第9話「チーレム」

 花園中学は、頭がお花畑の人間が通う中学ではない。花園という地域に存在している、まともな中学校だ。その花園中の文芸部は、人生をどこかで踏み誤ったような面々が集まっている。彼らは人生のどこかで、変な脱線をしてしまったらしい。特殊な趣味や、怪しい性癖を持ち、能力者が引かれ合うようにして、この部室に集結した。

 かくいう僕も、そういった脱線組の一人だ。名前は榊祐介。学年は二年生で、厨二病まっさかりのお年頃。そんな僕が、部室でいそしんでいるのは、備品のパソコンで、ネットを巡回して、何の役にも立たないネットスラングを調べて喜ぶことだ。


 ああ、痛い奴だな……。そう思った方は、素直に手を挙げてください。いいですか、その感想は間違っています。僕は真面目に、探究活動をおこなっています。これは考現学です。現代の社会現象を調査して、世相や風俗を解き明かす学問なのです。とっても文化的で、学術的な活動なんです。


 そういった、普通とは違う学生活動にいそしむ文芸部の中にも、ごくごく普通の文芸部としての活動をしている人が一人だけいます。野獣ばかりの動物園に紛れ込んだ、可愛い子ウサギ。それが、僕が愛してやまない、三年生の雪村楓先輩です。

 楓先輩は、三つ編み姿で眼鏡をかけている文学少女。家にはテレビもなく、活字だけを食べて育ったという、純粋培養の美少女さんです。そんな彼女は、この部室で、一人で文芸活動にいそしんでいます。原稿用紙を前にして、右手で鉛筆を持ち、左手の指を唇に添え、どこか彼方を見ながら、時折笑顔を浮かべているのです。


「サカキく~ん。ネット詳しいわよね。教えて欲しいことがあるの~」


 間延びしたような声が聞こえてきて、僕は手を休めた。楓先輩がやって来て、僕の横にすとんと腰を下ろす。先輩は、僕の横でにっこりと笑って、整った顔を僕に向けた。

 僕は、そんな先輩の無防備な姿に、理性を失いそうになる。これは恋人の距離ではないか。触っても怒られないのではないか。そんなことを、ついつい考えてしまう。でも、先輩に、そんなつもりがないことは知っています。先輩は、僕を信頼して尊敬しているのです。だから、ネット用語の先生として、僕は振る舞わなければなりません。

 いいでしょう。先輩の期待に応えましょう。僕はそう思って、おだやかな表情で先輩に声を返した。


「何ですか先輩。ネットで、知らない言葉でも、また見つけたんですか?」


 僕は知っている。先輩は、最近ノートパソコンをお父さんに買ってもらった。文芸部の原稿を清書して印刷するためだ。そして先輩は、そのパソコンをネットに繋いだ。切っ掛けは、オンラインの辞書を利用するためだった。そうすることで、未知の言語空間に、出会ってしまったのだ。言葉マニアの先輩は、その豊穣さに感動した。そして現在、ネット初心者の楓先輩は、ずぶずぶとネットの罠にはまりつつあるのだ。


「チーレムって何?」


 すごいところを攻めてきたな。僕は、先輩が最近、どんなサイトを見ているのか想像する。

 ネットにも文筆空間はある。そこでは、同好の士たちが集い、日夜文章を書いたり、読んだりしている。そういった場所には、チーレムという特殊な言葉でくくられる、ジャンルというか、作法というか、古典芸能的な「型」があることを、僕は知っている。

 その説明をしようとして、僕ははたと立ち止まる。チーレムは、チートとハーレムの合成語だ。それはいい。チートに関しては、ネット初心者の先輩に説明するのは大変だが、どうにかなるだろう。しかし、ハーレムについて説明することは、細心の注意を必要とする。それが、イスラム教の王室の後宮であることは語ってよい。しかし、それがどう、文芸作品の上での役割を担うのか。ありていに言うと、男性の欲望のはけ口になっているのかを語るのは難しい。言葉にした瞬間、先輩は僕のことを、破廉恥な人間だと思うかもしれない。


「先輩、チートという言葉は知っていますか?」

「ううん。知らないわ」


 やはり想像通りだと、僕は思う。


「チートは、英語で、ごまかしやペテンといった意味合いの言葉になります。そこから転じて、コンピューターゲームで、不正な方法で能力値を高めたり、お金を獲得したりして、他人よりも有利にゲームを進めることを指します」

「サカキくん。残念だけど私、コンピューターゲームには詳しくないの」


 先輩は、心の底から済まなさそうに、眉を動かす。


「そうですよね。では、現実のゲームで説明しましょう。

 たとえば、サイコロを振って、高い目を出す遊びをしているとします。その時に、一人だけイカサマサイコロを持ってきて、一人勝ちしたとします。こういった詐欺的な方法で、他人よりも有利にゲームを進めることを、チートと呼ぶのです」

「なるほど、分かったような気がしてきたわ。サカキくん、詳しいわね。勉強になるわ」


 先輩は、興奮気味に、僕に体を密着させる。楓先輩は、物事に熱中すると、ずんずんとそちらに向かっていく。よく言うと集中力があり、悪く言うと周りが見えなくなる。そんな先輩は、僕の声を聞こうとして、一生懸命、顔を近付けている。


「それで、サカキくん。チートと、チーレムは、どういった関係があるの?」

「チーレムは、チートと、ある言葉の合成語なんです」

「ある言葉?」


 先輩は、形のよい唇に人差し指を当てて、小首を傾げる。その動きに合わせて、三つ編みの髪が、肩の向こうでわずかに揺らめいた。僕は、そんな先輩を見て、愛おしく思う。そして、どんな言葉が返ってくるのか、じっと待つ。


「チートと、レム?」


 レムが何なのか、分からなかったのだろう。まさか、レム睡眠のことだとは思っていないはずだ。R・E・M。ラピッド・アイズ・ムーブメント。睡眠時高速眼球運動。そういったものではないということは、僕の表情から悟ってくれたようだ。


「答えはハーレムです」

「イスラム教の王室の後宮?」

「ええ、そうです」


 文学少女の先輩は、当然のごとく千夜一夜物語――アラビアン・ナイトを読んだことがある。だから、ハーレムがどういったものか知っている。問題は、ここからどうやって、チーレムの本質に迫っていくかだ。先輩の尊敬を勝ち取るためには、正しい手を打ち続ける必要がある。


「チートとハーレムで、チーレムなのね。でも、その説明だけでは、この言葉を説明しきれていない気がするわ」


 使われている文脈にそぐわない。そういうことだろう。ネット初心者の先輩は、この言葉が生まれてきた背景を知らない。つまりコンテンツ業界の流れや、男性の欲望を熟知していない。前者はともかくとして、後者を熱く語ると、ドン引きされることは間違いない。よし、前者を中心にして解説しよう。


「いいですか先輩。マンガやアニメといった娯楽産業には、時代による変遷があります。一九六八年に創刊した『週刊少年ジャンプ』のキーワードは、友情、努力、勝利でした。この三大原則を元に、ジャンプは一九九〇年代に五百万部越えの最盛期を迎えます。

 しかし、時代は変遷しました。インターネットの普及により、コンテンツの寿命は短くなり、練習や特訓をおこなう『努力』の過程が、作品にとってマイナスになりました。なぜならば、そういった話を描いている間は、アンケートの人気が落ちるからです。そういった変化の中で、最初から主人公が、反則的に強い物語が増えてきたのです。


 また別の流れとして、インターネットの普及とともに、オンライン小説も市民権を得ました。そういった小説には、オンラインRPGを題材にしたものが多くあり、それらの中で、反則的に主人公が強い状態を指す言葉として、オンラインゲームの用語である『チート』が使われました。

 こういった文化的な背景から、チートと言う言葉が、主人公が初めから強いという、物語の様式全般を指す言葉として定着していったのです」


 完璧だ。僕は、自分の説明の見事さに酔いしれる。


「それは、チートの説明よね。ハーレムは?」

「うっ」


 僕は返答に困る。チートの説明で、けむに巻くことはできなかった。物語に、ハーレム物というジャンルがあることを、先輩に説明しなければならない。


「えー、男性向けの娯楽作品にはですね、ハーレム物というジャンルがあるのですよ。主人公は、多数の女の子に囲まれて、とっかえひっかえ、いちゃついたり、エッチな雰囲気になったり、そういった作品や状態のことを、ハーレムと呼ぶのです」


 先輩は、ちょっと顔を強張らせる。純情な先輩には、刺激の強すぎる内容だったようだ。


「ねえ、サカキくん。それで、チートとハーレムが合わさると、どういった意味になるの?」

「それはですね。俺TUEEEE! 最強っ! 女どもひざまずけ! この物語は、無敵の俺が、美女をはべらして無双するぜ! ……という意味になるのです」

「もしかして、それって、男性の欲望なの?」


 先輩は、上目づかいで僕につぶやく。もしかしたら自分も、この部活で、そういったハーレム要員として見られているのではないか。表情からは、そういった疑いの色が見て取れる。僕はそんな先輩に、爽やかな笑みを返す。


「ええ、そうですね。男性には、そういった欲望があります」


 ああ、言っちゃったよ自分。僕は僕に、突っ込みを入れる。先輩は、真剣な顔をして口を開く。


「ねえ、サカキくん。この部活も、女の子が多いよね」

「ええ、多いです。美人ばかりです」

「そういった状態も、ハーレムなの?」

「もちろんです」

「これで、サカキくんが、詐欺的なほどに、すごい能力を持っていたら、チーレムになるの?」


 先輩は、僕のことをじっと見つめる。その視線にくらくらときた僕は、もういいや、自分の本心をすべてさらけ出そうという気持ちになる。


「はい。僕のような、美形、イケメンボイスの、言葉のマジシャンは、人類にとってのチート状態です。だから、この文芸部の物語を書けば、きっとチーレム的な物語になると思いますよ!」


 僕は、一気に言い放つ。まあ、チートはともかくとして、この文芸部はハーレム状態だ。


 先輩の返事はなかった。そのことを疑問に思い、僕はそっと楓先輩の顔を見る。楓先輩は、顔を真っ赤に染めている。そして、僕と目が合うと、慌てて顔を逸らした。どうやら僕が、この部活を自分のハーレムだと思っていることを理解したようだ。

 先輩は顔を逸らしたまま固まっている。その姿勢のために、ほっそりとしたうなじがよく見えた。白い首筋に、わずかに後れ毛が覗いている。僕は、その美しさに引かれて、首筋にそっと顔を近付ける。そして、そこから立ちのぼる、先輩の甘い香りを嗅いだ。先輩は、僕の行動に気付き、あわあわしながら立ち上がった。


「ごめんなさい、サカキくん! 私、サカキくんのハーレムには入れないわ。だって、私はまだ、中学生なんだもの」

「大丈夫です、先輩。楓先輩は、ハーレムに入らなくてもよいです。だって、楓先輩は、僕の正妻ですから!」


 勢いよく言ったあと、僕はしまったと思った。途中から興奮して、好き勝手にしゃべっていた。先輩は一歩下がり、僕から距離を取った。部室の各所から、咳払いや、椅子を動かす音がして、全員の視線が僕から離れていった。

 どうやらここは、僕のハーレムではなかったらしい。ここは中学校の文芸部でした。


「サカキくん……」


 呼吸を整えた先輩は、そっと手を伸ばして、僕の両手を握った。


「はい、先輩」

「現実を見て、人生をしっかりと歩んでね」


 それはどんなアドバイスですか? 部室のどこかから、「チートというよりは、チープだな」と声が聞こえた。僕の能力は、チートではなく、チープだったらしい。

 それから四日ほど、楓先輩は僕に、日本が一夫一妻制だということを、真剣な顔をして語り続けた。いや、一夫多妻制でもいいんだけどなあ。

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