第10話「NTR」

 花園中学は、頭がお花畑の人間が通う中学ではない。花園という地域に存在している、まともな中学校だ。その花園中の文芸部は、人生の袋小路に入ってしまったような人で満たされている。彼らは、残念な性格や思考に凝り固まっており、日夜不毛なことをおこなっている。

 かくいう僕も、そういった迷える子羊の一人だ。名前は榊祐介。学年は二年生で、厨二病まっさかりのお年頃。そんな僕が、部室でいそしんでいるのは、備品のパソコンで、ネットを巡回して、何の役にも立たないネットスラングを調べて喜ぶことだ。


 そういった、病んでいる人々ばかりの文芸部にも、健全で純真な人が、一人だけいます。人生の産廃処理場に咲く、一輪の可憐な花。それが、僕が愛してやまない、三年生の雪村楓先輩です。

 楓先輩は、三つ編み姿で眼鏡をかけている文学少女。家にはテレビもなく、活字だけを食べて育ったという、純粋培養の美少女さんです。そんな彼女は、この部室にいても汚れを知りません。真面目なお顔で、文芸活動にいそしんでいるのです。


「サカキく~ん。ネット詳しいわよね。教えて欲しいことがあるの~」


 間延びしたような声が聞こえてきて、僕は作業を止めた。モニターの前に座る僕の横に、楓先輩が来て、ちょこんと座る。先輩は人を疑うことを知らないので、無防備にぴったりと寄り添ってくる。二人の間の制服越しに、ほのかな体温が伝わってくる。ああ、素敵だ。僕は、先輩の放つ、甘い香りに身を委ねる。そして、自信に溢れた声で返事をする。


「何ですか先輩、僕に聞きたいということは?」

「サカキくんは、ネットの達人よね?」

「ええ、マエストロで、ファンタジスタです。グランドマスターと呼んでいただいても構いませんよ」

「うん。サカキくんは、ネットに人生を捧げているものね」

「そうです。だから、何でも聞いてください」


 僕は知っている。先輩は、最近ノートパソコンをお父さんに買ってもらった。文芸部の原稿を何度も推敲するためだ。そして先輩は、ネットにパソコンを繋いだ。切っ掛けは、オンラインの辞書を使うためだった。その結果、知ってしまったのだ。この世界には、まだまだ無数の言葉があることを。そして現在、ネット初心者の楓先輩は、ずぶずぶとネットの罠にはまりつつあるのだ。


「NTRって何?」


 ホワッ! そんな言葉を、先輩の口から聞くとは、思ってもいなかった。僕は思わず、NTRシチュで、楓先輩が汚されるところを想像する。


 僕と先輩は互いの心を確かめ合い、手を繋いで登下校するようになる。そんなある日、謎の男性が現れる。その男は、先輩の弱みを握り、その肉体を征服する。そしてエスカレートする要求と行為。純情可憐な先輩は、白い紙に絵の具を落とすように、徐々にその男の色に染まっていく。そんなことを知らない僕は、最近先輩は少しおかしいなと思うようになる。先輩は、どんどん深みにはまり、僕は日々の生活を送る。そしてある日、僕の家に動画が届くのだ。そこには、僕が知らなかった事実が記録されている。先輩の純潔は、僕の知らないところで散っており、その心は未知の快楽に支配されている。僕は部屋で、涙を流しながらその動画を見る。そして図らずも興奮して、自分自身で果ててしまうのだ。


 駄目だ。妄想が止まらない。

 僕は、顔に手を当てて、鼻血が出ていないか確かめる。大丈夫だ。恥ずかしい状況にはなっていない。心の中で考えたことは、外には漏れていない。だから、僕がどんな危ない想像をしても、それは僕の社会的地位に、何ら影響を与えないのだ。


「サカキ! 楓が他人にもてあそばれる姿でも、思い浮かべていたのか?」


 ぶっ! 突然耳にささやかれた言葉に、僕は驚いて背後を見る。そこには、ゴージャスな容姿の、三年生の部長、城ヶ崎満子さんがいた。何というか、古い少女マンガの勝ち気なお嬢様。「エースをねらえ!」のお蝶夫人のような外見。でも、その中身は、決してお嬢様でも貴婦人でもない。どろどろと腐った中身を持つ、お人なのだ。

 満子部長は、にやにや笑いを浮かべながら、僕を背後から見下ろしている。その表情を見て、「僕をエロエロワールドに巻き込まないでくださいよ~~! 少なくとも楓先輩の前では~~~~!」と叫びたくなる。そう。満子部長は、僕の何倍も、その方向に造詣が深い。なぜならば、それは血筋に由来しているからだ。


 この人の両親は、一般的な職業ではない。お父上はエロマンガ家、お母上はレディースコミック作家というご家庭だ。そのせいか、幼少の頃から英才教育を受けてきた。何せ、家には十八歳未満禁止の怪しい本が大量にあるのだから。

 それだけではない。満子部長のご両親は、業としてそれを成しているために、研究に余念がなかった。収集、分類、整理、そういったことをおこない、多彩な注文に応えられるように、データベースを構築していた。その入力に、子供で暇を持て余していた満子部長が当てられた。そのため、コンピューターに入力するとともに、その膨大な知識を脳にもインストールし続けてきたのだ。


 僕は想像する。満子部長のご両親。特に、父親のエロマンガ家の方は、部長の名前を狙って付けたのだろう。僕は、甘詰留太というマンガ家を思い出す。彼の作品のヒロインは、満子という名前が多い。これは、一つの象徴としての名前だ。読みは「みつこ」だが、違う読み方もできる。それは一般的に、人体のある部位を表す言葉で、女性の特定の機能を連想させる。

 満子部長の父親が、そのことを知らないわけがない。知っていてわざと付けた。その事実を、幼少期に気付いた満子部長の驚きは、想像に難くない。きっとそれで、性格がねじ曲がってしまったのだろう。ことあるごとに言葉責めしてくる、満子部長のS気質は、そういった経緯で育まれたに違いない。


「何ですか、満子部長。僕は楓先輩の質問にですね、紳士的かつ穏当に答えようとしているんですよ」

「ふむ。自分の中で猛り狂う妄想を隠してか? 私は君のことを買っているのだがな。チェ・ゲバラが革命で名を残したように、君はエロ革命で世界に名を轟かすと思っているのだが」

「そんなこと、しませんよ! 僕は、とっても真面目で、楓先輩にお似合いのジェントルマンなんですから!」


 僕と満子部長の会話を、楓先輩はきょとんとした顔で聞いている。満子部長と楓先輩は、同じ中学三年生だが、カバーしている知識の範囲が致命的に違う。満子部長は、日の当たらない世界に根を張って育ってきたが、楓先輩は、おひさまの光がさんさんと降り注ぐところを歩んできた。

 この二人を接触させてはならない。僕の大切な楓先輩が汚染される。僕は満子部長に、「汚物よ去れ!」とばかりに視線を向けた。その僕の表情を見て、Sっ気のある満子部長は、楽しそうに僕の左に腰を下ろした。そう、嫌がらせだ。満子部長は、僕が嫌がることをするのが大好きだ。

 右手に楓先輩。左手に満子部長。僕は、二人の女生徒にサンドイッチされる形になる。


「それで、何を話していたんでしたっけ、楓先輩」

「NTRよ。これが、どういった意味を持っている言葉か、教えてちょうだい」


 おうふっ。そういえば、その話だった。ジーザス・クライスト! 僕と同じ苦悩を持つのは、世界でもこの方ぐらいだろう。そもそもエロマンガなんか読んだことのない先輩に、僕はどうやって寝取られの魅力と興奮を伝えればよいのか。

 僕の左肩に、何かが載ってきた。何だろうと思って振り返ると、満子部長が、僕の肩に両手を載せて、しだれかかっている。


「なー、楓。男と付き合ったことある?」

「そ、そんな不純な経験はないもん。満子は?」


 満子部長は、にまーっと笑う。その顔を見て、楓先輩は、赤面して顔を背ける。ああ、こんな純情な先輩に、どうやってNTRについて語るんだよ。ここは慎重に話を組み立てなければならない。なるべく具体的にならないようにして、できれば学術論文のような無味乾燥な雰囲気で、僕がやましいことを一切考えていないように、先輩の前でNTRについて語るしかない。

 僕は一呼吸置く。そんな僕の首には、満子部長の腕が絡みついている。


「楓先輩」

「はい」

「NTRはですね。男女の恋愛感情の複雑な力学を利用した、物語の様式の一つなのです。ここで仮に、男性をD、女性をJという記号で表すとします。DとJは相思相愛、あるいはDがJに一方的に恋愛感情を抱いた状態です。図にするとこうなります」


 僕は、近くのメモ用紙を引き寄せて、簡単な図を描く。


D←→J or D→J


「そこに、第二の男性が登場します。それをD´とします。このD´がJを誘引して、DとJの結合状態を引き離します。そしてJを自分の支配下に置きます。再び図にするとこうなります」


D→× (J)D´


「こういった状態に陥り、かつDが現状を認識した際、自我が崩壊するような衝撃とともに、その状況に強い刺激を感じて、強い精神的作用を受けるにいたる。そういった状態が、NTRなのです」


 僕は、記号にまで昇華させた説明で、NTRの生々しい肉欲と劣情を避けて説明をおこなった。僕はちらりと先輩を見る。きょとんとしている。化学記号レベルに抽象化した説明に、先輩は付いてこられなかったらしい。僕は、自分の作戦が失敗したことを知る。


「ねえ、サカキくん」

「はい、楓先輩」

「それで、NTRは、何かの略語とかなの?」


 うわあ~~~~。それを聞かないでくれ~~。僕の顔の横に張り付いた満子部長が、楽しそうに、くっくっ、と笑う。僕は、満子部長になまめかしく抱き付かれたまま、渋々と答えを口にする。


「寝取られの略です。つまり、自分の恋人や思い人を、第三者に寝取られ、つまり肉体関係を結ばれて、そのことに絶望する。あるいは、そのあまりにも強い刺激に劣情を催して、一人で快楽を得てしまう。そういった状態や物語の類型を、NTRと呼ぶのです」


 僕の説明が終わったあと、僕に張り付いている満子部長が、追い打ちをかけるような台詞を言った。


「だからさあ、楓。サカキの思い人は、お前だろう。そのお前が、見ず知らずの中年男性に手籠めにされたりするわけだよ。そして、その様子を撮影されたりして脅迫される。それで仕方なく従ううちに、その快楽に溺れだす。それを知ったサカキは、涙を流しながら引きこもり、それでも、その動画を見たりする。そういった状態がNTRの代表的な一例なんだよ」

「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと満子! 何それ? 私、そんなふしだらなこと、しないわよ!」


 先輩は顔を真っ赤にして立ち上がり、眼鏡の下の目を驚きで見開きながら、手をばたばたと振って恥ずかしがる。ひどいよ、満子部長。なぜ僕が涙を流しながら引きこもり、あまつさえ自己処理をしないといけないんですか? まあ、最初に頭に浮かんだ妄想の通りなんですけど。


「そんな恥ずかしい言葉知りません! NTRなんて言葉は封印です! この部室では使用禁止! タブーです!」


 楓先輩は涙を流しそうな勢いで、僕と満子部長に言い放つ。そういえば、満子部長には、あだ名があった。先生たちも、授業で指名するのを恐れるエロテロリスト。そのために、もらった二つ名が「ザ・タブー」。僕は、楓先輩に、どうやらその同類と思われてしまったらしい。僕はすくっと立ち上がる。そして、王子様のようにポーズを取って主張する。


「先輩。僕は無関係です。僕は抽象的概念でしかNTRを捕らえていません。そんなシチュエーションで劣情を催すなんて、しないこともないかもしれないですけど積極的にはしないですよ?」


 拳を突き出して言ったあと、それは、するのか、しないのか、いや、しているのではないかと、自分自身でも混乱してきた。

 先ほどまで僕の横に座っていた満子部長が、すっと立ち上がる。そして、僕の胴体に手を回して、ぴったりとくっついてきた。


「楓の大切な後輩のサカキくんを、寝取っちゃおうかな~。NTRを体験してみる?」

「駄目~~~!」


 先輩は、親指を内側にした、おともだちパンチで、僕と満子部長をぽかぽかと叩いてきた。それから三日ほど、先輩は僕と満子部長に、接触禁止令を出した。半径五メートル以内に近寄っては駄目だというものだ。そのおかげで、僕は部室での動きが不自由だった。当然、満子部長が、その命令を無視したのは言うまでもない。

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