第103話「メンヘラ」

 花園中学は、頭がお花畑の人間が通う中学ではない。花園という地域に存在している、まともな中学校だ。その花園中の文芸部には、心に闇を抱えた者たちが集まっている。そして日々、精神の迷宮をさまよい歩いている。

 かくいう僕も、そういった不可思議な心を持つ人間だ。名前は榊祐介。学年は二年生で、厨二病まっさかりのお年頃。そんな僕が、部室でいそしんでいるのは、備品のパソコンでネットを巡回して、何の役にも立たないネットスラングを調べて喜ぶことだ。


 そんな、闇の世界に生きる面々の文芸部にも、ごくごく普通の人が一人だけいます。シュールレアリスムの絵画世界に迷い込んだ、まともな少女。それが、僕が愛してやまない、三年生の雪村楓先輩です。楓先輩は、三つ編み姿で眼鏡をかけている文学少女。家にはテレビもなく、活字だけを食べて育ったという、純粋培養の美少女さんです。


「サカキく~ん。ネット詳しいわよね。教えて欲しいことがあるの~」


 間延びしたような声が聞こえて、僕は体を動かした。楓先輩は、ととととと、と駆けてきて、僕の横にすとんと座る。ああ、無邪気な先輩は可愛らしい。疑うことを知らない先輩は、何と素敵なんだろう。僕は、そんな楓先輩の姿を眺めながら声を返す。


「どうしたのですか、先輩。またネットに、未見の言葉があったのですか?」

「そうなの。サカキくんは、ネットの研究者よね?」

「ええ。フロイトが精神分析を確立するぐらいに研究を重ねています」

「そのサカキくんに、聞きたいことがあるの」

「何でしょうか?」


 先輩は、最近ノートパソコンをお父さんに買ってもらった。文芸部の原稿作業を、自宅でも進めるためだ。先輩は、そのパソコンをネットに繋いだ。そこで情報の迷宮に迷い込んだ。そのせいでネット初心者の楓先輩は、ずぶずぶとネットの罠にはまりつつあるのだ。


「メンヘラって何?」


 ああ、楓先輩はメンヘラを知らないのか。この言葉は、現実の社会でも使われているが、元々はネットスラングだ。ネットにうとい楓先輩が知らなくても無理はない。この機会に、教えておいた方がよいだろうと思い、僕は説明を開始する。


「メンヘラは、ネット掲示板から発生した言葉です。心の健康を扱う、メンタルヘルス板という場所がありまして、その場所にいるような人をメンヘラと呼びます。言葉の変遷としては、メンタルヘルスをメンヘルと略し、メンヘルに人を指すerを足してメンヘラ―となり、長母音が省略されてメンヘラになりました。

 ネットでは、言葉はどんどん短くなっていく傾向にあります。この言葉も、『メンタルヘルス板にいるような人』から『メンヘラ』へと、随分短く省略されています。


 それでは、メンヘラというのはどういった人を指すのか説明します。この言葉は、情緒不安定な人、他人への強い依存を持つ人、自己への執着が著しい人などに用いられます。また、その言葉の由来から分かるように、服薬をしていたり、自傷行為をしていたり、自殺未遂をしていたりといった、本物の精神疾患を抱えている人も指します。

 この言葉は、相手に対する拒絶や否定、侮蔑の意味合いも持つので、使う際には注意が必要です。気軽に他人に用いるのは、避けた方がよいでしょう。また、医学用語ではないですので、そういったつもりで使用することも控えた方がよいです」


 僕は、メンヘラの説明をざっくりとおこなう。僕の言葉を聞いた先輩は、口元に手を当てて、考え始めた。


「どうしたのですか先輩。何か気になることでもあるのですか?」

「うん。実はね、クラスの女子友から、文芸部にいてメンヘラになったりしないのと尋ねられたの」

「ホワッ?」


 僕は驚いて疑問の声を上げる。いったいどういうことだろう。文芸部にいて、何がどうなってメンヘラになるというのだ。僕は、詳しい話を聞こうとする。


「その友人たちが言うにはね、文芸部には、おかしな人がたくさんいるから、悪影響があるのではないかということだったの」

「具体的には?」

「まず、満子でしょう。先生たちがザ・タブーと呼んで恐れる、淫猥な言葉を使うエロテロリスト。そんな人と一緒にいて、頭がおかしくなったりしないのと言われたの」


 うっ、その件については、あまり否定できない。確かに悪い影響を受けて、楓先輩が精神に異常をきたしてもおかしくはない。僕もまったく不安がないと言えば嘘になる。


「次に、鷹子でしょう。学校一の武闘派。ヤクザも避けて通る暴力の権化。そんな人と一緒にいたら、プレッシャーでおかしくならないのかと、言われたの」


 その言葉も一理ある。精神はともかく、肉体は確実にダメージを受ける。かくいう僕も、毎週のように体のどこかに生傷を作っている。


「そして鈴村くんでしょう。男子なのにフェミニンで、女子力が高すぎて、変な世界に入ってしまわないかと心配されたの」


 うっ。確かに鈴村くんの周りには、常識をねじ曲げる、怪しい空気が満ちている。僕もその変態ワールドに、思わず引きずり込まれそうになったことが何度もある。


「それに睦月ちゃんでしょう。部室の中で、水着で過ごしている変わった人だということが、他の部活の人にも漏れ伝わっているようなの」


 ぐぬうっ。それは由々しき事態だ。僕は幼馴染みの睦月の立場を憂慮する。このままでは変態さんと認定されてしまいそうだ。


「あと瑠璃子ちゃん。天才児で攻撃的な言動で、触れる者みな傷付けるようなところがある女の子。その子に、心をずたぼろにされていないのか心配されたの」


 ぐはあっ! 少なくとも僕は、ガラスのハートをいつも叩き割られている。瑠璃子ちゃんは、楓先輩にそういった言葉の刃を向けることはないけれど、不安に思われるのは仕方がない。


 楓先輩は、そこまで話したあと、言葉を止めた。言われてみれば、確かにそうだ。この文芸部は怪しい面々ばかりだ。精神に異常をきたしてもおかしくない。先輩のクラスの友人が、そのことで楓先輩の心を案じるのも仕方がないことだ。

 ここは、唯一まともな僕が、楓先輩の手を取って、絶望の世界から希望の世界へと導く必要がある。そう、人生という名の長い旅路を、手を取り合って、二人で歩もうではありませんか!


「それとね」

「えっ? まだ先があるのですか」

「うん」


 僕は疑問に思って尋ねる。危険な人の話は終わったから、今度は部室の話かな。風水的に見てやばいとか、昔幽霊が出ていたとか、そういったことが飛び出してくるのかな。僕はそう思い、身構えた。


「サカキくんのことなんだけどね」

「えっ、僕のことですか?」


 予想外の言葉が飛び出してきたことで、僕は素っ頓狂な声を上げる。


「サカキくんは、ネット中毒のストーカーだから、気を付けないといけないよと言われたの」

「ふんぎゃるぶわぁ~~~~~!」


 僕は声にならない叫び声を上げる。ぼ、ぼ、僕が、ネット中毒のストーカーですって? そんな、根も葉もないことを。……いや、心当たりがありすぎる。

 僕は、楓先輩の女子友の観察眼に舌を巻く。いったい、何というシャーロック・ホームズ。あるいはエルキュール・ポワロ。僕は驚愕とともに、膝をガクブルさせる。

 ええい、精神を落ち着かせろ自分。僕は、自分で自分をいさめる。ピンチの時にこそ、その人の本質が現れると言うではないか。僕は、自身の心を引き締めて、反論を試みる。


「大丈夫です。この部活の人間は、精神に疾患があるわけではないです。ただ単に、中学生らしい、やんちゃさを持っているだけです。

 それに、たとえ問題があっても、それは単なる個性でしかありません。楓先輩は、自分の家族が風邪を引いたからといって差別しますか? また、病気になったり怪我をしたりしたからといって線を引きますか?

 それと同じです。心のありようが自分と違うからといって、垣根を作る必要はないのです。それは、相手を構成する要素の一つでしかないのですから」


 僕は、胸を張って主張する。楓先輩は、感じ入ったような表情で、僕の顔を見つめた。


「そうよね。個性の一つでしかないよね」

「そうです。お分かりいただけましたか?」

「うん。友達の言ったことは、気にしないことにするね。だってこの文芸部は、みんないい人たちばかりだもの」


 僕は、楓先輩の言葉に満足する。そのいい人の中には、僕も入っている。僕は温かい気持ちになり、その日を過ごした。


 翌日、僕は昨日の余韻にひたりながら部室の扉を開けた。


「ねえ、サカキくん」


 楓先輩が、僕のところに勢いよくやって来た。


「どうしたのですか、楓先輩。何かあったのですか?」

「今日、クラスの女子友にね、サカキくんから聞いた説明を話したの」


 ふむふむ。楓先輩の女子友も、僕の華麗な言葉に聞き入ってくれたのか。そう思いながら、僕は先輩の話を聞く。


「そうしたら、みんなが口々に、騙されていると言ってきたの。楓は素直だから、悪い後輩に騙されているんだよと。だって文芸部は、楓以外みんな変態だからと言われたの」


 何……だと……?

 僕も変態としてカウントされている?


 えー。もしかして、僕の常識が間違っているのだろうか。うーん、うーん、うーん。

 楓先輩は、涙目で僕を見ている。僕は、自分がおかしな人か、普通の人か、自信がなくなってきた。そうだ! メンタルヘルス板に行って相談しよう。僕は自分の心の状態を確かめるために、ネットの海にダイブすることにした。

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