第7話「ネカマ」

 花園中学は、頭がお花畑の人間が通う中学ではない。花園という地域に存在している、まともな中学校だ。その花園中の文芸部は、学校の人々から魔窟と呼ばれている。魑魅魍魎たちが巣くう、アングラな活動の場所だからだ。

 そんな文芸部に、二年生の僕、榊祐介は所属している。そして中学二年生の常として、厨二病に脳を汚染されている。そんな僕が、部室でやっていることは、備品のパソコンで、ネットを巡回して、何の役にも立たないネットスラングを調べて喜ぶことだ。


 ああ、虚空から声が聞こえてくる。「そんなことをしているから、駄目人間なんだよ」と。でも、いいじゃないですか。僕は、この活動に青春を打ち込んでいるんです。スポーツとネット巡回。方向性は違えど、情熱の多寡では負けることはありませんよ! ……ええ、分かっていますとも。僕はダメ人間ですよね。いいんです。それが僕の生き様です。


 そういった人間のクズばかりの文芸部にも、人格が優れた人が、たった一人だけいます。この魔窟に住む、聖女のような方。闇の世界に咲く、可憐な一輪の花。それが、僕の意中の人、三年生の雪村楓先輩です。楓先輩は、三つ編み姿で眼鏡をかけている文学少女。家にはテレビもなく、活字だけを食べて育ったという、純粋培養の美少女さんです。そんな彼女は、この部室で、一人で文芸活動にいそしんでいます。


「サカキく~ん。ネット詳しいわよね。教えて欲しいことがあるの~」


 間延びしたような声が聞こえてきて、僕は振り向いた。一度も茶髪にしたことのない美しい黒髪。その髪を、毎日整えて、きっちりとまとめている三つ編み姿。顔には眼鏡をかけていて、その下には美しい顔があり、目がきらきらと輝いている。体は細く、少し貧乳だ。文学少女といった、はかなげな雰囲気が漂っている。ああ、抱きしめて愛の告白をしたい。楓先輩は、この闇の部室の中で、唯一光を放つ女神のような存在です。僕はその先輩に、イケメンボイスで声をかける。


「どうしたんですか楓先輩? ネットで、何か面白い言葉でも見つけたんですか?」


 僕は知っている。先輩は、最近ノートパソコンをお父さんに買ってもらった。文芸部の原稿を清書するために必要だったからだ。そして先輩は、そのパソコンをネットに繋いだ。切っ掛けは、オンラインの辞書を使うためだった。そして先輩は見つけたのだ。ネットの海に、大量の知らない言葉が存在することを。そして現在、ネット初心者の楓先輩は、ずぶずぶとネットの罠にはまりつつあるのだ。


「ネカマって何?」


 おうふっ。僕は思わず声を上げそうになる。えっ、なぜ、声を上げそうになったかだって? 普通に用語解説をすればよいだろうだって? それはね、主観が入らなければ可能だよ。でもね、僕はその「ネカマ」という言葉に、思い入れがあるのです。だって僕は、人生のある時期に、ネカマとして活動して、ネットの世界でちやほやされていた経験があるんです。


「どうしたの、サカキくん。顔が強張って、額に汗がにじんでいるよ」


 先輩は、心配そうな顔で僕の横にちょこんと座り、手の平を僕の額に当ててきた。先輩の顔が、僕の鼻先数センチのところにある。ほのかな女性の香りが、体温で空気に漂い、僕の臭覚細胞を心地よく刺激する。ああ、リアル美少女はいいなあ。くんか、くんかしたい。僕なんかが、先輩と同じことをしたら、「キモオタ臭い死ね」とか言われて、追い払われますよ。

 僕の額にしばらく手を当てていた先輩は、首をひねって手を放す。そして、僕の顔をじっと見て、口を開いた。


「熱はないみたい」

「ええ、いたって健康です」

「それで、ネカマって何?」

「それについて語るには、ジェンダー論から始めなければなりません」


 僕は、自分がやっていた行為がばれた時に、正当化するための伏線を張ろうとする。自分の所業が、蔑まれるような、やましい行為ではないことを、先輩の脳に刷り込んでおこうと画策する。そうしておけば、僕がネットで女性を装い、逆ハーレムを作っていた事実が発覚しても、先輩は僕と普通に接してくれるはずだ。


「サカキくん。ジェンダー論って、何だか難しそうね。私、がんばって勉強するから教えてちょうだい。そして、ネカマという言葉の正体にたどり着きたいの」


 先輩は、拳を可愛く握り、胸元に上げる。興奮しているのか、顔が少し上気している。ああ、先輩が性的な興奮状態になったら、どんな表情になるのだろう。僕はそんな不埒な想像をしてしまい、鼻血が出そうになる。駄目だ、駄目だ。僕は、自我が崩壊しないように精神を必死に保ち、説明を開始する。


「ジェンダーはですね、生物学的な性別とは区別した、社会的、文化的に作られる性別のことを指します。この性別には、社会での役割分担や振る舞い、言葉遣いなど、僕たちが普段目にしている男女の差全般が含まれます。

 この研究の嚆矢は、一九七五年に発表された、ジョン・マネーの『性の署名』になると言われています。このジェンダーの概念は、一九六〇年代後半から始まる、先進国のフェミニズム運動に多大な影響を与えました。

 つまり平たく言うと、僕が男子用の学生服を着て、男の子っぽくしゃべり、楓先輩が女子用の制服を着て、女の子っぽくしゃべる。そういった後天的に、社会や文化から獲得した性差のことを、ジェンダーと呼ぶのです」

「へー、サカキくん、詳しいわね。それで、ジェンダーとネカマ。それがどう関係するの?」


 先輩は、きらきらとした目で僕を見ている。いいぞ、いいぞ。先輩は僕を尊敬の眼差しで見つめている。これなら、僕が、「ジェンダーを体験的に知るために、社会学的な実験として、ネカマという行為を試みました」と告白するシナリオに導けるぞ。そういった筋書きならば、先輩は、よもや僕のことをトランスジェンダー的な恍惚を貪ろうとしていた、快楽主義者だとは思わないだろう。


「ジェンダーは、動物としての人間が脳内にインストールした、ソフトウェアと呼べる存在です。これは、置き換え可能な思考部品でもあるわけです。

 人間は、ペルソナという言葉で知られているように、それぞれの人生の局面や、仕事上の立場によって、その振る舞いや言葉遣いを変えます。たとえば、厳格な先生が、家では自分の子供に、赤ちゃん言葉で語りかけるといったことは、よく見られる光景です。

 そしてネットという空間では、肉体が隠蔽されて、文字だけで相手とやり取りする状況が発生します。その状況下では、外見から期待されるジェンダーが剥奪されて、人間は好きなジェンダーを、仮面のように被り、他人と相対することができるようになります。

 そういった、社会的な立場の変容によって、ネカマという行動パターンが成立するのです」


 僕の説明に、先輩は興奮する。


「サカキくん。何だか壮大な話になってきたね。人類の社会を一変させるような、大きな現象が、そこにはあるのね」

「そうです。まさに、人類に与えられた新たな空間における、人間の精神の解放が、そこでは起きているのです。そこでは人は、自分のペルソナをはぎ取り、別のジェンダーを仮想のペルソナとして被るのです。そのことによって、抑圧された現代社会のストレスから、解放されるのですよ!」


 僕の言葉に、先輩は目を見開いて感動する。


「すごい、すごい! そんなすごい言葉だったなんて! サカキくんは、ネットの達人よね!」

「ええ、マエストロです。ファンタジスタでも、巨匠でも、何でも好きな名前でお呼びください」

「そんなサカキくんは、当然ネカマを経験しているわよね!」

「まあ、たしなむ程度には」

「私もネカマをやってみたいわ! そのお勉強のために、部の備品のパソコンで、横に並んで実演して欲しいの!」

「ええ、お任せくだ……。……えっ?」


 僕の頭の中で、危険信号がピカピカと灯る。僕の、あの恥ずかしい会話の数々を、先輩の前で再現しろだって? 僕は、額から汗をだらだらと垂らす。きゃっきゃ、うふうふした、浮ついた会話を、先輩の前で書き込んで、文字で媚態を作らないといけないのか? そして、僕と同じような、ネット中毒者を引っ掛けて、逆ハーレムを作り、キーボードの前で、ぐふぐふと言わなければならないのか?


 僕は、隣に座った楓先輩をそっと見る。先輩はやる気満々で、僕に寄り添ってモニターを見ている。その男女並んだ姿は、リア充の恋人同士にしか見えない。しかし、これがリア充ならば、ここからキスに進み、あまつさえ胸に手を伸ばして、恋人の頬を紅潮させたりするのだろう。でも、僕がこれからしなければならないのは、オンラインゲーム辺りにログインして、女キャラクターの姿で、恥ずかしい台詞を書き込むことだ。


「ねえ、楓先輩。ネカマの実演をしないといけないですか?」


 先輩は、きょとんとした顔をしている。僕の、「社会学的なジェンダーの壮大な実験」という説明を、心の底から信じ切っているのだろう。仕方がない。僕は、気乗りしないまま、キーボードを叩き始める。


『こんにちゎ、ユウちゃんで~す。ひまー。誰かいない? うぇーん、相手してよ~~(泣』

『ねえ、暇なの? 暇なら、俺と一緒に、狩りに行かない?』

『わーい、よかったぁ、優しい人がいて。お兄さん、名前は?』

『ダンディーだよ。ユウちゃん、どこに住んでいるの?』

『さいたま~。さいたま~。ダンディーさんは、どこぉ?』

『東京だよ。今度遊びに来る?』

『うーん、駄目だよぅ。エッチ(きゃっ。それよりもさあ、狩りに行こうよぅ。ダンディーさん強いの?』

『まあね。レベル見てみそ』

『うわあ、すごい! 尊敬します! ダンディーさんすごいんですね。じゃあ、私を守ってくださいね! ダンディーさんは、私のナイトです!』

『おう、任せておけ! 何でもするぞ! ついでに、ユウちゃんの頭を、なでなでしてやろう』

『うわあ、なでられた!!!! えへへっ、ちょっと嬉しいかなぁ』

『おっ、反応いいな。もしかして、俺に気がある?』

『うーん。どうかな。少し? ほんのちょっぴり。えへへ。ダンディーさん優しいしね』

『ユウちゃんいい子だなあ。今度、東京に遊びに来なよ。案内するぜ!』

『うん、行くぅ! 行っちゃうっ! ねえ、ダンディーさんの携帯番号は?』

『XXXX-XXXX-XXXX』


 僕は、その携帯電話の番号を保存して、どや顔で楓先輩に見せた。楓先輩は、魂が抜けたような顔でモニターを見ている。あれ? どうも、先輩が期待していたものとは、違う会話を見せてしまったらしい。何がまずかったんだ? 僕は必死に考える。先輩の期待に応えるために、ちょっとハッスルしすぎたかなと反省する。


「先輩、ネカマについて分かりました?」

「サカキくん。こんなことをしていたら駄目よ。悪い人に付いていったら、大変なことになるわよ。非行の道に進んだらいけないわ」


 先輩は僕の両手を握り、必死に説得しようとする。どうやら僕が、ネットで男を引っ掛けていると思ったみたいだ。先輩は、両手を離したあと、もじもじとした様子で、僕を見上げてきた。


「それで、サカキくんは、男の人に実際に会って、デートをしたの?」

「いやいや、ちょっと待ってくださいよ! 僕はそんなことは、しないですよ!」


 しかし、堅物の先輩の誤解を解くことは困難だった。その日から五日ほど、先輩は僕がネットで男を引っ掛けないように、部室のパソコンに張り付いて、僕の活動を横から見続けた。おかげで僕は、性的なアングラサイトを巡回できなかった。僕は、隣に座る美少女の体温を感じながら、悶々とした日々を過ごした。

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