第104話「パイスラ」

 花園中学は、頭がお花畑の人間が通う中学ではない。花園という地域に存在している、まともな中学校だ。その花園中の文芸部には、怪しい香りに包まれた者たちが集まっている。そして日々、耽美な活動を続けている。

 かくいう僕も、そういった変態紳士な人間だ。名前は榊祐介。学年は二年生で、厨二病まっさかりのお年頃。そんな僕が、部室でいそしんでいるのは、備品のパソコンでネットを巡回して、何の役にも立たないネットスラングを調べて喜ぶことだ。


 そんな、夜の雰囲気漂う面々の文芸部にも、明るいおひさまのような人が一人だけいます。夢魔の群れに迷い込んだ、神々しい天使。それが、僕が愛してやまない、三年生の雪村楓先輩です。楓先輩は、三つ編み姿で眼鏡をかけている文学少女。家にはテレビもなく、活字だけを食べて育ったという、純粋培養の美少女さんです。


「サカキく~ん。ネット詳しいわよね。教えて欲しいことがあるの~」


 間延びしたような声が聞こえて、僕は顔を向けた。楓先輩は、軽やかに駆けてきて、僕の横に座る。僕は制服越しに、先輩の体温を感じる。僕の心臓はドキドキしている。僕は先輩に恋をしている。僕はそのことを感じながら、先輩に声を返す。


「どうしたのですか、先輩。ネットで、知らない言葉に出会ったのですか?」

「そうなの。サカキくんは、ネットの探究者よね?」

「ええ。柳田國男が日本の民俗について探究したように、僕はネットについて探究しています」

「そのサカキくんに、聞きたいことがあるの」

「何でしょうか?」


 先輩は、最近ノートパソコンをお父さんに買ってもらった。文芸部の原稿を、自分の部屋でも書くためだ。先輩は、そのパソコンをネットに繋いだ。そこで未知の文化圏に迷い込んだ。そのせいでネット初心者の楓先輩は、ずぶずぶとネットの罠にはまりつつあるのだ。


「パイスラって何?」


 僕は答えようとして言葉を止める。危ない危ない。この言葉の説明は、楓先輩の前では慎重を要する。貧乳の楓先輩では、有効なパイスラを作ることは難しい。下手な話し方をして、楓先輩の機嫌を損ねたら、盛大な地雷になってしまう。僕は、どのように説明するべきか必死に考える。


 その時である。部室の一角で「ガタン」という大きな音がした。

 うん? 何だろう。僕は、その音がした場所に顔を向ける。そこには、僕と同じ二年生の、鈴村真くんが立っていた。鈴村くんは、なぜか恥じらいながら、僕の方を見ている。いったいなぜ、そんな態度を取っているのだろう。


 鈴村くんは、華奢な体に、女の子のような顔立ちの男の子だ。そんな鈴村くんには、他人に隠している秘密がある。実は鈴村くんは、女装が大好きな、男の娘なのだ。彼は家に帰ると、女物の洋服を着て、等身大の姿見の前で、様々な可愛いポーズを練習している。そして、女の子の格好をする時には、「真琴」という女の子ネームに変わるのだ。僕は、その真琴の姿を、これまでに何回か見たことがある。その時のことを頭に浮かべながら、鈴村くんの姿を見た。


「サカキくん。今日の昼休みのことは秘密だよ」


 鈴村くんは、目を潤ませながら言ってくる。今日の昼休み? その時間に何があったと言うのだ。

 僕は、必死に記憶をたどる。遥か遠い過去へと意識を戻し、ついに僕は、秘められた記憶を蘇らせる。

 そういえば、今日の昼休み、僕は部室にいた。昼の間に、むふふな画像を集めておき、今日の夜に堪能しようと思っていたからだ。僕は寸暇を惜しんで働く系の人間だ。だから、貴重な休み時間を、学友とたわむれもせず、画像探索に費やしていた。その、僕一人の部室に、鈴村くんが入ってきたのだ。


「あれ、サカキくんいたの?」

「うん。僕は神出鬼没なんだ。だから、あらゆる場所に、一定の確率で存在しているよ。いわば量子論的存在と言っても過言ではないね」


 僕は、親友の気安さもあり、鈴村くんに軽口を叩く。


「そうかあ。サカキくんがいたのか。でもサカキくんならいいや。僕も少し部室を借りるね」

「どうぞ、どうぞ。僕の部室ではないからね。ここは公共の場所。心のおもむくままに好きなことをすればいいと思うよ」


 鈴村くんにちらりと視線を向けたあと、僕は画面に意識を戻した。

 僕が、生粋のハンターのように、女体の神秘を追いかけている間、鈴村くんは部屋の片隅で何かをしている。僕は、特に気に留めることなく、画像狩りを続けた。


「ねえサカキくん」


 しばらく経ったところで、鈴村くんが声をかけてきた。


「何だい鈴村くん?」

「新しい格好にチャレンジしてみたんだけど、サカキくんの意見を聞きたいんだ」


 新しい格好? どういうことだろう。僕は顔を上げて、鈴村くんの方を向いた。

 な、何だって? そこには、予想の斜め上の格好をしている鈴村くんがいた。鈴村くんは、女物の体操服を着ていた。その白い上着には、女性特有のふくらみがあり、そこに肩掛けカバンを斜めがけしていた。そのせいで、胸の谷間が強調されて、得も言われぬエロティシズムが醸し出されている。それだけではない。下半身は、魅惑のブルマだった。その下半身を覆う紺色の布は、僕の通う中学校のものではなかった。

 こんなマニアックな体操服を、どこから手に入れてきたのだろう。それ以前に、鈴村くんは、いつ胸がこんなにふくらんだのだろう。僕はそう思った。


 体操服パイスラ、ブルマ標準装備。


 そんな言葉が僕の頭をよぎる。鈴村くんの姿は、僕を桃色の桃源郷に導く破壊力を持っていた。


「す、す、す、鈴村くん。その破廉恥にして倒錯的な姿は何なのですか?」


 思わず丁寧な口調で、僕は鈴村くんに尋ねる。


「うん。少しレトロな感じの体操服が手に入ったから、どんなコーディネートがよいのか考えて、家から持ってきたんだ。ちょうどサカキくんもいることだし、美少女鑑定士であるサカキくんの意見を聞けると嬉しいな」


 鈴村くんは、体操服パイスラ、ブルマ標準装備の姿で、僕にもじもじと近付いてくる。僕は、部室の空間が歪んでいることに気付く。明らかに世界が変わっている。微粒子レベルで再構成された桃色空間が、僕の前に現出している。


「鈴村くん。いや、真琴」


 僕は混乱しながら、男の娘である鈴村くんに声をかける。


「パイスラ始めました」


 鈴村くんは、まるで「冷やし中華始めました」のように、パイスラを始めたことを主張する。

 何たる策士。中華料理屋に入り、冷やし中華のポスターが貼ってあったら、一度は食べてみるに決まっている。それは、大宇宙を構成する物理法則の一つだ。僕は催眠術にかけられたように、真琴に吸い寄せられていく。

 ああ僕は、新しい世界に目覚めるのか。ハローワールド! こんにちは世界! 僕は手を伸ばして、真琴の胸に手を触れる。むにゅり。それは柔らかく、僕の握力で位置がずれた。


「あっ、胸パッドがずれたみたい。パイスラって、キープするのが難しいね」


 真琴は、恥ずかしそうに言う。

 そ、そうだった。真琴は男の娘で、その正体は鈴村くんという、男の子だった。


 僕は、握った胸パッドの感覚にドキドキしながら、鈴村くんのパイスラを崩してしまったことを詫びる。鈴村くんは、「いいよ、いいよ」と、明るい声を出しながら、ちょっと照れくさそうに笑った。

 そういったことが、今日の昼休みにあったのである。


「ねえ、サカキくん。パイスラって何?」

「えっ?」


 そういえば僕は、楓先輩の質問を受けている最中だった。僕は意識を現在に戻して、楓先輩に顔を向ける。気付くと、僕の左隣には鈴村くんも座っていた。


「えーと、パイスラですね。パイスラとは、女性が肩掛けカバンを斜めがけした際に、胸の谷間に紐が来て、おっぱいの形を強調するようになる状態を指します。言葉としては、おっぱいスラッシュの略でパイスラです。また、この言葉の表記ですが、円周率を表すπに、斜めを意味する/の記号を付けて、『π/』とも書きます。

 いわゆる萌え要素の一つなのですが、日常生活でも見られるものなので遭遇率は高いです。


 このパイスラという言葉は、元々はブロガーの人が提唱した言葉です。絶対領域という、ミニスカとオーバーニーソックスの間を指す言葉に対抗して、作られたものです。その後、パイスラはネットに広がり、一般的な言葉として定着しつつあります。

 パイスラは、巨乳と相性がよいです。そして、巨乳の素晴らしさを、僕たち人類に教えてくれます。パイスラは、日常でも目撃できる、至高の萌え要素と言えるでしょう」


 僕はパイスラの説明を終えた。これで義務を果たした。

 危ない、危ない。鈴村くんとのことを思い出して、楓先輩の質問を疎かにするところだった。これで楓先輩は満足してくれたはずだ。そう思いながら先輩を見ると、先輩は涙目でぷるぷると震えていた。


「ど、どうしたのですか、先輩?」


 僕は、疑問に思って尋ねる。


「きょ、巨乳……」


 楓先輩は、自身のつぼみのような胸に手を当てて、どんよりとした顔になっている。

 しまった。僕は質問を受けた時に、パイスラの危険性に気付き、どうするか悩んだことを思い出す。あまりにも回想が長くて、貧乳問題を忘れていた。


 僕は先輩の乙女心に、近接戦闘用杭打機、パイルバンカーを打ち込んでしまった。いや、おっぱい問題だから、オッパイルバンカーと言うべきか。ともかく、先輩の心に甚大な被害を与えてしまったのだ。


「……サカキくん」


 背後から声が聞こえて、僕の手に誰かの手が触れた。何だろうと思い振り返ると、左隣に座っていた鈴村くんが、僕に何かを手渡してきた。それは胸パッドだった。鈴村くんは、自身の秘密兵器を僕に渡して、何をしろというのだろうか。

 そうか! 慧眼の士である僕は、鈴村くんの意図に気付く。これを楓先輩に渡せということだ。そうすれば、楓先輩もパイスラをすることができる。人類の至高の萌え要素の一つ、パイスラを装備することが可能になる。


「楓先輩!」


 僕は力強く、愛する人の名前を呼ぶ。そして、情熱を込めて先輩に語りかける。


「胸の谷間がないことを悲観することはありません。なければ作ればよいのです。人類は創造力に満ちています。ないものは自らの手で作りだしてきました。そうやって人類は世界を広げてきたのです!

 つまりどういうことかと言うと、ここに胸パッドがあります。これを使えば、楓先輩もパイスラを装備して、パイスラデビューができるというわけですよ!!!」


 僕は、鈴村くんに渡されて胸パッドを、頭上に掲げる。その物体を見て、楓先輩は顔を真っ赤にして声を出した。


「私にだって、おっぱいはあるもん。パイスラだって、できるんだから~~~」


 そう叫んだあと、自分でおっぱいと言ったことに楓先輩は気付く。そして、恥ずかしそうに顔を真っ赤に染めて、ぱたぱたと駆けて逃げていった。


 翌日、僕が部室に行くと、楓先輩は肩掛けカバンを斜めがけにして座っていた。どうやら、パイスラにチャレンジしているらしい。

 僕は、鈴村くんに視線を送る。鈴村くんは、気まずそうな視線を返してきた。残念ながら、楓先輩の試みは失敗していた。巨乳ならぬ虚乳な楓先輩に、パイスラの面影はなかった。斜めがけしたそのカバンは、先輩のちんまりとした可愛さを、強調しているだけで終わっていた。

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