第6話「炉」

 花園中学は、頭がお花畑の人間が通う中学ではない。花園という地域に存在している、まともな中学校だ。その花園中の文芸部に所属している人数は、合計七人。三年生が三人に、二年生が三人、一年生が一人。そのほとんどが、「腐ってやがる。早すぎたんだ」とばかりに、中学生にしてすでにダメ人間として成熟している。

 残念ながら、僕もそういった腐臭を放つ人間だ。二年生になる僕、榊祐介は、厨二病まっさかりのお年頃だ。そんな僕が、部室でやっていることは、備品のパソコンで、ネットを巡回して、何の役にも立たないネットスラングを調べて喜ぶことである。

 そんなことをせずに、人生をまともに生きろですって? いえいえ、僕は真面目に、ネットを巡回していますよ。文芸部員の一員として、日々世界で産声を上げる、言語表現に目を光らせているんです。そして、巨大掲示板に学校から書き込んで、ドキドキしたりしているんです。


 そんな馬鹿ばっかりの文芸部にも、きちんとした人が一人だけいます。ゴミ捨て場に咲く、可憐な一輪の花のような少女。それが、僕の意中の人、三年生の雪村楓先輩です。楓先輩は、三つ編み姿で眼鏡をかけている文学少女。家にはテレビもなく、活字だけを食べて育ったという、純粋培養の美少女さんです。そんな、奇跡のような人が、この人間のゴミ捨て場のような、文芸部に所属しているのです。


「サカキく~ん。ネット詳しいわよね。教えて欲しいことがあるの~」


 間延びしたような声が聞こえてきて、僕は振り向いた。僕の愛しの人、心の中のマイハニー、楓先輩だ。先輩は、今日もとても素敵です。眼鏡の奥の目はきらきらと輝いており、僕への信頼と尊敬がにじんでいるような気がします。


「何ですか? またネットで知らない言葉を見つけたんですか?」


 ああ、このやり取りは地雷なのに。でも仕方がないなあ。僕は、先輩との日々の会話を思い出しながら笑顔を浮かべる。

 僕は知っている。先輩は、最近ノートパソコンをお父さんに買ってもらった。文芸部の文章を書くために欲しいとねだったそうだ。人生で、初めてのお願いだと言っていた。楓先輩のお父様が、どういった思いで、可愛い娘に、パソコンを買い与えたかは想像に難くない。

 先輩は、そのパソコンをネットに繋いだ。オンラインの辞書を使うためだ。その結果先輩は、ネットの海に大量の知らない言葉が存在することを知ってしまった。そして現在、ネット初心者の楓先輩は、ずぶずぶとネットの罠にはまりつつあるのだ。


「炉って何?」


 ぶっ! 僕にそのことを語れと言うのか。いや、語れないこともない。何なら、一晩膝を突き合わせて、炉の何たるかを語ることができる。だが、そんなことをすれば、先輩はドン引きだろう。そして僕の株が急激に下がる。ブラックマンデーの到来だ。僕は、大恐慌時代の失業者のように、部室で肩を落として、さまようことになるだろう。


「サカキ先輩。アホな答えはしないでくださいね」


 近くの机から、こちらを見ずに、少女が話しかけてきた。うっ、僕の苦手な相手だ。一年生の、氷室瑠璃子だ。冷血の女。冷たい視線の女。だが、瑠璃子ちゃんの特徴は、それだけではない。どう見ても、小学校低学年にしか見えないその外見。そして人形のように整った顔。その姿と、目付きと、きつい性格のギャップで、僕の友人の中には、「ぅゎょぅι゛ょっょぃ」「ロリ子たん最強!」などと言って、喜んでいる者もいる。


 だが、そういった受け入れ方は、僕はできない。そんなことを言えるのは、瑠璃子ちゃんの近くで生活していない人間だけだ。瑠璃子ちゃんは、僕よりも年下の癖に、僕をあからさまに見下して、僕の行動を矯正しようとしてくる。「もっと、きちんとしてください」とか、「もっと、ましな服を着てください」とか、「もっと、まともな本を読んでください」とか。

 瑠璃子ちゃんは、なぜか僕に厳しい。世話焼き女房のように、いつも小言を言ってくる。心が折れそうだ。僕の繊細なガラスのハートは、瑠璃子ちゃんの言葉の暴力で、いつも砕けそうになる。でも、僕は負けないぞ。そして、趣味と恋愛を両立してやる。毎日のネットスラング収集活動を続けながら、楓先輩に頼られる大人の男になるのだ~!


「楓先輩、瑠璃子ちゃんが邪魔なので、部室の隅の方に行って、話をしましょう」

「いいけど、どうして瑠璃子ちゃんが邪魔なの?」


 先輩は怪訝な顔をする。小首を傾げる先輩も可愛い。僕の目が義眼なら、そこにカメラを設置して、僕の目に映る先輩をすべて記録したい。僕は、そんなことを考えながら、先輩を連れて部室の窓際に移動する。なぜか瑠璃子ちゃんも付いてきて、僕の右隣に座って、むすっとした顔で、本を開いて、そのページに顔を向けた。

 なぜ、本を読むのに、僕たちの近くにやって来るのだ? 瑠璃子ちゃん一流の嫌がらせか? 僕は、ちょっと不機嫌になり、瑠璃子ちゃんに視線を向ける。瑠璃子ちゃんは、ちらりと僕を見たあと、さっと本に顔を戻して、耳を赤く染めた。

 くそっ、何を考えているのか分からない奴だ。まあいい、先輩に「炉」という言葉について、説明することにしよう。


「楓先輩は、スタンリー・キューブリックという映画監督を知っていますか?」

「知っているわ。『2001年宇宙の旅』で有名な監督よね」

「サカキ先輩! そこは、キューブリックから語るのではなく、そのものずばり、ウラジーミル・ナボコフから語るべきではないでしょうか?」


 瑠璃子ちゃんは、背中を向けたまま、僕の話の腰を折る。楓先輩は、僕ではなく、瑠璃子ちゃんに注意を奪われる。駄目だ。僕の方に振り向かせるためには、もっと激しく「炉」について語らなければならない。そして、楓先輩の信頼と尊敬を勝ち取るのだ! 僕は、そのことを胸に誓う。


 しかしまあ、「炉」といえば、この部室の中で、最も当てはまるのは、瑠璃子ちゃんだ。僕はそう考えながら、瑠璃子ちゃんとの出会いを思い出す。

 それは、小学二年生の時だった。僕はお医者さんごっこに興味があり、砂場でその相手を探していた。そこに、瑠璃子ちゃんが不機嫌そうにやって来て、「遊んであげないこともないけど」と言ってきた。

 何だよ、その態度はと思った。それでも、お医者さんごっこに付き合ってくれる貴重な相手ということで、瑠璃子ちゃんとお医者さんごっこをした。ただ、僕は、手術を経験したことがなかったので、主に触診だけだった。「はい、お腹を見せてください」「はい、聴診器で音を聞きますよ」そういったことをした覚えがある。


 そうこうしているうちに、瑠璃子ちゃんが僕に、どんな女の子が好きなのか聞いてきた。僕は耳年増というか、その頃から多数のマンガやアニメを見ていた。だから世の中に、様々な性的な嗜好があることを知っていた。上は女教師、継母、実母、お姉さん。下は妹、幼妻、幼女。いろんな対象があることを、聡明な僕は把握していた。

 僕は瑠璃子ちゃんを見て、彼女はどういった答えを求めているのだろうかと考えた。ここは紳士的な振る舞いとして、「あなたが僕のストライクゾーンです」と答えるべきだろう。その当時、瑠璃子ちゃんは幼女だった。今も幼女だけど、小学二年生の瑠璃子ちゃんは、正真正銘の幼女だった。だから僕は答えたのだ。


「うーん、幼女かなあ」


 その答えを聞いた瑠璃子ちゃんは、決心したような表情で拳を握った。


「分かったわ。私、幼女になる!」


 なる? 何を言っているんだこの子は、と思った。それから六年がすぎた。瑠璃子ちゃんは、幼女になった。いったいなぜだ? その間に何が起きたのか? そういえば、昔読んだ、園田健一の「ガンスミスキャッツ」というマンガに、そういった話があったような気がする。漢方の力で、成長を止めて云々。瑠璃子ちゃんの家は、漢方薬の店だ。

 ともかく、なぜか瑠璃子ちゃんは、僕に対して攻撃的だ。そして冷たい視線で、僕をにらんでは、視線で屈服させようとしてくる。僕は、その被害者なのだ。


 僕は意識を、現在の部室に戻す。僕の正面には楓先輩が、右隣には瑠璃子ちゃんがいる。そうそう、僕は「炉」について、先輩に語っていたのだった。


「『炉』という言葉はですね、ロリータコンプレックスの、ネット上の略称なのです。ネット上では、特定の言葉に、違う漢字を当てはめて、そこから一文字とか二文字に省略して、使うことがよくあるのです。

 ちなみにロリータコンプレックスとは、幼女や少女にのみ性欲を感じる異常心理のことです。この言葉は、瑠璃子ちゃんが語ったナボコフの小説から来ています。この小説は、キューブリックの『ロリータ』という映画の原作でもあります。

 あらすじをざっと語りましょう。中年の大学教授ハンバートは、ロリータという愛称の十二歳の少女ドロレスに、倒錯的な愛情を注ぎます。この話と同じように、幼い女の子に異常に執着して、好むような男性や、その心理のことを『ロリータ』あるいは『ロリータコンプレックス』と呼ぶのです。また、そういった男性の、性的対象になるような姿の女性のことも、同じ名称で呼ぶのです」


 完璧な説明だ。どこにも隙のない、華麗なる解説だ。僕は楓先輩が、尊敬の眼差しで僕を見てくれることを期待する。だが、その表情を見る前に、自分の手が、誰かに握られたことに気付いた。

 横を見ると、背中を向けたままの瑠璃子ちゃんが、僕の右手を握っていた。そして耳を、先ほどよりもさらに真っ赤に染め上げていた。えっ、どうして? 意味が分からず、僕は瑠璃子ちゃんの背中を見る。瑠璃子ちゃんは、僕に顔を見せないまま、楓先輩に語りだした。


「楓先輩。残念ながら、サカキ先輩は、その『炉』です。だから諦めてください」

「えっ? 諦める?」


 先輩は不思議そうな顔をして、きょとんとしている。僕も、飛び上がるほど驚いた。僕が炉だって? いや、確かにその素養があることは否定しない。しかし、それは、僕の性的嗜好の中では、それほど大きなものではない。まあ、それはよいとしよう。もう一つの台詞も謎だった。瑠璃子ちゃんは楓先輩に、何をどう諦めろと言っているのだ。僕は、瑠璃子ちゃんの手を振りほどき、勢いよく立ち上がる。


「先輩。僕は『炉』ではありません。健全な男子です。たとえば、そうですね。三つ編み眼鏡の美少女とかが大好きですよ。まあ、少し『炉』が入っているのは否定しませんが」


 何か陰鬱な気配を感じた。僕の横に座っていた瑠璃子ちゃんが、目に涙をたたえて、僕のことを見上げていた。顔には、悲しみの表情が浮かんでいる。目は、訴えるようにして、僕を見ていた。えっ、何? 何か悪いことをした? 瑠璃子ちゃんは、しばらくぷるぷると震えたあと、うぇ~ん、と本物の幼女のように泣き始めた。

 楓先輩は、膝を折って、瑠璃子ちゃんの頭を抱きしめる。そして、よい子、よい子と、頭をなでてあげる。えー、泣きたいのは僕なんですけど。僕は、意味が分からず、呆然とする。楓先輩は、瑠璃子ちゃんを抱きしめたまま、僕を見上げて口を開いた。


「サカキくんが、鈍いことはよく分かったわ。瑠璃子ちゃんは、サカキくんが好きみたい」

「えっ、えっ、ええっ?」


 瑠璃子ちゃんは、楓先輩に顔をうずめたまま、僕のズボンをちょこんと握る。そして、顔をこちらに向けて、涙で濡れた目で僕を見上げた。その顔は、とても可愛かった。楓先輩を愛する僕の心が、一瞬ぐらりと傾くぐらい、魅力的だった。

 楓先輩は、僕の手を引き、瑠璃子ちゃんの手を握らせる。そして、嬉しそうに、その様子を見た。


「お似合いのカップルね!」

「いや、そうじゃなく!」


 お似合いというか、これじゃあ犯罪者だろう。瑠璃子ちゃんは、頬を真っ赤に染めながら、体を寄せてくる。照れくさそうにして、目を逸らしている。えー、どうしてこうなった?

 その後、僕が一生懸命主張した「僕は炉ではなく、お姉さん趣味です!」という言葉に耳を貸さず、先輩は、とてもよいことをしたという表情で、満足そうに一日を過ごした。それから一週間ほど、僕は学校で、ロリコンとして後ろ指をさされ続けた。それは、あまりにも理不尽で、納得のいかない結果だった。

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