泣きながら首を振った。


「ごめん、愛美。1人で行かせて・・・。」


走り出した里奈を愛美はもう止めなかった。


***********************


晴れた空と里奈の後ろ姿を見ながら、愛美が慌てて、携帯を取り出す。コールした相手は3コールで出た。


「里奈がちょっと変なの。早く先輩に連絡して!」


電話の向こうで吉野のの「どうした?」と言う声がする。愛美は早口で吉野にまくし立てた。


「先輩が海外転勤になっちゃって、里奈が別れたとかなんとか言って、それで、あの子今から秘密基地行くとか言って、走ってうちからいなくなっちゃったのよ!」


電話の向こうで「秘密基地?」という吉野の怪訝そうな声がした。愛美がのんびりしている吉野に怒りをぶつける。


「いいから、早く先輩に電話して、里奈が秘密基地行った!って伝えて。よくわかんないけど、秘密基地で会えたら、ちゃんと話せるとか、なんか里奈変だったの!里奈、もしかしたら・・・。」


愛美の切迫ぶりに吉野がようやく状況を察したようだった。それでものんびり「なんで海外転勤になったら別れなきゃなんないんだよ?」と呑気なことを言っている。愛美の怒りが頂点に達した。


「いいから、早く先輩に電話して!連絡とれなかったら、今日のデートはナシだからね!」


電話の向こうで「おいっ、愛美。」と吉野の慌てた声がした。愛美は無視して電話を切ると、部屋に戻って、着替えを始めた。


「里奈・・・。」


愛美の心にまた不安が走る。


「お願い、先輩。間に合って。」


祈るようにして言った愛美が携帯を見る。里奈はきっと秘密基地に着いたらすぐに帰ってしまう気がした。その時、吉野からの着信を携帯が知らせた。愛美が慌てて電話に出る。


「連絡取れたぞ。」


吉野がさっきとは違った歯切れ良い声で言った。車を運転している雰囲気が電話越しに伝わる。


「先輩の地元駅の近くだ。愛美、今から探しに行くぞ。」


そう言うと、吉野は愛美の返事を待たずに電話を切った。愛美が慌てて、出掛ける支度をする。部屋から飛び出した愛美が駅まで走ろうとした時、車のクラクションがなった。


「吉野!」


隣に止まった車のドアを勢いよく開けて、愛美が車に飛び乗った。吉野は黙っている。愛美が不安になって口を開いた。


「あのね、わかんないんだけど、里奈、もしかしたら・・・。」


ちょうど信号で車が停車し、吉野が愛美のほうを見る。目が笑っていなかった。愛美を見たまま吉野が愛美に聞く。


「もしかしたらって?」


愛美が言葉に詰まった。信号が青になり吉野がアクセルを踏む。前を向いた吉野の横顔に愛美がポツリと言った。


「里奈、赤ちゃんいるんじゃないかな。。。」


吉野がすごい剣幕で愛美の方を振り向いた。愛美がビクッとして肩をすくめる。吉野が視線を前方に戻した。愛美の手を握っている片手に力が入る。


「先輩、知らないのか?」


愛美が頷く。


「里奈、言えなかったんじゃないかな。私も、里奈から聞いたわけじゃないし、予想の話なんだけど。。。」


愛美の横で、吉野が珍しく「あのバカ。」と声を荒げた。里奈と康介、どちらに言った言葉なのか愛美にはわからなかった。愛美が不安げに吉野を見る。吉野が運転したまま、独り言のように言った。


「昔から、あの2人は世話が焼けるんだよ。お互い素直になれば、周りを巻き込まないんだ。でもどっちかが笑ってないと、みんな葬式みたいになっちまうんだよ。俺と優子と、サークルの奴らと、、、どんだけ2人のこと応援してきたと思ってんだよ。」


愛美が下を向く。愛美の知らない康介と里奈と吉野の時間。自分だけがはみ出しされたような少し寂しい気持ちになる。ちょっとだけ涙ぐんだ愛美がポツリと言った。


「吉野はなんで里奈のことで、そんなにムキになるの?」


ナビを観ていた吉野が愛美を見ずに言う。


「里奈のことでムキになってるんじゃないよ。里奈は俺の大事なバレー仲間で、先輩は10年以上、俺が尊敬してる人なんだ。愛美もテニスしてたからわかると思うけど、2人とも俺にとって大切な仲間だし、それに…」


右折しようとしていた吉野が一旦言葉を切った。右折が終わって滑らかに走り出した車のように、吉野の口からまた、言葉が溢れ出す。


「里奈は、愛美にとってほんとに大事な友達だろ?俺は里奈と愛美が2人でいつも楽しそうに笑ってるのを見てるのが好きなんだ。里奈に何かあったら、愛美まで暗くなっちゃうだろ?愛美の大事なもんは俺も大事だし、守りたいんだよ。」


そう言った吉野が少しスピードをあげた。アクセルを踏み込んだ車が、康介の地元へと向かっていく。愛美がポツリと呟いた。


「里奈、ほんとに秘密基地に行ったのかな。。。」


何度目かのダイヤルをしたが、相変わらず里奈の携帯は電源が入っていなかった。愛美が首を振って車窓からの空を見上げる。青が少し薄くなってきた空に一筋の雲が浮かんでいた。それは朝晩が少し寒くなってきた秋の日の出来事だった。


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