エッセイ 生きるということ
あの子のために一生懸命生きようとしたことがある。
そのあの子が何人いたかわからないが、少なくも五人は私にとって「あの子」である。
ともに少しでも時間を共有したあの子のために生きたいとおもった。
何かを失ったときそこにいた同じ思い出を持つ人物に夢を託すことはよくあった。
そこで私はうなずいた。
私の人生は私だけのものであり、決してあの子のためだけにあるものではない。
あの子のためにどんな人生を進めばいいのか、そんなこともわからない。
だから、静かにうなずくだけだ。
強いまなざしを向けられ、あの子のこと忘れないでねと言われたこともあった。
決して忘れるものではない。
今までの十年以上も、これからの何十年も、あの子たちを失ったことは私には大きなことだ。
生きるということは同時に失うことも意味をすると思う。
生きるということは新たに何かを得ることもできると思う。
あるあの子は歌が好きだった。
だから、あの子のために歌い続けよう。
けれど、あの子の大好きな歌を歌うことは容易ではない。
歌えば歌うほどあの子の思い出がよみがえる、もうあのハーモニーを奏でることはできないから、それは歌うことができないと知る。
それ以上の歌を求めるのであれば、きっとそこは踏み台だったがそれはもう踏み台ではなかった。
思い出をあふれさせて私らしさをかけるものになった。
あるあの子は面倒見の良い子だった。
泣けば笑わせて、辛ければそばにいて、笑えばもっと笑顔にしてくれた。
あの子のために私はあの子を忘れないようにしよう。
けれど、あの子の顔が思い出せないのがどんどん辛くなった。
気が付けばたくさんの「あの子」の名前と顔が消えていく。忘れてはいけないのに忘れていく。
私はあの子たちのことを忘れてはいけないのに。
そういう存在がいたということだけははっきり覚えているのに、それが誰だったかを鮮明に記憶しておくことができないなんてこんなにつらいものなのか。
でも、それが違いだった、私は生きている。新しいあの子に出会うたびに、あのころのあの子は消えていくものだ。
けれど不思議だ、忘れるということは、「必要のないことだった」と結びつけることが多くある。
けれど、ここでは「必要のないことだったから忘れた」いうわけではないのだ。
さらに言えば「過去のことだから」と言うわけでもない。
私にとってあの子を忘れるということは「あの子を失う」ことだと思っていた。
そして、「あの子が私があの子を忘れることを許してくれた」と思っていた。
心の中で生き続けています。
そうはいっても成長するわけでもなければ会話ができるわけでもない。
思想や、性格が私の一部になっていることはあるけれどはっきりとあの子が生き続けているなんて実感はできない。
失うからこそ生きるものがあって、生きているからこそ生きるものがある。
その答えがうまく表現できないのは、あの子と私が今会話できないからだろうか。
死ぬということは失うことではない。
生きるということは得ることでない。
生まれるということは価値のあることだ。
つらく苦しいとしても全うした人生で死ぬということはハッピーエンドだ。
精一杯全うしたあの子を、私はいつもあの子のためにとおせっかいを焼いていたのではないかと思う。
「生きるということ」は「私」だ。
人生の一瞬を共に過ごしたあの子は私の一期一会で得た財産だ。
顔名前を忘れてしまっても、あの子がいなければこんな私は出来上がらなかった。
死ぬことができなかった時。私はまだ全うしていないと知った。
もっとほかの方法で知れればよかったが、私はどうも実践タイプのようだ。
人を悲しませ、人を苦しませ、それでも知らなければならないことだった。
不器用な生き方かもしれない。
酷使することが多すぎる生き方かもしれない。
だけど、私自身のすべてで「生きる」。
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